第二章
第二章
数日後、小石川では、こんなうわさが広まっていた。なぜか、養生所にものすごく美しい男がやってきた、彼は歌舞伎役者の女形よりももっと綺麗な人だ。でも、その人はかなりの重度で、竹阿弥先生は、絶対に他人には、みせてはいけないと厳しく言っている、、、。
竹阿弥先生とは、養生所の最高責任者であって、患者たちの診察を行っている本間先生の綽名である。他にも医者はいるが、本間先生が最高の医者と言われている。なんとも、数年前に、曼陀羅華の葉をつかって、麻佛散というすごい薬を作った、何とかという医者のもとで修行をさせてもらったという、すごい医者だ。その麻佛散という薬を使うと、どんなにくるしんでいる患者でさえも、数時間で動きが止まってしまうのだそうだ。でも、其れは、毒性もあって、ちょっとまちがうとたいへんなことになるので、よほどの事のない限り、投与してはいけない、という、ルールがあるという。それを、養生所に着任した記念に、貰ってきたことがあったという。でも、これはあくまでもうわさで、その麻佛散という物を、見たことのある人は誰もいない。本間先生と一緒に働いている中間たちも、それを投与した現場を見たことはない。本間先生と、一緒に働いている、医者でさえも知らない。
養生所で働いている中間たちの間では、例の美しい患者さんと、彼の引き立て役としてやってきた、足の悪い男の話で持ち切りになっていた。ただでさえ、女には負担の大きな仕事である中間という仕事は、とにかく愚痴が多い仕事であったのだが、、、。
「今日もうまいわねえ。」
と、彼女たちはそういっていた。
「あの、杉三って人に感謝だわ。」
つまり、中間たちの食事は、杉三が担当していたのである。彼は、料理が得意という事で、中間たちの食事を作る賄い人として、ここへ雇って貰ったのだ。勿論料理人として活動することも多かったが、其れだけではなく、中間たちの着物を縫いなおしたり、患者用の布団を縫いなおすということもしていた。
「でもすごいわねえ。あの人、なんでもつくってくれるから、あたしたちの食生活がたのしくなったわ。患者さんたちは、とびっきりのごちそうがでるのに、あたしたちは、エビの尻尾しかもらえなかったんだから。」
確かに、中間たちの境遇は、さほどよくなかった。其れは、どこの時代でも同じことだ。いつでも彼女たちは、患者たちの事、こういわれたとかああいわれたとか、そういう話ばかりぐちぐちと語っていた。
「それにしても、あの水穂さんという患者さんは、わがままで困るわね。」
と、別の中間が言った。
「誰かがご飯を食べさせても、何も食べないし。」
確かにそうなのだ。
「この間なんて、、、。」
待ってましたとばかり、一人の中間が言った。中間の話す内容は、こういう内容である。
水穂は、個室の中でしずかに眠っている。
「水穂さん、ご飯です。」
中間が、障子を開けた。彼女は、おかゆの入った器を持っている。
「水穂さん、ご飯ですよ。起きられますか?」
と、中間は言った。器を枕元に置いて、それではと、彼の布団をたたいた。
「今日はちゃんと、ご飯を食べてもらいますからね。それでお願いしますよ。」
と、ちょっと気を強くして中間は言った。
「出来ればおきてもらいたいんですけど、竹阿弥先生が、無理して起きることはないっていってました。まだ、そこまではって言ってたし。」
それではと、中間は、おかゆをグルグルかき回して、お匙でおかゆをとった。
「はい。食べてください。」
と、匙を口元まで持っていくのだが、彼はすぐ頭を向こうに向けてしまうのだ。
「水穂さん。食べてください。食べないと力もつきません。もう、何日ここで過ごしていると思われるんですか、いつまでもそれでは、良くなるものもよくなりませんよ。」
中間は中間らしく、そういうことをいうのだが、水穂は布団で顔を隠してしまうのだ。これを見て、中間は、本当に呆れるというか、またですかという顔をする。
「昨日、本間先生が言ってましたでしょ。まだ、生きられる望みはあるって。あなたは確かに病状は重いですが、まだ、可能性はあるって言っていました。そのためには、ご飯を食べるのが必要なんですよ。学のある方なら、わかると思うんですけど、人間は、たべなきゃ生きていかれないんですよ。それを、忘れないでもらいたいものだわ。」
それでも水穂は、食べようとしなかった。
「どうして何ですか。何も食べられないんですか。本当は、わざとでしょう?何も食べられないのではなくて、食べようとしないんでしょう?それではいつまでたっても、よくなりませんよ。もう、ここへ来たからには、食べることを仕事だと思って、食べてくださいよ。」
中間が、そういっても、食べようとしなかった。
「もう、そんなに食事をされるのが嫌だったら、もう、食事なんか出しませんよ。それでは、失礼いたしますから!」
中間は、声をちょっと荒げて、器をもってもどっていってしまった。
「そうだったのね。ほんとに困るわね。それでは、いつまでも食事をしてくれないで、此間の飢饉のときに、担ぎ込まれてきた、患者さんにほんとにそっくり。何だか、今にもご先祖様に会いに行くのを楽しみにしている、餓死寸前の老人みたい。」
ほかの中間も、彼に対する扱いは非常に困っているようだった。
確かに顔つきは綺麗な人であるから、中間たちは、喜んで彼の担当に立候補したが、その食事をしない事で、すぐに匙を投げた。そういう訳で彼の担当をする中間はコロコロと変わった。
「ねえみんな。」
ふいにおかつが、中間たちに言った。
「誰か、水穂さんの担当になってもらえないかしら。」
おかつは、食事をしていた中間全員に言ったが、彼女たちは全員箸を止めて嫌な顔をする。
「誰もいないの?誰か、担当になってもらわないと。まだ動いちゃいけないって、本間先生は言っていたのよ。だから誰か世話をする、人間が必要でしょう?」
おかつのいう事は、はっきりしていたが、誰も中間たちは立候補しようとしなかった。おかつは、大きなため息をつく。
「そうだけど、おかつさん。あの人、ご飯を一度も食べてくれないのよ。薬だけは飲んでくれるけどさあ。」
「それでは、どんな看護をしても、意味がないんじゃないの?」
次々に中間たちはそういうことを言った。
「おかつさん、おかつさんがやればいいのよ。おかつさんが、一番中間としての経験も長いんでしょう?だったらそうすればいいわ。」
一番若い中間がそういうことを言い出した。時々、若い中間というのは変なことを言うことがある。
「多分きっとあの人、ここで一番厄介な人だろうからさ、そういう時は、やっぱり経験のあるおかつさんがいいよねえ。」
別の若い中間もそういうことを言う。
「わかったわ。」
おかつは、とりあえず、その話が盛り上がるのを避けるため、そういうことを言った。再び、中間たちは途方もない愚痴を話し始めるのであった。
「ほら、午後の仕事が始まるわよ!早くしていらっしゃい!」
おかつにそういわれて、中間たちはそれをやめて、嫌そうに立ち上がった。そして、表面上は明るい笑顔を作って、優しい看護人を演じ始めるのである。
一方、そのころ。一人の女性が、養生所の庭を掃除していた。
ほかの中間に比べたら、それほど器量のよくなかった彼女は、患者からも人気はなくて、ただの庭はきをしていた。ちょっと、ぶすっとしたその顔の彼女は、絶対に水穂さんには相手にされないだろうと思っていた。
その日も庭掃除をしていた。中庭は、個室の近くにあったことを、彼女は知らなかった。
庭を竹ぼうきではいていると、急にふすまが開いた。
「ちょっと、咳止め持ってきてくれるかな?」
と、本間先生が声を掛ける。隣には、おかつもいた。彼女はすぐに、箒を片付けて、すぐに薬の貯蔵庫から、咳止めを出して、本間先生の所に持って行った。
一体、奥では何が行われていたのだろう。それを覗いてみたかったが、彼女には、出来なかった。奥に誰がいるのかも、彼女はまだ知らない。
そのまま、箒を取って、また庭掃除を続けていると、おかつが、中庭に入ってきて、こんなことを言った。
「一子ちゃん、さっきはありがとうね。」
おかつさんにそういわれて、彼女はちょっと面食らった。今まで、おかつに有難うといわれたことは、一度もなかったからだ。
「あれで、良かったんですか?」
一子は、それだけ言った。そこだけは聞いておきたかった。
「ええ、良かったよ。お蔭さまで、水穂さんも一安心だ。もうちょっと、ご飯を食べようという気になってくれれば、こんなめんどくさいことはしなくてすんだのに。」
「そうですか。でも、食事が出来ない患者さんはいっぱいいるじゃないですか。例えば高い熱でもあれば、誰でも食べられなくなりますよ。」
一子は、おかつにそういったのだが、おかつは大きなため息をつく。
「まあねエ。それが出来れば苦労はしないっていう患者さんも少なくないのよ。一子ちゃんは、あんまり患者さんと接してないから、分かんないんでしょうけど。」
おかつは腰をどしどしとたたいた。中年の彼女には、腰痛がつきものであった。
「おかつさんも無理せずやってくださいね。あたし、心から応援してますから。」
一子は、そんなことをいうしか出来なかった。どうせ、あたしなんか、誰にも相手にされないんだし。そういうことをいう位しか徴用されることもないだろう。そう思っていた。
「悪いね。」
おかつは、次の患者さんを見回るために、中庭から建物にもどっていった。
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