夕焼けの坂道

川瀬 水乃

第1話

今日も退屈な一日が始まる。

 「ねえ、昨日のテレビ見たあ?」

 「見た見た!ショウ君かっこいいよね!」

 「げ、部活で外周の日じゃん」

 「めんどくせーなー」

 「さっきの小テストどうだった?」

 「んー簡単だろあんなの」

 教室で一番後ろの席はクラス全体を見渡せる。その分聞きたくもない雑音まで聞こえてしまう。集中できない状態の読書ほど気持ちがささくれるものはないだろう。まだ冒頭の数ページしか読んでいない本に栞を挟む。それと同時に鳴り響いた朝のチャイムで、高科明斗のため息はかきけされた。


 教師の声は子守歌、チョークの音は時計の秒針。

 クラス全員授業を神妙に聞いているフリをして、机の下ではやりたい放題好き勝手だ。

 スマホをいじる奴、漫画を読む奴、音楽を聴く奴、時々いびきをかいて爆睡する奴。

 教室の中はまるで静かな無法地帯だ。

 「高科!問六を答えろ」

 顔を上げると黒板に問題が書いてある。今やってる単元の応用問題だ。

 「Aイコール2、Bイコールマイナス2、Cイコール6分のπプラス3分の2πイコール6分の5π」

 教師の顔が引きつった。手に持ったワークブックに一度視線を落としてから忌々しそうな目でこちらをにらみつける。

 「・・・正解だ」

 途端にクラス中がざわめき始める。

 雑音をシャットアウトするため目を閉じる。あの問題は昨日予習でやったところだった。それがたまたま出ただけのことだ。何をそんなに悔しがり、驚くのかわからない。

 「さっすがマジメだねえ高科クンは。教科書なんてなくても大丈夫ですってか」

 「あいつなんで学校いんの?」

 まったくだ、なんでこんなところにいるんだろうな?俺は。


 高科明斗は学問に対して俗に言う天才だった。幼いころから周りから飛びぬけて賢く、今では全国模試一位をキープし続けている。

 だが彼は何もせずに天才となったわけではない。まだ小さいうちからわからないことを調べることが好きだった。そこに生来の賢さが加わり理解できるようになっただけなのだ。

 始めは両親から褒められたり同級生に頼りにされたりなどして、嬉しくもあり優越感もあった。でもいつからだろうか、両親の期待の目が重荷になり始め、友人たちが離れていった。それ以来一生懸命やってきた勉強のことでいじめられるようになった。身に覚えの無い誹謗中傷は気味が悪く、また悲しかった。

 そのうちに明斗の中で一つの結論が出た。

 努力なんて無駄なだけ、一生懸命に頑張れば笑われる、仲間外れにされる。それならばなにもしないことが一番なのだ。



「・・・あ、しまった」

 下校途中明斗は声をあげた。自転車の籠に入れている鞄を探ったところ、数学のノートを忘れてきたことに気付いたからだ。帰り道の半分を過ぎたところだ、無くてもかまわないがどこか居心地が悪い。

 「面倒だなあ」

 ため息をつきながら明斗は自転車を方向転換させた。


「じゃあねー結羽、頑張って!」

 「裏切者―っ!!」

 笑いながら去っていく友人に向かって叫んだ葉桐結羽は机の上を睨みつけた。そこには氏名欄以外が空白の数学のプリント。

 「これ終わらないと部活行けないとか、そんな殺生な・・・」

 結羽はバトミントン部に所属している。普段のこの時間は体育館にいるが今日は違った。先日行われた数学の小テストで赤点を叩き出してしまったため、その補修としての課題と戦っているからだ。始めのうちは十人以上いた仲間も次々に課題を終え、気づけば教室に座っているのは結羽一人だった。

 「なんで私はこんなに数学できないんだろう・・・」

 自分で自分が情けなくなってきた結羽はプリントの上につっぷした。ポニーテールにされた黒髪が肩から顔の横へサラリと流れる。

 そのまま静寂が教室内に満ちた。

 「・・・は、いやいやこのまま寝たらまずい!」

 勢いよく跳ね起きた結羽は落としかけたシャープペンシルを持ち直し、

 「よし、やってやる!」 

 ジャージの袖をまくってのろしをあげた。

 どれほどたっただろうか、突然教室の扉が開いた。

 驚いて結羽がそちらへ顔を向けると、高科明斗が入ってきた。彼はまっすぐに一番後ろの自分の席へと向かう。

 「どうしたの?」

 結羽はつい声をかけた。

 「うおわっ!」

  すると明斗は肩を跳ね上げて結羽を見た。結羽の席は窓際の一番前。ちょうど明斗の視界に入らなかった。

 「ご、ごめん。驚かせちゃった?」

 結羽の知る高科明斗は成績優秀で物静かなクラスメートだ。話したことも無く今まで接点がなかったので、あんな声を出すとは知らなかった。

 一方の明斗はずれた眼鏡を押し上げて、自分にいきなり声をかけてきたのがクラスメートだと確認した。確か彼女はバトミントン部で、いつも楽しそうに友人たちと笑っている。休み時間には読書しかしない自分のような人間とは真逆だ。

 「べ、別になんともねえよ。ただ忘れ物を取りに来ただけだ」

 「そうなんだ。ちなみに何を忘れたの?」 

 「関係ないだろ」

 そそくさと目当てのノートを見つけると鞄につっこんでさっさと教室を出ようとした。  

 その様子をぼんやりと見ていた結羽の頭に天啓がひらめいた。

 「そうだ!高科君、ひまだったら数学教えて!」

 「・・・断る!」

 一瞬の逡巡ののちに出たのは短い否定の単語だった。 

 「えっと、少しでいいの。五分くらい」

 「面倒だし、俺には教える義務はないだろ」

 「そこをなんとか。これが終わらないと部活に行けない・・・」

 「断るったら断る!自力でやらないと意味ないだろ!」

 扉に向かって歩き出す明斗に慌てた結羽は、プリントをつかんだまま椅子から立ち上がり駆け出した。そのまま明斗と扉の間に滑り込む。

 「うわっ?!」

 いきなり目の前に飛び出してきた結羽に明斗は慌てて扉から手を離した。結羽と明斗の身長差は約頭一つ分。その少ないようで以外と大きい視線の差を、突き出されたプリントが遮った。

 「高科君ならわかるでしょ?お願いだから教えて?でないと永遠に部活に行けないの!!」

 明斗は必死の形相で叫ぶ結羽に耳を塞ぎながらも反射的にプリントを見る。

 そこの解答欄は真っ白だった。余白の部分には途中までの方程式が乱雑に詰め込まれている。

 教科書の例題から抜き出された基礎問題。どれもこれも授業で目にした記憶のあるものばかりだ。

 頭痛を押さえる様な仕草をした明斗に、結羽は必死に現状を訴える。

 「この問題のXが2でそれを代入するところまでは分かったんだけど、そこから先が変なことになっちゃって。だんだんとこのXがバッテンにも見えてきて・・・」

 肩を落とす結羽にさすがに心が動いたが、かけようとした声は音にならなかった。ここで自分が言った言葉を彼女が軽蔑の言葉ととるかもわからない。

 だから明斗は別のことに意識を向けた。

 「そんなにわからないなら回答を見ればいいだろ」

 「それがあったら警察はいらないよ!」

 「用途がちがう。ノートは?」

 「ちょうど寝てたみたいで書いてない・・・」

 明斗にはわからなかった。そこまでして問題に取り組む結羽が。

 「わからないならさっさとあきらめればいいだろ」

 なんでそんなにがんばれるんだ。

 「そんなにがんばったって、理解できないなら無駄になるだけだ」

 一生懸命やったところでむなしくなるだけなのに。

 それを聞いた結羽は目を吊り上げた。上目遣いににらみつけ、口をとがらせる。

 「無駄になんてしないよ。このわからずやめ」

 「・・・わからずや?」

 「万年数学赤点の私よりもわからずやだよ」

 わからずや、とは一般的には物事の道理のわからない人のこと、または聞き分けのないこと。

 唐突な言葉に明斗は混乱した。ついそれを脳内の国語辞書と照らしあわせる。

 そのわずかな間、下から睨みつけてくる結羽の目が怒っている。

 「私は数学苦手だから人一倍時間をかけないと解けないの。いつも置いてかれないように必死になってる」

 結羽にはわからなかった。そんなにすぐにあきらめろと言いきれる明斗が。

 「そりゃすぐにあきらめたら楽だよ。でもそれじゃあ身につかないでしょ?だから時間がかかろうと理解できるように、置いて行かれないように努力してる。それを簡単に無駄とか言わないで!」

 二人きりの教室内で高い声がこだまする。

 窓から入った西日に結羽の怒気をたたえた表情が照らされる。その強いまなざしに気おされ、眼鏡の奥の瞳が一瞬ゆがんだ。

 「・・・正直、置いてかれるって感覚はよくわからない。でも」

 一人で歩く通学路、誰とも話さない休み時間、遠くから投げつけられる言葉のつぶて。

 「取り残される寂しさは、わかってるつもりだ」

 置いていかれるも取り残されるもある意味同じだ。自分の周りからいつのまにか人が消え、気づくとそこには自分独りきり。

 そう考えて、ふと明斗は自分も目の前の彼女も似たようなところにいるのではと考えた。まったく同じではないけれど、どこかで重なっている。

 そんな小さな発見に満足した明斗は、結羽からくしゃくしゃになったプリントを奪い取ると、窓際の彼女の席へと向かった。その前の席に陣取ってくるりと腰を回すと、転がっていたシャーペンを借りてプリントの隅にいくつかの公式を書きだす。

 「えっと・・・高科君?」

 突然の明斗の行動に呆然と突っ立ったままな結羽に明斗はぶっきらぼうに声をかける。

 「早く来いよ。一回しか教えないからな」

 数回まばたきをして結羽は苦笑しながら自分の席へと向かった。向かい合わせに着席してプリントへと視線を落とす。

 「ここのXは2じゃなくて6だ。移項をまちがえてる」

 「あ、ホントだ」

 「それとこの公式自体が間違いだ。正しく覚えないと公式の意味が無くなるだろ」

 「気をつけます」

 「Xがバッテンとか重症だろ、今度の休みに眼科行け」

 「失礼な。視力は両目ともに2点ゼロです」

 空白の欄が少しずつ埋まっていく。

 「確かこの問題、一週間前に別の単元で簡単な解法をやったはず。ちょっとノート見せてくれ」

 「わかった」

 すぐに頭が机の横へとひっこむ。机の中に腕を突っ込みながら結羽はつぶやいた。

 「高科君って意外と優しいんだね」

 なかなか見つからないのか結羽は覗き込みながら手を動かす。そのためぽかんと口を開けた明斗の表情を見ることはなかった。

 面と向かって優しい、などと言われたことは今まで無い。妙に背中がむずむずする。それを隠すためつい反論した。

 「こ、こんな基礎問題で迷走してるおまえがばからしくてだな」

 「すいませんね迷子のバカで。じゃあなんで教えてくれるの?」

 「それは・・・」

 明斗にもわからなかった。ただ不思議と嫌ではなかったから。

 「ただの、ひまつぶしだ」

 そう答えるしかなかった。

 「そっか」

 「なに笑ってんだよっ。まだ見つからないのか?」

 「んーと、あった、一番上だった」

 やっと発掘されたノートをぱらぱらとめくる。

 「・・・葉桐、これ英語だろ」

 「え?ちゃんと数学だよ、なんで?」

 「だってこれ・・・」

 明斗は眼鏡をふき、きちんとかけ直し、もう一度じっくりとノートを見返す。

 「・・・・・・何語だこれは?」

 そこには理解不能な記号の羅列があった。Xがバッテンに見えると言う奴に眼科に行けといったが、自分も行った方がいいだろうか。

 「あ、それはその、ちょうど寝ちゃってたところかな・・・」

 結羽の目が泳いでいる。それを明斗はじっとり見つめ返した。

 すべてのページがそんな惨事になってはいないようだ。時々解読不可能な文字や謎の放物線が描かれているだけ。その時々の頻度が問題なのだが。

 見たことのない言語で書かれた魔術所を閉じて明斗はため息をつく。そして自分の鞄から先ほど取りに来たノートを取り出した。

 「ほら、俺のノート貸すから」

 「恩にきます・・・」

 頭を下げ恭しくノートを受け取る結羽のつむじを見ながら、明斗は小さく笑った。

 このノートを取りに来ただけなのに、こんなことになるとは。

 気が付けば、真っ赤な夕陽が教室全体を朱く染めていた。

 「高科君ありがとう!今度なにかお菓子あげるね!」

 結羽はよれよれになったプリントをひっつかみ教室をとびだした。それに軽く手をあげて、明斗は机にばったりとつっぷした。

 「疲れた・・・」

 顔の下には計算式がごちゃごちゃと書き込まれたノートの切れ端と大量の消しゴムのかす。それらが二人の奮闘ぶりを表していた。

 明斗はゆっくりと起き上がり戦いの後を片付けながら、結羽の言っていたことを考えた。

 「努力を無駄とか言うな、か」

 自分とは真逆の考えで、素直に納得できない。

 がんばってがんばって何かを成し遂げようと、それを否定されたらそこで終わりだ。それまで積み重ねてきたものが一気に音を立てて崩されてしまう。その崩れたガラクタの上に座り込んでしまった時の、心にぽっかりと空く虚無感。もう、あんな思いは御免だった。

 校舎を出て体育館裏の駐輪場へ向かう。オレンジの光が白い校舎を染め上げ、その朱さが目に染みた。

 自転車を引きながらグランド横を通り過ぎると、そこで部活動中の生徒たちが橙色の世界で動き回っている。その中に葉桐結羽もいた。 

 日陰にいる自分とグランドにいる彼女。同じ世界にいるはずなのに、ひどく遠くに見える彼女の姿が、とても眩しかった。

 

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