第三章
第三章
今日も、一子は庭掃除の仕事に費やしていた。どうせあたし何て、なんの役にも立たないだろうなと、いつも思っていた。
ほかの患者だって、自分をあてにしてくれるひともないし。どうせ、周りの人からは、ぶすぶすと言われて、相手にされないだけである。
勿論、患者は男性ばかりではないし、女性だっているんだけれども、女性の患者からだって、相手にされない。基本的に、養生所にやってくるのは、中年以上の人が多く、結構憎まれ口をたたく人が多くて、あの中間は、頼りにならないし、器量も良くないとか、この中間は、容姿も可愛くて、よくやってくれるとか、そういう品評会のようなことをやっているのだ。そうなると、一子は必ず、「だめな人」にランクインしてしまうのだった。
理由はよくわからない。ほかの中間がしているように、物事をはっきりいうのが、苦手だからなのかもしれない。でも、それ以外の事では、普通に仕事をしていた。中間というものは、患者にご飯を食べさせたり、着物を着替えさせたり、体を拭いたり、排泄の世話をしたりという仕事の事である。一子は単に仕事をしたいだけで中間を選んだわけではない。人の役に立ちたいと思ったから、この仕事を始めたのだ。竹阿弥先生のようなお医者さんと一緒に、患者さんの世話をするという仕事は、とても、生きがいの持てる仕事だと思う。だから、中間を募集していると瓦版で回ってきた時に、真っ先に立候補して採用されたのである。
其れなのに、蓋を開けたら何という事だろう。なぜか、ほかの中間たちから、ぶすな中間だとからかわれ、患者さんからは誰にも相手にされず、庭はきの仕事しか与えられない身分になってしまった。それでも、仕事がなくなったら最悪であるから、そのまま中間を続けているが、それでも、寂しい気持は変わらなかった。
今日も寂しいなと考えながら、一子は庭掃除を続けていると、
「一子ちゃん、一寸お願いなんだけどさ。」
いつの間か、おかつがそこにいて、一子に声を掛けていた。
「あ、はい。」
一子は急いで箒を動かすのをやめて、そう返答した。一応おかつは上司に当たるわけであるから、生半可な返事をしてはいけないのである。
「一寸さ、布団変えるから、手伝っておくれよ。」
「はい。」
一子は、おかつにそういわれて、彼女の命令に従った。水穂の寝ている個室は、中庭からすぐのところにあった。個室の、ふすまの前に、赤い色の三つ布団が畳んで置いてあった。
「それでは、この水穂さんをあたしが抱えているから、一子ちゃんは、そこにある三つ布団を手ばやく敷いて頂戴。」
三つ布団は、吉原遊郭で、高級な女郎が使う物だが、なぜか、一子たちの目の前にあった。現在のお金の価値で言えば、クルマが一台買えるほどの、高級品であるという。そんな布団、どうやって、手に入れたのだろう。
「いやあねえ、吉原の女郎屋の女将さんが、うちで使ってくれと言って、持ってきたのさ。御職になったけれども、性病ですぐに逝った子がいたんだってさ。身寄りもないし、布団だけが残ってしまって、ほかに使いみちもないんだって。それで、よろしかったら使ってくれって。格安で譲ってくれたんだよ。さあとにかく布団を変えよう。もうこんながりがりじゃ、寒くてしょうがないよ。」
おかつはそういいながら、一子に布団を持たせた。確かに高級な布団であるからずっしり、重かった。
「水穂さん、寒いとたいへんだから、布団を変えよう。起きられる?無理だったら、あたしに捕まってくれればそれでいいから。」
水穂は、うっすらと目を開けて、しずかに頷いた。おかつは、隣に座って、彼をそっと抱きかかえる。
この時敷いていた布団は、着物を解いて一枚布にし、綿を入れた粗末な布団だったが、もう何人の患者が使っていて、所どころ、なかわたがみえていた。
「それでは、布団を取り換えて。すぐに頼むよ。」
「わかりました。」
一子は、その通りに、今までの布団を取り除いて、例の三つ布団を敷いてやった。水穂さんの目が自分を見ているのがわかる。この人も、私のことを、ブスな中間だなあという顔をして、見ているのだろうか。でも、水穂さんの目はそういう目ではなかった。あれれ、この人はほかの患者さんと違うぞ、と、思ったが、其れは言わないで置いた。
とりあえず、三つ布団は、丁寧に敷いてあげた。
「よし。布団が敷けましたよ。水穂さん。こんな三つ布団で寝られるんですから、これからは、ちゃんとご飯を食べてくださいね。」
それでは、と、おかつは三つ布団の上に水穂を寝かせてやった。何だ、そのための作戦だったのか。と、一子は一寸がっかりするが、
「少なくとも、ふかふかの布団で寝かせてもらうんだから、これからは、しっかり治療を受ける気にもなって頂戴よ。」
と、おかつさんがそういうので、何だかいうことを聞かない患者なのかなあと、おもわず一子は吹き出してしまった。でも、おかつさんの顔は真剣その物だ。この時代、便利な医療器具があるわけではない。だから、なんでもかんでも人の手を借りてやっているのである。そういわけで、患者さんに対する言葉がけは、非常に重要なモノになった。だから、中間となれば、嘘偽りのない態度で接することが求められていた。その言葉の一つ一つが、医療を担っていくという、非常に重たい仕事でもあった。おかつは、手早く掛布団を掛けてやった。礼も言わずに水穂は、ふっとため息をついて、うとうとし始めた。若しかしたら、薬に眠ってしまう成分があったのかもしれなかった。
「おかつさん、この人、何も受けようとしないのですか?」
一子は、そう聞いてみた。
「そうなのよ。」
おかつは即答する。
「一日三度、ご飯を出しても何にも食べないし。薬は、しっかり飲んでくれるんだけど、食べないと、薬は効かないって、知っているわよね?」
「そうですね。」
一子は、其れは確かだと思いながら言った。
「それでは、どうなるか。先が思いやられるわ。もう、そうなったらどうしたらいいんだろう。あたしたちが知っているのは、名前を水穂さんというだけの事で、何処から来たのかも、決して言わないのよ。この人は。」
そうなんだ。と一子は思った。それにしても、余りにも綺麗な人だった。どこかの歌舞伎役者とか、幕府に使えている芸能人とかそういう人だろう。其れ位に考えていた。
本来なら、布団をありがとうとか、そういうことを言うはずだ。しかしその言葉はでてこなず、代わりにでたのは、咳き込む音。
「ああ、これではまずい。すぐ拭かなきゃ。」
おかつは、すぐに口元を手拭いで拭いてやった。口元から朱い液体がだらっと流れ出るのをみて、この人は、かなりの重病であるという事はすぐわかる。
養生所では、そういう人も、預からなければならないのだ。それでは、いけないというか何というか、ずいぶん悲しい事だけど、もうすぐ逝ってしまう人も、責任もって面倒を見ることを、しっかりしなければならなかった。
「あーあ、まあ、この人も、たいへんでしょうけど。あたしたちは、最期まで面倒を見てやらなくちゃ。もう、それがわかっているんだったら、ほっとけば良いっていう人もいるけどさ。何だか、勿体ないじゃない。だからあたしは、責任もって面倒を見るつもりよ。もうこの人、ほかの中間が、みな匙を投げてしまったのよ。」
おかつはそういって、また腰をたたいた。本当はおかつではなくて、自分が水穂さんの世話をする方が良いのではないかと一子は思った。
「あの、もし良かったら、あたしが担当になりましょうか。おかつさんはもう歳ですし、さっきみたいなことは、難しいのではないかと思いまして。」
時々、一子は相手のことを考えずに物をいってしまう傾向があった。本来、もう歳ですしなんていう言葉は、上司に使うべき言葉ではない。
「あらそう?でも、たいへんな事よ。こういう末期の患者さんの面倒を見るってことは。」
おかつは一応上司としてそういったのであるが、一子は決断を変えなかった。
「いいえ、私、やります。どうせ私だって、大したことが出来るわけじゃないけど、少なくとも、私が担当になれば、もう中間がコロコロ変わって困ってしまうことはないと思います。」
確かにそこはそうなのだが、どうも不安感は残る。
でもおかつは、彼女に一度やらせてみることにした。おかつにしても、彼女の言動に対しては、どうしたらいいのか、悩んでいたのだった。もし、彼女がこの立候補をとおして、何か学んでくれたりすれば、其れに越したことはない。
「よし、やってみて頂戴。じゃあ、今日の晩御飯は、あなたが水穂さんに食べさせてね。」
「わかりました。」
一子は、きっぱりと言った。
一方そのころ、杉三は、中間たちの食事を作ったり、着物を縫ったりする仕事を続けていた。その腕はかなりの腕前だったので、あっという間に人気がでてしまった。彼は、患者たちにも寝間着の修理とか、布団の修理まで頼まれて、次から次へと縫物と料理を繰り返し、養生所のいろんなところを行き来していた。そんな中で、患者から秘密を打ち明けられることもまれではなかった。患者たちの話すことは、どうしても看護してくれる中間たちへの愚痴が多かったが、中間の世界にもいじめというものがある、と聞かされた。その時は、そういう事かと言って、笑い飛ばしていた。水穂とは偉い違いと思われる生活をしていたのだった。
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