第2話
それから数日後、退屈だった明斗の日常に変化が起こり始めた。
授業の間に、結羽がよく話しかけてくるようになったのだ。内容は本当にささいな日常のことや勉強のこと。
初めは面倒だったので相手にしなかった。遠くから聞こえる嫌味も気になる。自分がどう言われようともう気にならないが、結羽が巻き込まれるのは不本意だった。
だが彼女は少しもそんなことは気にしなかった。大きめの声で投げつけられる言葉もどこ吹く風、すばらしいほどの馬耳東風で受け流した。そんな結羽に明斗は呆れたり、ある意味での尊敬を禁じ得ない。
気が付けば今までの日常が大きく変わっていた。
「高科君、グラフの書き方教えて!」
「授業で今やったばかりだろ。ノートは?」
「はい」
「・・・芸術的だな」
頭をかいて照れ笑いをこぼす結羽の額に、明斗はノートの角で制裁を与えた。
「いったあい!何するの!」
「ただでさえ数学が苦手なくせに寝てどーすんだ!根性だせ!」
「出しきってますとも!・・・最初の十分できれるけど」
わあわあと騒ぐ二人の声はもうクラスになじんでいた。
「最近あの二人仲いいよね」
「この前結羽と一緒に高科君に化学教わったけど、すっごくわかりやすかったよ」
「へえ、高科君ってそんなことするんだ」
結羽の隣の席の女子がぼそぼそと話す。
「オレ昨日さ、教材運んでたんだ。それがめっちゃ重くてさー」
「もしかしてあの世界地図?あれホント重いよな。それで?」
「そしたらさ、高科がたまたまいて大丈夫か?なんて言ってきてさ。おっどろいたぜ、今まで話したことも無いのに。しかも一緒に準備室まで運んだ」
「ええ?アイツそんなことするんだ」
「高科って意外とさ・・・」
廊下にいた男子が、騒ぐ二人を見る。
「いいやつかもな」
放課後の誰もいない教室。そこで明斗はただ一人、ぽつんと座っていた。
「今日は来ないのか」
最近は放課後になると結羽がすぐに来るので、明斗は待つことが習慣になっていた。机上のノートや教科書を見下ろすと、新品同様だったそれらは折り目やメモで黒く汚れていた。ほんの少し前とここまで変わるとは、と驚嘆する。
結羽の席とロッカーには荷物が無い。もう部活へ行ったのだろう。
帰り支度を終え教室を出るとまだ日の光が白かった。まだ日の傾いていない時間に帰ることがやけに久しぶりに感じる。
駐輪場へ行くため体育館裏を回ろうとしたとき、その辺りから怒鳴り声が聞こえてきた。
「なんだ?」
もしや喧嘩かと早足に声のした方へ向かうと、当事者たちが見えた。
「た、退部ってどういう意味ですか⁉」
声の主がわかり、明斗の足が止まった。
見覚えのあるジャージ姿にポニーテールの女子と男性教師がいた。教師は確かバトミントン部の顧問で数学担当でもあったはずだ。
明斗はとっさに体育館の角に隠れた。二人の前に明斗の自転車がある。だが二人の間にの容易に入れない雰囲気のなかでそこまで歩いていく勇気は無かった。
教師は面倒そうに右手を振る。その手には一枚の紙。
「この前の小テストで赤点だったろう。その補習をやらせたが一番提出が遅かったのはおまえだ。部活との両立ができていないんじゃないか」
「それは、もっとがんばります」
「大会成績だって他の部員よりも低い。これ以上やっても伸びないだろうな」
結羽の表情が凍り付く。
「この二年、なにをやってきたんだ?数学も部活もなにも変わらないじゃないか。おまえはもういらない」
握りめられた両手が震えているのが、明斗にはっきりと見えた。
「才能がなかったんだ。あきらめろ。わかったらこれにサインをして明日の朝にもってこい」
固まっている結羽に教師は紙を押し付け体育館へと入っていった。
一人になった結羽はゆっくりと両手で顔を覆った。ぐしゃりと紙を握りつぶす。
「・・・そんなこと、わかってる。だからこそ、私は・・・!」
壁越しに会話を聞いていた明斗は耳を塞ぎたくなった。
やはりどんなに必死に努力しても、必ず結果がそれに見合うとは限らない。
角からそっと顔を出して結羽の様子をうかがう。
彼女は両手で顔を覆いうつむいている。こちらに向けられた背中がやけに小さいので、何か声をかけなければと思う。でも言葉が何も浮かばない。
「うーんとぉ・・・」
ぐしゃぐしゃと髪をかき回しなんとか単語をひねりだそうとする。しばらくそうしてから、ゆっくりと手を下した。上を向いて苦笑する。
「本当だ。ばかだなぁ、俺は…。こんなときにかけるべき言葉もうかばねえ」
明斗は壁に寄りかかってしゃがみこみ、目を閉じると耳を澄ませた。
放課後の体育館裏は驚くほど静かだ。さわさわと揺れる葉、ひゅうひゅうと通る風、そしてグランドからかすかに届く生徒たちの声。
それらしかない世界はひどく頼りない。
「…よし」
目を開けると明斗は立ち上がった。この静かで寂しい場所に、いつまでも結羽を一人にはしておけない。
深く深呼吸をして一歩を踏み出したとたん、反対側からその結羽が飛び出してきた。
「うわっ!」
「…っ!」
二人は真正面からぶつかりあった。
まったく予想していなかった衝撃にこらえきれず、明斗は腰から地面にひっくりかえった。
「…ごめん」
したたか打った腰を涙目でさすっていると、上からかぼそい声がした。ずれた眼鏡を持ち上げると、今にも泣きだしそうな結羽の顔が見えた。手にはくしゃりと握られた紙。
「本当に、ごめんね…」
「いや、別に…大丈夫だ」
明斗はなぜかその顔を見ていられなかった。土を払いながら立ち上がると、結羽の顔の方が下の位置になり見えなくなる。それにやけにほっとした。
結羽はうつむいたまま明斗の横を通り過ぎる。
揺れるポニーテールを目で追い、声をかけようとした途端、突風が吹き抜けた。
「あ…っ!」
その強さに反射で目を閉じた明斗の耳に結羽の声が響く。
風はすぐにおさまった。
目を開けると、結羽がうろうろしながら空を見上げている。その妙な行動に眉をひそめ彼女の視線をたどると、青い空を背景に白いものがひらひらと舞っていた。それは体育館裏から中庭の方へとひらめいていってしまう。
結羽はそれを慌てて追いかけ、つられて明斗も走り出した。見失わないよう顔を上げながら二人は中庭への細い通路を駆ける。
「なあ、葉桐。別にあれを追いかけなくてもいいんじゃないか?失くしたってことにすれば…」
言ってしまってから明斗は急いで口をつぐんだ。先ほどの会話を立ち聞きしてしまったとは、なぜか知られたくなかった。
「…そういう手もある、けどさ」
前方を走る結羽の顔は明斗からは見えない。けれども結羽は明斗の台詞の違和感には気づいていないようだった。
そのうち紙は舞うのをやめ、下へ下へと落ちてきた。ひらりひらりと法則性の無い動きに二人はあちらこちらへと奔走される。やがて力尽きた紙が選んだ休憩場所は、不運なことに校内一の桜の巨木だった。頂点が四階まで達しているその中間あたりに見事に引っかかってしまった。
「嘘でしょ、あんなところに!」
「ありゃ梯子でもないと届かないぞ」
木に駆け寄った二人はそろって上を見上げた。
「風で落ちてくれたら楽なんだが…」
脚立を借りてくるか、落ちてくるのを待つか。明斗は顎に手を当てしばらく考える。
だがその思考は途中で断ち切られた。
「おい、葉桐!危ない落ちるぞ!」
結羽が頭上の枝に手をかけよじ登ろうとしていた。幹の凹凸に足をかけ上体を起こし、さらに上の枝へと手を伸ばす。
それを明斗はただはらはらしながら見守ることしかできなかった。
順調に上へと向かっていた結羽だが、生い茂る葉によって距離感が狂ってしまい伸ばした腕が枝を掴み損ねた。指先が枝をかすめたのを感じた途端、身体が沈み他の枝を掴む暇もなく落下する。
「葉桐!」
明斗の悲鳴と同時に落下音が響いた。葉や折れた枝がはらはらと散る。
その下で結羽はうめいた。顔をゆがめ何度かせき込む。とっさに頭を上げたため頭部に痛みは無いが、代わりに背中を強打し息が詰まって起き上がることができない。
「大丈夫か?頭は打ってないか?」
そばへ走り寄った明斗は膝をつき血の気の失せた顔で結羽を覗き込んだ。すばやく目を走らせ目立った外傷がないことを確認する。他に痛むところが無いか聞こうとした明斗は、結羽の顔を見て息を止めた。
結羽の目から大粒の涙がこぼれていたから。
「どうした、泣くほどどこか痛いのかっ」
「ち、がう」
「じゃあなんで…」
「くや、しい…っ!」
明斗の視線を遮るように、結羽は右腕で目元を隠した。
「才能がないことくらいわかってる。勉強も足りないこともわかってる。それでも…っ!」
一際大きく結羽の細い身体が震える。
「それを理由にあきらめるなんて嫌なんだ…っ!」
震えながらつむがれたその声は、まるで心を握られ絞り出されたもののようにかすれていた。
「どんなに結果が出なくたって、努力すればなんとかなると思ってた。途中で投げ出すことはしたくない。そんなことしたら、それこそこの二年間を否定することになるから」
突然の告白に明斗は動けない。他人の心の内をこんなに生々しく聞くことは初めてだ。
「この二年間何をやってきた?って…、なにも変わらなかったって…っ。すごく、悔しくて、悲しい…っ!」
喉の奥から迸りそうななにかを押さえようと結羽は必死に口元を覆った。だが押さえきれないそれらがあふれ出て頬を濡らしていく。
しゃくりあげている結羽の横に座り込んだ明斗は桜の樹を見上げた。
今はもう薄紅色の花は全て散り、目に沁みるような青葉をたくさん蓄えている。その端にちらちらと白い紙が見えた。
手をどんなに伸ばしても、爪先立ちで背伸びをしても届かない位置にあるそれ。きっと結羽はいつもあの紙を目指して精一杯もがいていたのだろう。それを、心無い一言によって切り捨てられてしまった。今の結羽は立ち上がることを忘れ、ただ大粒の涙を流し、座り込んで上を見上げているだけだ。
その横にいる自分にできることはなにか、明斗は胸の内に静かに問うた。
「…それで、このまま部活やめるのか?」
思考よりも先に声が出ていた。自分でもなにを言うつもりなのかわからない。
「もしやめるとしたら、おまえは万年数学赤点の誰かよりわからずやと言われた俺よりもわからずやだ」
流れるようにまくしたてると明斗は立ち上がり桜へ近づく。
「俺は一人で取り残されたくはなかったけど、何もしなかった。どうにかしようと努力することなんて無駄だと思ってたからな。おかげでかなり…寂しかった」
結羽は赤く腫れた目を見開いて明斗の背を凝視した。確かに彼は休み時間も放課後も、いつも一人だった。それは彼が好んでやっているものと思っていたし、こちらから声をかける機会もなかった。
「でもおまえは違った。置いていかれるのが嫌だから努力すると言った。俺とは真逆の考えですぐには受け入れられなかった。…でも」
明斗は桜の幹に手を当て振り返る。上体を起こした結羽と目が合う。ここ数日のさまざまな光景が脳裏に浮かぶ。
二人で机を挟んで消しゴムをすり減らした。時にはさらに一人二人増えてたわいのない会話をした。帰り際にグランドで声を張り上げる姿を見た。それら一つ一つが浮かんでは、明斗の心の一番暖かい所へしまわれる。
「そんなおまえを見て、そういうのもありかなって思ったんだ」
そう言って浮かべた笑みは、結羽が今まで見てきたものとはちがう、何かが吹っ切れたようなすがすがしい笑みだった。
それにつられるようにして、結羽もくしゃくしゃの笑みを浮かべた。つうっと頬を滑った雫がきれいだと明斗は思った。
その雫が地面に落ちる前に明斗は桜の樹へと手を伸ばした。頭上の枝を掴み幹に足をかけ一気に上体を上へ引っ張りあげる。思ったよりも腕にかかった負荷が大きく明斗は苦笑した。
「木登りなんて、小学校以来だ」
つるつるとする表皮や視界を遮る細かい枝葉に苦戦しながらも上の枝へと上がっていくと、やがて目指すものが見えた。明斗がいるのは幹に近く太くて安定したところだが、用紙は段々と細くなる枝の先端にあった。深く葉と枝の間に挟まっている。明斗は試しに枝を足でゆすってみたが落ちる様子は無い。覚悟を決めると思いきって枝の先端へと足を伸ばし、左手で頭上の枝をしっかりと握りしめ右手を伸ばした。
以前の自分だったら手を伸ばすことは無駄だと思い、それどころか樹に登ろうとすらしなかっただろう。でも今は自分の意志でこんなところにいる。それはこの樹の根元で座り込んでいる彼女のせいだ。彼女に出会い、自分とは正反対の考えを知り、そしていつの間にか影響されていたのだ。だから柄にもなく辛い思いをして必死に手を伸ばしている。遠い昔に取り落としてしまったものを取り戻し、彼女と笑い合うために。
明斗の指が用紙の角に触れた。細心の注意を払ってそれを指先で手繰り寄せて掴み取る。ゆっくりと後ろへ下がり幹に背を預けて座り込んだ。落下しなかった安心感と手の中にある達成の感触で力が抜ける。
ふと下へ目を向けると心配そうに見上げる結羽と目が合った。
「取れたぞ」
明斗は少しよれた用紙を見せ会心の笑みを浮かべた。それを見て結羽の瞳がまたうるんだがすぐに笑みが広がった。
「降りるとき気をつけて」
「ああ。うわ、けっこう高いところまで登ってたんだな…」
木登りは降りるときの方が気を遣う。さらに右手がふさがっていることもあり明斗は少しずつゆっくりと降りていった。それでも地面が近づいてくると油断したのか足が滑り、身体を支える間もないまま落下してしまった。
「しまった…っ」
「高科君!」
今度は高い悲鳴とともに落下音が響いた。結羽のすぐ横へうずくまった明斗はふがいなさと羞恥と妙なおかしさで笑ってしまう。
「た、高科君大丈夫?眼鏡とか…」
「無事だよ、眼鏡はな。代わりに腰が痛い…」
慌てて明斗の顔を覗き込んだ結羽は彼が笑っているのを見て、頭を打ったのではと本気で心配した。その誤解を解くため明斗は起き上がると右手に握った成果の証を結羽へ押し付ける。
「ほら」
「これは…その…」
今頃になって結羽はその用紙の意味することを思い出した。そして彼はそれがなにか知らないはずだ。どんな顔をすればよいかわからず結羽はうつむく。そんな彼女の心情に気付いた明斗はすばやく思考を巡らせると口を開いた。
「よくわからないけど大事なものなんだろ?切れなくてよかった。なんか必死そうだったからつい追いかけちまったけど迷惑だったかな」
「そんなことないよ!これは…」
「いいから気にすんなって。数年ぶりに木登りした俺だって取れたんだ。今までやってきたことは、無駄になんてしないんだろ?」
明斗の言葉に結羽は目を見開き、彼と用紙を交互に見てくしゃりと顔をゆがめた。また泣き出してしまうかと一瞬身構えた明斗だが、涙を目に溜めたまま結羽はそっと用紙を受け取った。
「ありがとう高科君。私は一度落ちちゃったけど…もう少しがんばって登ってみる」
「おう。…がんばれ」
濃い夕陽が差し込む中庭で二人は笑いあった。
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