第七章

第七章

一子が長崎へ留学してしまったので、水穂さんの担当中間は再びおかつが担当することになった。

おかつは、何も文句をいうこともなく、水穂の世話を続けた。それをほかの中間たちは、どうせ中年のおばさんのやっている事なんて、かっこ悪いという馬鹿にした目で見ていた。

そんな、ある雨の降る晩の事。その日は、何だか強い雨が降って、養生所の一部でも雨漏りがする位だった。時々患者から、雨漏りの音がうるさくて困るという苦情が寄せられることもあるが、多くの中間たちは、そのくらい、家にいるときには我慢出来るでしょと言って、相手にしなかった。

患者さんの見回りは、夜も続く。みんなが寝静まった、真夜中でさえも、患者さんの見回りは交代で行われていた。そういうところが、中間という仕事になかなか人がつきたがらない理由でもあった。

そんな中、いつも通りに、一人の中間が、患者さんの見回りに、個室や大部屋を回っていた時のこと。一つの個室の前を通りかかると、そのふすまから、咳き込んでいる音が聞こえてきたので、中間は、急いでふすまを開ける。

「あの、大丈夫ですか?」

声をかけたが、患者は返答しなかった。中間が持っていた提灯の明かりで照らしてみると、咳き込んでいた患者は水穂で、敷かれていた三つ布団の一部が朱に染まっている。これは一大事だとわかった中間は、本間先生の寝ている部屋に飛び込み、

「先生!すぐに来てください!」

と叫ぶように言った。

「どうしたの?」

それを聞きつけておかつが目を覚まし声を掛ける。

「いえ、水穂さんが咳き込んで声を掛けても反応しないものですから。」

先生とおかつの顔色が変わった。すぐに本間先生はけたたましい足音をたてて、廊下を走っていく。おかつもその後についていった。

「水穂さん、どうしたんですか。」

本間先生がとりあえず声を掛ける。咳き込んだまま反応はない。体をたたいても反応はない。もしわかるようなら手をあげてくださいと声を掛けても反応はない。ただ辛そうな顔をして、咳き込んでいるだけであった。今であれば、痰取り機を使って、中身を出してやることは可能であるが、この時代は声をかけるか、薬を飲ますかの何れかしかない。おかつは、ああ、水穂さんもいよいよそうなるのかあとあることを連想した。でも、そうなってしまったら、一子が悲しむのではないかと思った。せめて一子には、その現場を見せてから留学させたほうが良かったのではないかとも思う。でも、見せないほうがかえっていいのではないかという気持ちもわいてきて、おかつはしきりとまよう。

「おかつさん。」

ふいに、本間先生の声がした。

「おかつさん、麻佛散を取ってきて。」

へ、そんなもの?という響きがあった。有れは、単に動きを止めてしまうだけの薬ではなかったのか。危険すぎるから、使わないでと師匠から言われたという薬を今使おうなんて、本間先生もどうかしたのだろうかと考えていると、

「早くとってきて!」

と強く言われた。

「でも、あれは単に、患者さんを動けなくさせて、眠らせてしまうだけでしょう?」

そう聞いてみると、

「うん。そうするしか方法もないんだよ!」

本間先生もイチかバチかの賭けに出ているなということがわかった。おかつは、それを理解して、

「わかりました!」

と薬品庫へ向かってすっ飛んでいった。

その間に、水穂さんの咳き込む音は、どんどんおおきく強くなっている。ほかの中間たちがなにが起きたんだと、野次馬根性でやってくるが、

「関係ない人は、引っ込んでいなさい!」

本間先生は厳しく指示を出した。

「先生!持ってきました!」

おかつが、不気味な色をした粉薬と、急須をもって、飛び込んできた。本間先生はそれを素早く急須の中へ入れて、粉から抽出した液体を飲ませるため、急須を水穂の口元へ持っていく。

「ほら、飲んで!」

おかつは、半分神頼みするように言った。

「大丈夫、飲んでいます。」

この時も、本間先生は冷静だった。本間先生から、急須を受け取って、暫くは咳き込んだままだったが、段々に静かになっていき、とうとう、周りには、眠っている音だけしか聞き取れなくなっていった。つまり本間先生の賭けは成功だったと言える。あの二枚目の後藤先生よりも、もっとカッコいいなとおかつは思った。

「よかった。無事に助かってくれましたね。」

おかつがそういうと、本間先生はまだ厳しい顔をしていた。

「いや、わからない。咳き込むことを何とかすることには成功したけれど、若しかしたら力尽きてしまうかもしれない。」

確かにそれもそうだ。大掛かりな治療をして、その後に力尽きてしまう患者さんは、おかつも目撃していた。

暫くおかつも本間先生もそのままでいた。しいんとした長い時間がたった。しまいにはおかつまで疲れてしまうような気がした。

「おかつさん、後は看てるから、休んでもいいよ。」

ふいに本間先生が言った。そのころにはもうおかつも半分居眠りをしているような状態であった。おかつは、自分もそばに居たかったが、もう眠気には勝てないという事を悟り、すみませんと言って、自身の居室に帰っていった。こういう所は、女性にはどうしても無理な所があった。そこは出来る人に任せておいた方がいい。

どこかで鶏が鳴いて、日が昇り始めた。周りが少しづつ明るくなっていく。居室に帰ったおかつは、疲れ果てていて、すぐに寝てしまったが、日が昇ってくるのと同時に目が覚めてしまった。すぐに寝間着から、普段の制服に着替えて、おかつは水穂さんのいる個室に行く。

「どうですか、先生。」

おかつが声をかけると、本間先生はまだ厳しい顔のままであった。

「ああ、まだ眠っているよ。麻佛散は、少なくとも一晩は効果のある薬だからね。目を覚ますのは、もう少し後になるんじゃないかな。」

現代の麻酔であれば打っても数時間で目が覚めるようになっているが、この時代の麻佛散というものは、一度飲むと8時間近くは眠ってしまうほどの長時間作用するものであった。なので一晩中ねてしまうことはざらにあったのである。

「おかつさん、この間に、ほかの患者さんも見てこなくっちゃ。中間とはそういうもんだって、ほかの者にも散々言っていたじゃないか。其れはいつでも何処でも守って貰わんないと困るよ。」

「あ、はい。」

おかつはそういわれて、急いでほかの患者さんの見回りに行った。本当は自分も水穂さんのそばに

居てやりたかったけれど、其れは中間という仕事上やってはいけないことだ。大体一人の中間は、一人だけの患者を担当すればいいのかというと、そういうことはない。一人の中間につき、担当患者は複数いることになっている。

朝ご飯の時間になっても、水穂さんは目を覚まさなかった。本間先生は、今日の外来は中止にしてくれと言って、水穂さんのそばにいた。そういうところが医療の難しい所だった。

朝ご飯の時間はとうに過ぎて、お昼の支度がそろそろできてきたかな、と思われたその時である。

ずっと眠っていた水穂さんの目が、しずかに開いた。

「水穂さん。」

目の前にいたのは、本間先生である。

「良かったねエ。やっと、目が覚めてくれましたか。」

水穂はなにか言いたげに大きなため息をついた。

「すごく咳き込んで、たいへんだったんだよ。本当に助かってくれてよかった。有難う。」

本間先生はそういうけれど、水穂はさほど嬉しそうな顔でもなく、また別の事を言いたげな顔をしている。

「どうしたんですか?」

本間先生は聞いた。

「いえ、、、。」

酷くしわがれた声で水穂は言った。

「なにか言いたいことでもあれば、言ってくれて結構ですよ。」

「どうして、、、。」

「どうして?」

本間先生は、そう聞き返す。水穂は、いうべきではないかと首をそむけたが、

「なにか言いたかったら、言えばいいのですよ。」

と、本間先生は言った。

「どうして、僕の事を助けたりしたんですか?」

水穂はしわがれ声でそう尋ねた。本間先生は、少し考えてこう答える。

「医者には、患者さんを助けるということは、当然の事だからです。其れは、医者であれば、誰に対しても同じことです。身分がどうであれ、同じことをしなければなりません。」

水穂は、身分という言葉を聞いてぎょっとする。

「知ってますよ。ここへ運び込まれた時の着物の柄で大体わかりましたから。でも、あなたは、身分がどうであれ、生きなけばなりません。あの、悲しがり屋の一子さんをああして長崎まで行かせることが出来たんですから、あなたは素晴らしいモノを持っているという事になる。そんな人を、放置して死なせる訳には行きませんよ。」

「先生。僕は、この時代には生きるべき身分ではないのではありませんか。」

水穂はそう尋ねるが、本間先生の答えは違った。

「いいえ、そんなことはありません。人間ですもの、生まれたからには生きていかなければならない

という使命があるのです。人間は、道具でもなんでもありません。たった一つの命なのです。それを忘れてはなりませんよ。」

「先生、、、。」

もう泣きそうになってしまった水穂であったが、本間先生はにこやかに笑って、水穂の右手を握った。

「確かに辛いことはあるかもしれませんよ。でも一緒に生きていきましょう。あなたには、生きていればいいことがあるという励ましも通じないかもしれませんね。でも、人間ですから、生きることを否定してはいけないのです。其れは、武士でも町人でも、あなたたちの身分でも同じことです。」


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