第四章
第四章
「おはようございます。」
個室のふすまを開けた一子は、中にいる患者さんに声を掛けた。
「あの、おはようございます。」
もう一回言うと、患者はしずかに目を開ける。
「私、今日から水穂さんの担当中間になりました。一子と申します。よろしくどうぞ。」
「わかりました。」
そう自己紹介すると、水穂はそっとため息をついて、其れだけ言った。あれ、この人はほかの患者さんと違うぞ、と、思った。その次にでてくるはずの、わあ、何てブスな中間だろうとか、今回は嫌な中間に当たってしまったもんだとか、そういう言葉がでてこないのだ。しかも、水穂さんは、歌舞伎役者にしたいほど、綺麗な人であったから、多分、色眼鏡で自分を見るんだろうなと思っていたため、さらに意外だった。
「今日のご気分はどうですか?」
中間らしく、一子はそのせりふを言った。
「いえ、変わりありません。」
一子は、答えを聞いて、いつも持たされている記録簿に、変わりなしと記入した。
「夜は、眠れましたか?」
水穂は首を横に振る。おかつさんだったら、あんな高級な布団に買えたのに、まだ眠れないのかと、呆れてためいきをつくだろうなと思ったが、其れは言わないで置いた。
「食欲はありますか?」
又一子が聞くと、
「何もありません。」
と、こたえるのだった。今日まで何日食事をしていないのだろうと考えながら、一子は其れも記入した。先ず、彼を何とかするのであれば、ここから何とかしなければいけないだろうなと思った。そこを何とかすれば、少しずつ変わってくると思われる。
「じゃあ、食事持ってきますので、まっててくれますか。」
と、一子は、一度退出して厨房にいき、用意された食事をもって、水穂の部屋にもどった。食事と言っても、白がゆが入っているだけなのだが。
「はい、ご飯にしましょうね。食べないと、力もでませんから、しっかりたべましょうね。」
おかつさんが言っているようなせりふを使って、一子は白がゆをかき回した。
「熱いですからね、気を付けて食べてくださいよ。」
とりあえず匙でおかゆを取って、水穂の口元に持っていく。
水穂にしてみても、この中間は、自分のことを特別扱いしないな、ということが感じられて、ちょっと嬉しい気持であった。実を言うと、自分に対して、恋愛感情丸出しで接してくる若い中間たちには、一寸嫌気が刺していたのだ。そういうモノは要らないから、とりあえず、基本的な事だけしてくれればいい。と思っていたのだが、其れは叶わなかった。若い中間たちは、彼に何処の劇団から来たのかとか、どこか幕府にでもつかえていたのかとか、そういう事ばっかり聞きたがる。おかつはそれを知っていて、ことあるごとに若い中間たちに注意をしていたが、どうしても治らなかった。若い人というのは、どういう訳だか、なんでも軽く考えてしまう傾向があるのだ。その理由は誰もわからないけれど、そうなっているらしい。
でも、目の前のこの中間は、派手な化粧もしていないし、変に明るすぎる事もない。汚い発音をすることもない。若しかしたら、おかつさんか、本間先生が彼女を指名したのかもしれないが、とにかく彼女が担当になってくれて良かったと思った。
「ほら、食べてみてくださいよ。特に派手な味つけもしていませんから、おいしいと思いますよ。」
と、一子にもう一回言われて、食べてみようかと思った。そっと匙を受け取って、おかゆを受け取り、口の中に入れてみた。確かに、薄い塩味で、何も飾りのない白がゆであり、おいしいと感じられた。
「いいじゃないですか。食べられるじゃないですか。じゃあ、もう一杯行きましょう。」
一子はそういっておかゆを取り、水穂に渡した。
今度もおかゆを口にした。
「よし、もう一杯行きましょう!」
さらに意欲的になり、一子はおかゆを水穂さんに渡す。
もう一回おかゆを口にする。
「じゃあ、もう一回。」
四杯目にトライしたが、今度は咳き込んではいてしまい、口にできなかった。でも、一子はそれでもいいと思った。今まで文字通り米一粒も口にしようとしなかった人物が、やっと食べ物を口にしてくれたのである。
「もう、いいんですか?」
一子が聞くと、水穂は小さな声ではいと言った。
「でも良かった。おいしそうに食べてくれて。私、心からほっとしました。」
その言葉に嘘も偽りもなかった。だってそうしなければ、確実に餓死してしまうからである。食べ物を
とらなくなると、本当に短期間で人間は餓死してしまうということは一子も知っている。
一子は、記録簿に、三口だけであるが、朝食を口にしたと記入した。
「じゃあ、食後のお薬飲みますか。」
水穂はしずかに頷いた。一子は、陶器製の吸い飲みを、口もとへ持っていく。この時代、ガラス製の吸い飲みはなく、陶器であることがほとんどだったのである。薬はたいへん苦いモノであったが、気にせず中身を飲んでくれた。
こうしてしまえば、後はお昼まで眠るのみであったが、一子は薬が回って眠るまで、水穂のそばにいてやろうと決めた。数分後、しずかに眠りだした水穂を見て、一子は、もういきますね、と軽く声を掛けて、部屋を出て行った。
その数時間後。
「よう、元気しているか!」
と、でかい声が聞こえてきて、水穂は目を覚ました。
枕元には土車に乗った杉三がいた。こういう所だから、車いすより土車のほうが都合がいいのである。ちなみに土車とは、一枚の板のうえに車輪を付けた乗り物の事で、二本の棒で操作するようになっていた。
「久しぶりだね。」
とりあえず、其れだけ言った。
「へへん。やっと暇を貰えたので、おまえさんに会いに来たのさ。こっちはな、毎日着物の縫いなおしを頼まれて、たいへんよ。その顔を見ると、かなり衰弱しちまった様だが、大丈夫かい?」
ということは、杉ちゃんかなりの人気者になったなということがわかる。
「もう、暇をくれと言っても、次から次へと治してほしい着物が来てよ。中間さんばっかりじゃなく、患者さんからも頼まれて、こっちは毎日鍼と糸と格闘しているよ。」
なるほどねえ。そういう日常てきな仕事って、何もカッコいい仕事ではないので、みんなやりたがらないんだろうなという事だろう。
「杉ちゃん悪いね。わざわざ来てもらっちゃって。」
「悪いねじゃないよ。おまえさんが、ちっとも良くならないって聞いたんで、心配になって来たんじゃないかよ。」
「それ、誰に聞いたの?」
と、尋ねると、
「おかつさんだけではなく、ほかの中間みんな知っているよ。あの綺麗な人は、咳き込んでばっかりで、何も食べないってさ。」
と、返ってきたので、水穂はぎょっとした。
「そうなると、僕の出身階級もばれているのかな?もしばれていたら、たいへんなことになる。手のひら返したように態度が変わって、みんな、出ていけの嵐になるのかもしれない。」
水穂は日頃から、抱えている不安を口にした。
「それがばれるのではないかと不安でしょうがなくて。いつも怖い思いをして、夜も寝れないんだよ。どこかにばれてしまうのではと、心配で不安でたまらないんだ。元の世界と違って、ここでは身分に対して、もっと厳格なのだろうから。それを飛び越えることは絶対に出来ないから。」
「バーカ。大丈夫だよ。気にしすぎだよ。その顔だから、ばれる事もないでしょ。とにかくな、変なそぶりはしない事だ。普通の人間と同じように振るまえばいい。もしばれちゃったら大ごとになるのは僕も知っているし、馬鹿な人でなければ、すごい冷たい扱いになるのも知ってるよ。だから、其れは気にしなければいいの。」
と言っても、其れは水穂には非常に難しい注文ではあった。普通の人間と同じようにふるまうということが、彼には出来なかった。
「もうとにかくな、こっちへ来たら、隠し通すしかないでしょう。まあ、勿論、法律違反になるのかもしれないけどさ。このままだと、おまえさんは、どんどん衰弱していって、最終的には浄閑寺に投げ込みになっちまうぞ。其れじゃあいけないだろう?もとの世界に帰りたいでしょう。だったらご飯にしろ薬にしろしっかりもらって、もう大丈夫だって言われるようにならなくちゃ。」
浄閑寺とは、吉原近くにある寺であったが、すでに引き取り手である身内がいない遊女などの埋葬を受け付けている寺であった。其れに乗じて、身寄りのわからない死体などが、平気でこの寺へ持ち込まれたことも有ったらしい。なので「投げ込み寺」とも呼ばれている。
「杉ちゃんすごいこと言うね。」
水穂はそういったが、其れだけは、したくないなと確かに思った。
「だからあ、そうなっちゃいけないんだから、ちゃんとご飯を食べて、ちゃんと薬を貰ってさ、動けるよううにならないと。とにかくな、今のおまえさんは、動けないんだから。それではいけないよ。もう身分のことについては、隠しとおしてさ、それで何とかしようと頑張ってよ。」
杉ちゃんにそういわれて、水穂はそうするしかないと思った。
幸い、この会話を聞いているものは誰もいなかった。丁度ほかの患者たちの診察時刻でもあったから、本間先生も、中間たちも、みな忙しくて杉ちゃんの話を聞いている暇はなかったのである。一子も、本間先生の診察の手伝いをしていて、何も気が付かなかった。
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