はかりごと
「部長、いまの金本くん、総合評価は何ですか?」
「6で『採用』だ」
「おぉ、高評価ですね」
「名前がいいからな」
「名前? あぁ、部長、阪神ファンですもんね。東京人なのに」
「名は体を表すって言うから、きっと休まずバリバリ働いてくれるよ」
梅雨前線の足音が聞こえはじめた六月の頭。冷房の効いていない会議室は湿気に満ちていた。壁の時計が十六時を示す。
「あぁ、もう時間か……ほんと、わんこそば食ってる気分だ」
愚痴をこぼしながら人事課長の倉本が席を立つ。
「呼ぶ前に冷房を入れてくれ。暑くてかなわん」
部長の岩清水がエントリーシートに目を落としたまま、ワイシャツの襟元を仰いだ。
「集中管理されてるみたいで、ここでは変えられないんですよ」
倉本はそう言うとドアを開けた。「次の方どうぞー」
入ってきたのは体格のいい男子学生だった。褐色の肌に、短く切り揃えられた髪、太い首。ラグビーだな、と岩清水は直感する。
「それでは、自己紹介をお願いできますか?」
「あ、はい! ◯◯大学経済学部四年の柿崎良太と申します。大学では体育会ラグビー部に所属しています」
案の定、彼はそう言った。この手の学生は、必ずと言っていいほど学業より先に部活動の話をする。その展開もだいたい同じだ。二年生で怪我をする。あるいは、上級生と下級生の間に軋轢が生じる。それを乗り越え、地区大会で優勝する。目の前の彼も、綺麗にその筋書きをなぞった。
『なんか……虚しいな』
不意にそのセリフが聞こえた。岩清水は驚いて顔を上げる。ラグビーの話は佳境を迎えていた。
――彼が言ったのか? いや、違う。これは俺の記憶だ。
* * * * *
残業を終えて乗り込んだエレベーターの隅に、懐かしい顔が立っていた。
「よう、久しぶり。仕事、忙しいのか?」
「こんな時間に帰ってるくらいだからな」
彼は疲れの滲んだ目元を緩めた。
元ラグビー部の彼とは、同期入社で初めて配属された製造所も一緒だった。デスクを並べ、三つ上の先輩から工程管理のノウハウを学んだ。時には先輩の独特な声色を真似して笑いながら、時には理不尽な指示に愚痴を言いながら、酒を交わした。いま思えば、会社人生で一番楽しい時期だった。
その後、別々の営業所勤務を経て、数年前にともに新橋の本社に異動してきた。同じビルで働いていても業務で一緒になることはほとんどなく、たまにこうして顔を合わせる程度だった。見るたびに、がっしりとしていた体の線が細くなっているように感じた。
「俺たちのやってることに意味あんのかな?」
終電間際の閑散とした地下通路を歩いていると、彼がそう呟いた。その頃、岩清水は経営層の理屈を通すための数字合わせや、外見ばかりを気にした美辞麗句を捻りだすことを延々と繰り返していた。話を聞けば、彼がしている仕事も大して変わりはなかった。要は、三十代半ばの気力にも体力にも溢れた貴重な時期を、価値を生み出さない仕事に浪費していたのだ。
「まー、ないよな。少なくとも俺たちがいなくても何も変わらない。でもよ、会社ってそういうもんだろ? 誰かがいなくなっても、その代わりに誰が来ても、同じように回る。よく練り上げられたシステムだ。巨大な機械みたいなもんだよ」
「俺たちはその歯車……か」
「歯車ですらないだろうな。ネジとかビスとか、そんなもんだろ。一つくらいなくなっても誰も気づかない」
改札を越えたところで別れた。二人とも家は神奈川方面だったが、路線が違った。向かう方向は同じなのに乗る電車が違うことを、その時の岩清水はなぜか奇妙に感じた。
「なんか……虚しいな」
別れる直前に彼がこぼした言葉は、妙に頭にこびりついて離れなかった。
その数か月後に、彼が会社を辞めたことを人づてに聞いた。
「あいつ、会社辞めたんだって?」
しばらくしてから、やはりエレベーターでばったり会った先輩が当時と変わらぬ声色で尋ねた。「もったいないよな。お前たち、もうすぐ管理職だろ? そしたら給料も多少上がんのにさ」
岩清水もそう思った。確かに楽ではなかったし、やりがいがあったかと言われれば疑問だったが、辞めるほどではなかった。
「まぁ、思い悩んで自殺とかしちゃうよりはマシか」
不謹慎な軽口に、岩清水は笑った。
* * * * *
――あれ、あいつの名前、何て言ったっけ? 辻口、辻本……辻……。
「最後に何か言い残したことがあればどうぞ」
気がつけば、面接は終わりを迎えようとしていた。
「えっと、体力には自信があります。御社に入社した暁にはバリバリ働きたいと思います。よろしくお願いします!」
ラグビー部の彼は、やはりどこかで聞いたことのある言葉を残し、部屋を出ていった。
「彼も頑丈そうですね」
再び二人きりになると倉本は言った。岩清水は深く考えずに、4と3を丸で囲んでいく。総合評価は「可」にし、『特筆なし。体力採用なら可』と記した。
「さてと、やっと最後ですね。お、女性か。呼びますね」
最後だからか、それとも受験者が女性だからか、倉本が心なしか軽やかな足取りで入り口へと向かう。
「どうぞ、お入りください」
開けたドアから小柄な女性が現れた。
岩清水は、おやっと思った。彼女の顔に見覚えがある気がしたからだ。エントリーシートの氏名の欄に目を移したのと、彼女が名前を発したのはほぼ同時だった。
「××大学国際教養学部三年、辻岡あすかと申します」
――辻岡……?
「それでは、まず当社を志望した動機を伺えますか?」
問いかけたのは倉本だったが、彼女はまっすぐに岩清水を見据えて口を開いた。
「はい。私は国内でもトップレベルの技術とシェアを持っていながら、それに満足することなく常に上を目指し続ける御社の姿勢にとても感銘を受けました。私が常日頃大切にしている……」
よくも悪くも月並みな内容だった。はきはきと論理立てて話してはいるが、表情が硬いのを倉本に指摘され相好を崩している。どこにでもいる女子大学生だった。
――まさかな。
面接はつつがなく進行し、そろそろ終わりの時間を迎えようとしていた。長い一日の終わりだ。岩清水は心の片隅でふぅっと息を吐いた。倉本がちらりとこちらに視線を送ってくる。何か訊きますか? そう問いかける視線だ。岩清水はわずかに眉を上げ、お前に任せるの意を伝える。倉本が小さく頷いた。
「では、最後に何か言い残したことはありますか?」
「あります」
そう言った彼女の声はこれまで以上に確信に満ちていた。「私の父は昔、御社で働いていました。三十代半ばで依願退職し、その後いくつかの職を転々としたのちに自ら命を絶ちました」
不意を衝かれた思いだった。額から噴き出す汗が、冷や汗に変わるのを感じた。
「遺書には『誰も助けてくれなかった』と書いてありました。誰に助けてほしかったのかはその時の私にはわかりませんでした。でも今はなんとなくわかります。こうやって人ひとりの価値をはかることですら、あなたにとっては単なる長くて退屈な作業に過ぎない。ましてや、潰れていく人間の価値など興味はなかったのでしょう」
「ちょ……ちょっと、きみ」
倉本が言葉を挟もうとするのを、彼女は遮った。
「『俺はネジやビスになるために生まれてきたんじゃない』 あなたの言葉ですよね? 『どこに行っても自分の居場所はなかった。あの時の言葉が忘れられなかった』 そうも書いてありました」
――まさか、あの時の言葉が?
「私は、ただ、父が抱えていた闇を知りたいんです。父が抜けられなかった闇を、自分は抜けられるか試してみたい」
「き、君はいったい何を……」
言葉を失う倉本の横で、こめかみを伝った汗が「総合評価」の欄にぽたりと垂れる。「採用」の文字がじわりと滲んだ。
彼女の口元がにやりと不吉に歪むのを、岩清水は見逃さなかった。
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