第五章
第五章
「水穂さん。」
今日も一子は水穂のもとへやってきた。最近は水穂も自分が会いに行けば、なにか反応してくれるようになっている。それが嬉しかった。
「ご気分はどうですか?」
「変わりありません。」
この答えも変わってくれたらいいのになあと思った。その日、いつも通りに食事をさせていると、本間先生がやってきた。
「今日はだいぶ顔色も良くなってきたようだね。」
本間先生は水穂を見て言った。
「一時は余りにも重度であったから、もう無理かなあと思っていたんだけど、諦めないで良かったよ。少し顔に血の気がさしている様だね。」
一子も其れは実感できていた。水穂さんの真っ白い顔は、いつの間にか薄いピンク色になっている。
「毎日三度食事をしてくれるようになったから、多分それが功を奏してくれたんじゃないですか?」
一子がそういうと、本間先生も笑顔で頷いた。
「うん、そうだね。とても健康的な回復だ。これではもう少ししたら立って歩くことも出来るかもしれないよ。」
「え、本当ですか!」
「うん。順調に行けばの話だけどね。もう食事する前に咳き込むこともだいぶ減ってきたと、記録簿に
書いてあったからねエ。」
そうだよな。先生もそれを見て判断するんだな、と、一子は思った。そしてこれからもこの仕事をしていこうかと思うのだった。
そんな中。
「おーい。先生はいらっしゃいますかねえ。」
先日、水穂を養生所へ連れてきた与力が、一枚の紙をもってやってきた。応答はこれまで通り、おかつがした。
「なあに?先生は今診察中よ。もうちょっと後にしてくれるかな?」
「ああ、すまんすまん、長崎の医学校から、留学生募集の書状が来たので、持ってきたんだよ。まあ、いわゆる交換留学ってやつかな。医者見習いを一人よこすから、そっちから、留学希望者が一人いれば、誰か長崎へよこしてくれと言うんだ。」
年に何回か、こういう留学生募集のチラシがやってくるのだ。長崎と言えば、日本で唯一西洋人がやってくる所なのだ。その西洋人の中には医者も多くいて、長崎の医学校で教えることもあった。日本の医療は大幅に遅れていると気が付かされて、江戸や大阪の養生所から、医学を学びたがる人も少なくない。その中には、一般的な医者もいるが、すでに中間などをして、働いている人も多くいた。余りにも応募が殺到するので、年に何回か分けて募集を行っている。
「そうねえ、今年は、とてもそんな子がでてきそうにないわね。みんな文句たらたらで、真面目にやっている子は少ないからなあ。」
「そうかあ、年々、不真面目な若者が増えているという事かあ。」
おかつがそういうと、与力もがっかりした。
「幕府が始まった頃は、みんなイケイケどんどんで、良かったと聞くんだがなあ。今じゃあ、そんなのどこかへ行ってしまって、根無し草のような若い奴ばっかりだよな。」
「ああ、もう。本当ね。」
いつの世も同じことだ。平和がやってきて、それが長く続くと、若い人は意欲をなくしてしまうらしい。理由は知らないけれど、そうなっているらしい。
「まあ、この申込書だけもらっておくよ。あたしは、まだこの制度が続いているってだけで、良かったことにするよ。」
おかつはそういって、その募集の紙を受け取った。でも、こんな物を貰っても、意味はないと思い直し、与力が帰ったあと、ごみ箱へ捨ててしまった。このやり取りを盗み聞きしていた人物がいた事には気が付かなかった。
そのまま、患者さんたちの見回りにかかった。おかつが丁度個室の前を通りかかると、ふすまが開いて、一子がでてきた。
「あら、一子ちゃん、そんなに頭たらしてどうしたの?」
「あ、すみません。それがですね。水穂さんの事なんですが。」
「水穂さんがどうしたの?」
おかつはおもわず聞いた。何だか一子はがっかりしたような顔をしている。
「ええ、昨日まで食欲もあって良かったのに、今日はやっぱり咳き込んで苦しそうなんです。」
「またかあ、、、。」
おかつも一子も、あーあ、という顔をして黙り込んだ。
「昨日まで元気そうだったのに、今日になって又なの?本当にあの人は、一進一退を繰り返すんだから。本当にもう、困った人ね。」
「困った人じゃありませんよ。くるしんでいるんですから、それを言ってはだめです。」
おかつがおもわず愚痴を漏らすと、一子は急いで訂正した。
「まあ、一子ちゃんは何て優しい。」
そういう所は、一子の優れた長所と言えた。文句ばかりのほかの中間であれば、そういう発言はしないはずだ。
「とにかくね。本間先生に報告して。先生も聞き飽きているだろうけどさ、もう一回ちゃんと話してきて。」
「はい。」
一子は急いで、本間先生のいる部屋へ行った。
「先生、水穂さんの事なんですけど。」
本間先生は、丁度最後の患者さんを送り出した所だったが、一子が先ほどの話をすると、それを聞いて顔色が変わった。
「何ですか。又ですか。」
「ええ、咳き込んで苦しそうにしております。」
一子は事実だけを淡々と言った。
「ちょっと本人と話をしてみましょうか。咳止めの薬も一緒にね。」
「わかりました。」
一子は、急いで薬品庫に行き、咳止めの粉薬を取り出した。これを飲ませれば、文字通り咳が止まるのであるが、
「咳止めを飲ませれば、止まることには止まるんだけど、切れるとまた咳き込んでしまうんだな。」
と、いう事を発見した。
「一子さん、ちょっとお願いがあるんだが。」
薬品庫からもどってくると本間先生にそういわれた。
「後藤先生の住所わかる?」
ずいぶん聞いたことのなかった名前だが、一子は、何となく覚えていた。
「今も江戸にいらっしゃるのでしょうか?」
後藤先生とは、幕府に使えている医師の一人で、本間先生と同じ師匠の下で学んだ医師である。本間先生は町医者として、養生所へ勤務することを選んだが、後藤先生は、幕府に招集されていったのだ。理由はよく知らないけれど、単に二枚目だったからだと中間たちの間ではそうなっている。
「ちょっと、あの医者に聞いてみようか。しっかりと蘭学を勉強した人だから、なにか意見を出してくれると思う。」
本間先生は、なにか神頼みしているというか、そんな感じの口調であったが、一子はそうするしかないとわかった。本間先生が素早く書いた手紙を、一子はなるべく早く届けてくれと言って、飛脚さんに手渡した。
その数日後。養生所の玄関に立派な着物を着た男性が、玄関掃除をしていた中間に声を掛けた。
「失礼、本間さんから手紙を受けとった後藤ですが。」
面食らった中間であるが、丁度その時おかつがやってきて、この人が後藤先生であると説明して、その人物を中にとおした。そして、とにかくたいへんな患者さんで、いくら薬を飲ませても咳き込むのが治まらないということを説明しながら、個室へとおした。
個室の中には本間先生もいて、担当中間の一子もそこにいる様に言われていた。そして、水穂がとりあえず飲ませた薬で眠っていた。
「ああ、すみません、忙しいのにわざわざ来てくださってありがとうございます。この人なんですけどね。かなり悪いようで、この通り、薬を飲ませるとしずかに眠ってくれるのですが、切れると、すぐに逆戻りして、また咳き込んでしまうのです。また、体の衰弱もはなはだしい。そういう訳で、ちょっと先生のご意見を伺いたくて、お呼びしました。」
後藤先生は、真剣そのものの顔で、その話を聞いていた。
「多分きっと労咳とは思うんですがね。その薬を飲んでも効かないんです。」
「そうですか。まず初めに、其れと決めつけてしまうのがまずいんですよ。もしもそうじゃ無かったらというのを考えなくちゃ。医療にもしもはつきものですよ。そこから、的確な診断がつくことだって多々あるじゃないですか。」
後藤先生は、偉い医者らしくしずかに言った。
「と言いますと、どういう事でしょう?」
一子はおもわず聞いてしまう。
「以前の事ですが、うちの患者さんに、肩や肘の痛みを訴える、言わゆるリウマチの症状がでていながら、咳き込んだり熱を出すとか、そういう症状を出す人がおられました。その人は、かなり高貴な身分の人ではありましたけど、それ以外の人もかかるのかもしれませんね。若しかしたら、それでは?」
と、しずかにこたえる後藤先生。
「そうなると、どんな薬を与えたらいいのでしょうか。咳止めも鎮血の薬も、何も役に立たないんですよ。」
本間先生がそう聞くと、
「はい、こちらでいう所のリウマチの薬を飲むと、楽になるようなので、それを何とかすればいいのではないかと思われます。」
と、後藤先生がこたえた。そのまま二人の先生は、せんきゅう何分とか、ニンジン何分とか、そういう医者でしかわからない話を始めた。どうしてそんなことがわかってしまうんだろうか。と、一子はおどろいて何も言えなかった。
でも、これで水穂さんがもし助かってくれたら、先生たちは本当にすごいことをやってくれているんだなと、あらためて感動もしてしまった。そうなると、いつかあこがれていた、医者になりたいという気持が、また吹き出して来るのであった。
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