第六章

第六章

でも、そのためには問題が山積していた。それではいけないというか、まだ、自分はいけないような気がするのだ。

まだ、十分にここで勉強しているわけではないし、自分が看なければならない患者さんもいるんだし。こんな事、おかつさんに話したら、何だか声を出して笑われそうな、そんな気がする。

そのころ、おかつは、また見回りにやってきた与力さんとこんな話をしていた。

「そうかあ、今年は誰も行きそうな人はいないか。」

与力はがっかりとした顔をした。

「ああ、年々勉強したいと言って、目を輝かす若い子はいなくなってしまうようだよ。」

おかつもため息をつく。

「そうかあ、残念だなあ。俺たち位の歳になると、若いころにもう一回勉強したいなあっていう感情ばっかりになるのによ。若い奴は、其れは思わないのかねえ。」

「まあ、若い子が動き出すのはね、危ない時だけだよ。」

確かに、其れはおかつの言う通り、若い人間が動くのはそういう時である。最も動きやすいのは戦争の時であり、それ以外の時であれば、滅多に動こうとする若者はいない。

「全くなあ。俺たちのころは、そうでもなかったんだけどなあ。今の若い奴はねエ。」

しまいには、その与力がいうようなせりふが飛び交って、中には少数の意欲的な若者まで、つぶしてしまうこともあるのだ。そして、多くの年寄りたちは、そのせりふのもたらす功罪について、余り知らないことが多い。

そのせりふを、玄関の近くで聞いていた一子は、そんなことを言われる以上、自分はまだダメなんだろうなと思ってしまうのだった。やっぱり、しっかりと、上の人たちから認められてから、自分の夢をかなえよう。まだ、今年は見送ろうと決断した。

「其れよりさ、あの男はどうしている?」

ふいに与力がそんなことを言い出した。

「あの男って誰?」

「ほらあ、あの男だよ。何日か前に、俺のなかまがこっちへ連れてきた、あの役者みたいに綺麗な奴だ。」

「ああ。あの人ね。」

その答えを聞いて、おかつはまたため息をついた。

「ちっとも良くはならないよ。本間先生までこまってしまってね、幕府医として勤務している二枚目のお医者さんまで連れてきて。」

「へええ!あの二枚目の医者か!」

「そうだよ。その医者が持って来た薬のおかげで、しずかにしていられるような感じだよ。」

「そうかあ、まあ、結構重病だとは聞いたが、そこまで悪くなっているとは、知らなかったなあ。其れは本人だけでなく、おかつさんたちも一苦労なのではないの?」

「馬鹿!あんたに言われたくないよ。中間はそういう仕事でしょ。一苦労何て言っていたら、中間が務まらないよ。いい、中間というのはね、苦労をして当たり前の仕事なんだから、そういうことは言わないでもらいたいね!」

本当は、そういうことばを使うのが、本来の中間というモノであった。患者に対して、いう事を聞かないとか、苦労させるなとか、そういう愚痴を漏らす人は、はっきり言って、中間は務まらない。でも、最近の若い中間は、例外も多いのだが、、、。

「すごいねえ、おかつさんは。本当は、全部の中間がそうなってもらいたい物だけどねえ。だけど最近の若い中間は、矢鱈つんけんとして、愚痴ばっかりで、しっかり働かない人ばっかりだって、養生所からでてきた人がそう話していたのを、聞いたことがあるぞ。」

与力がおもわずそういうと、

「時代のせいかねえ。そういうモーレツに頑張る中間は、どこかにいなくなってしまった様だよ。患者さんにはそのほうがいいんだろうけどね。だけど、そういう子は今の子はいないねエ。」

と、おかつは言った。どうやら女というモノは、こういう愚痴を言い始めると、止まらなくなってしまうという癖があるようだが、

「ま、そんなこと言ってもしかたない。もし、頑張るんだったら、俺たちが手本を見せてやらなくちゃ。そういう若い子がいなくなってしまわないように、俺たちはだらけずに働こう。」

与力はにこやかに笑って、おかつの愚痴を止めた。


二人のやり取りを聞きながら、一子は今日も担当患者の世話を開始する。

「おはようございます。」

一子は個室のふすまを開けた。

「今日はどうですか?」

水穂も其れに気が付いて、うっすらと目を開ける。

「変わりありません。」

細い声でそれだけ答えを出した。

「たった其れだけですか。それでは寝間着取り替えますから、ゆっくりでいいですから、起きてくれませんか。」

一子は、水穂さんにおきてもらうように促したが、それはまだ無理そうだった。

「まあ、無理でしたら寝たままで結構です。」

とりあえず、布団をとって、丁寧に寝間着を取り、新しい寝間着に変えた。

「だいぶ良くなってきたじゃないですか。私が話しかけても咳き込まなくなったし。」

そこだけは一子も確信をもって言えることであった。あの、後藤先生が持ってきた薬が効いているのだろうか、そこだけは、これまでとは違っていることだと思われる。

「それでは、今日はちゃんと食事を取るようにしてくださいね。」

と、言ったのだが、其れはまだだろうな、と心の内では思っていた。取り合えず、かけ布団を、水穂さんに掛けてやった。

「そとは寒いですからね。寒いと思ったら、すぐに別の布団持ってきますから、呼び鈴鳴らしてくださいよ。」

「一子さん。」

ふいに水穂さんがそんなことをいった。

「何ですか。やっぱり布団がほしいの?」

一子は笑ってそう発言しなおすと、

「いえ、そういう事じゃありません。行ってみたらどうですか?」

と、水穂さんは真剣な顔をして、そういうのであった。

「行ってみたらって、其れはないわよ、ここで定年までこき使われるつもりよ。」

一子はそう返したが、

「いいえ、行けばいいんですよ。医師になりたいんでしょ?其れなら今のことは今しか出来ませんよ。」

と、水穂さんは言うのである。

「何を言っているんですか。私は、水穂さんの世話だってしなければなりませんわ、其れに、まだまだ修行が足りません。もうちょっと中間として、働いてから行きます。」

「そうでしょうか。」

一子がそういうと、水穂さんはまた言った。

「そうですよ。あたしみたいなダメな中間が、医者の見習いとして、長崎へ行くなんて、虫がよすぎます。其れならもっと優秀な中間を行かせるようにしてください。」

「いませんよそんな人。中間さんたち、みんな本当に仕事する気があるかどうか、わからない人たちばかりじゃないですか。そういう中で、あなたは最も真面目に働いていらっしゃるじゃないですか。」

一子は、そうなのかと考え直した。でも、まだ、自分が最も留学するのにふさわしいという気にはならなかった。

「何を言っているんですか、私が、一生懸命であっても、医者には向きませんよ。あたしは頭も良くないし、いい家の出でもないし、ただの中間として働くのが、せいぜい、精一杯です。」

「そうでしょうか。」

水穂さんの顔はにこやかになっている。

「でも、ああして生徒募集の紙が来たという事は、誰でも医者としてやっていける時代になったのではないかという事ではないですか。もし、身分がどうので馬鹿にされることがあったら、ちゃんと幕府からの募集文を読んだんだって、堂々と言えばいいのです。」

「そうかしら。」

一子はまさかそれを言われるとは思わなかったので、びっくりしてしまう。

「そんな風に解釈していいのかしら。」

「いいと思いますよ。少なくとも僕よりは、良いご身分であるはずですから。」

一子はその最後の言葉の意味が気にかかったが、水穂さんは気にしないでくれと言いたげな様子だった。

「きっと、長崎へ留学すれば、又自信も持てるのではないかと思うんです。いい医者であれば、容姿も何も関係なく、信頼を獲得することが出来ますから。」

そうだよなあ。確かに本間先生だって、二枚目ではないけれど、それなりに町の人からしたわれている。

医者になるということはそういう事なのかもしれなかった。

「僕はたくさん挑戦されれば其れで良いと思います。若い時と言いますのは其ういう時なのです。本当は、他人のことなど気にしないで、自分の世界に飛び込んでいくのが若い時なのですから。」

一子はそれを聞いて決断した。


数日後。新しい留学生を迎えるための篭屋が、養生所の玄関前にやってきた。一子は送りに来てくれたおかつさんに見送られて、その篭に乗って長崎へ向かっていった。ほかの中間たちは、彼女を見送ろうとはしないで、今日も愚痴を言いながら仕事をしている。

「まさか、一子ちゃんが、留学に立候補するとは思わなかったねエ。」

おかつは、篭がみえなくなるまで、それを見送っていたが、誰が一子をそそのかして、留学しろといったのか、というなぞは解くことができなかった。多分、決断が遅いことで知られている一子の事だから、誰かが、そそのかして、そうしろと言ったんだということは疑いない。だけど、一子は、自分で決断したのだと言って、聞かなかったのだ。絶対そうじゃないと思うのだが。

まあそれでもいいじゃない、とおかつは思い直した。いずれにしても、今の時代になっても、ああして懸命に働いてくれる若い女の子がまだいてくれたことを、喜ぶべきだと思うのだった。

「一子ちゃん、頑張って勉強して、いい医者になってよ。」

そういっておかつは、いつもの仕事にもどっていった。篭の中の一子も、後ろを振り向くことはしなかった。

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