落下物注意

 ガシャン―――


 唐突に私の背後で何かが割れる音が聞こえた。

 振り返るとそこには割れた植木鉢。

 大きさは握り拳大程。

 当たり所が悪ければ正直死んでいても可笑しくない。

 私はぞっとしながらも咄嗟に植木鉢が落ちてきたマンションのバルコニーを見上げる。

 見上げたマンションのバルコニーは最新の分譲マンション。

 意匠性を求めた為か、外部の手摺りから下部はガラス状になっていた。

 要はバルコニーの外部は手摺りが最上部になっていて物が置けない仕様なのだ。

 それは通行人が怪我をしない様にという配慮からであろう。

 ならば、さっき植木鉢が落ちてきたのはどう言う了見なのか。

 少し聡い者ならほんの数秒思索すれば結論に至る。

 私は身震いすると少しも躊躇わずその場を走り出す。


 逃げたのだ。


 と言う可能性の恐怖から。



 無我夢中で走った。

 しばらくして人通りの多い交差点に差し掛かり、何故か可笑しくなって笑ってしまった。

 たまたま。

 そう、たまたま植木鉢が落ちてきたに過ぎない。

 寝ぼけた何処かの奥様辺りが屋内の植物に日光浴をとでも思った所で手を滑らしたに違いない。

 そう思うと乱れた息も少しずつ整ってくる。

 

 少し走っただけで息が上がっている。

 この所業務が慌ただしいせいで碌に休みも取っていない。

 疲れがたまっているのかも。

 そう思って交差点の信号機を見上げた瞬間だった。


 どんっと、突然誰かに強く押され私は思わずつんのめる。

 体勢を立て直した私は抗議しようと押された方に身体を向ける。

 

 すると私が居た場所に信号機が落ちていた。


 ぐしゃり―――


 当然そこには押した人が居て、信号機はその人の背中に突き刺さるように落下していた。


「え?私………たすけ、られた?」


 信号機の下敷きになっているのはどうやら男性の様だ。

 もし、この人が押してくれていなければ私が下敷きに…。


「だ、大丈夫ですか?」


 私が声を掛けるのと同時に、周囲の人達が男性の上に落ちてきた信号機をどかそうと行動を起こした。


 その時だった。


 ガツン!ガシャン!!キキーーー!! 


 突然の破壊音共に私達は大きな影に包まれる。

 見上げると私の視界いっぱいに車が映った。

 それはまるで冗談の様に、空中をぐるんぐるんと車が回転している。

 余りの現実味の無い光景に私はその場でぽかんと口を開けてしまった。

 当る!

 そう思った瞬間私は強引に引き摺り倒される。

 自身の細い華奢な手首が、誰かの手にしっかりと掴まれている。

 握られた手を見れば其れは先程私を助けてくれた男性の物だった。


 ガッシャーーーン!!


「――――」


 男の唇が微かに震えた様に見えた。


 ―――カラカラ……カラン……。


 ほんの僅か、ほんの僅か先。

 私が倒れたほんの僅か先に車が落下した。

 くしゃくしゃに変形した鉄の塊。

 其れの下敷きになった人々。


「ひやぁーーー!」「きゃぁーーー!!」「うわーーー!!!」


 皆が皆、思い思いの悲鳴を挙げ、其れは正しく阿鼻叫喚の引き金となる。

 私が居る場所を中心に悲鳴は伝播し恐怖は拡散する。


 だけれど其れもある程度すれば様変わりを起こす。


 ジーーー。

 ジーーーー。


 スマートフォンでこの阿鼻叫喚を冷静に、遠巻きに撮影しているのだ。

 冷たいレンズが私を凝視する。

 そのレンズで覗かれる行為に、撮られるという行為に怖気を感じる私が居た。


 (何よ…何なのよ………)


 血溜りの中をハイヒールで進みから外の世界へと脱出した。

 誰かが私に声を掛けようとしてきたが、それも無視してその場を後にした。


 何が起きたのか?

 何が起こっているのか?

 立て続けに起こった命の危機に思考が纏まらない。

 謂われの無い焦燥感に押しつぶされそう。


 パラパラ……。

 微かな音が聞こえる。

 砂粒が様な細かな音。

 パラパラ、パラパラと。


 その音は少しずつ私の方に近づいて来ている。

 嫌な予感に私は振り向きもせず即座にその場から走り出す。


「どいてっ!」


 前方の人混みを掻き分け、ひた走ると目の前に出て来たのはランドマークである駅。

 あそこなら、きっと何も

 そう判断した私は更に走る。

 振り返るとビルがずれている。

 そう、10階建て程のビルが中央からズリズリと


「嘘でしょ!?何で!?何なの!!」


 ありえない風景に頭がパニックになりそうだ。

 今日はずっと何かが落ちてくる。

 厄日なんて言葉で簡単に片付けられない。


 植木鉢が落ちてくる、長い人生一度あるかも知れない程度の確立で起こるのは分かる。

 だけど信号機、車、まるで私を狙い定めたかの様に私の側に

 一体何なんだコレは。

 挙げ句の果てに今度はビルがずりなんて有り得ない。

 きっとコレは夢。

 夢に違いない。

 だけど例え夢だったとしてもビルの下敷きは御免被りたい。

 一心不乱に駅を目掛けて走る。


 人混みを避け辿り着いたのはもう5年以上前に中止した駅隣の工事現場。

 工事現場の中は薄暗く、錆びて赤茶けた鉄骨が乱立していてまるで異世界の様に見えた。

 外の雑多な音も、全てが混じり合った街の匂いも急に途絶えてしまった。

 温度が一段下がった。


 ―――――ヤバい。


 そう感じた瞬間、跳ねる様に息つく暇も無くまた走り出す。

 右側のピンヒールは折れまともに走れない、それでも兎に角走るのだ。

 ふと見た先には落下物注意の工事看板。

 巫山戯てる。

 そう思い走る私の後ろではボルトが落ち、細い鉄骨が何処からか落下する。

 音が聞こえる。

 カラカラカラカラと私を嘲笑うかの様な音が。

 その音から逃げる様に息も絶え絶えになりながら私は逃げた。


 何時しか、背後から音がしなくなった。

 空は青く雲は流れ、風は優しく頬を撫でる。

 私を覆う鉄骨もビルもここには無い。

 あるのは眼下に広がる世界だけ。

 気が付けば私は駅の屋上に来ていた。

 此処なら落ちてくる物は何も無い筈。

 助かった―――

 


 助かったのだ。









 べちゃ――――






 恐る恐る私は振り返る。

 其処には落ちて破裂した黒い猫の死骸。


「―――ひっ」


 思わず後ずさる。


 どちゃっ――――


 次にのは私を押したあの男。

 助けてくれた男だった。


「いや!意味分かんない!!!」


 男の腹部からは臓腑が溢れ私を睨む瞳には生気がまるで無い。


「――――お」


 何かを呟く様に、男の口から言葉が漏れる。


「ど#@て■ったの?」


 繰り返し呟く言葉は徐々に鮮明になる。


「どうし□――――@ったの?」


 その声はいつの間にか男性の物ではなく女性のそれだ。

 ずりずりと地を這う様にソレは私に追いすがろうとする。


 その時、なぜか思い出したのは以前丁度この場所から飛び降り自殺をしようとしていた女性がいた事。

 そしてその様子を自分がLIVE配信した事。


 がしりっ――――


 自分の足首をソレが握った。


「どうして――――撮ったの?」

「―――ひっ」


 恨みがましい瞳はがらんどうで。

 クリアな言葉は呪詛の様に私の耳に残り響く。


「いっ!―――――いやぁああああっ!!!!」

 



 私は逃げた。

 一心不乱に。

 気が付けば私の目には道は無く、眼下に広がる大きな遊歩道では数百人と言う人々が一斉にスマートフォンを此方に向けている。

 後ずさろうとした時ガシャンと金属音がした。

 緑色のネットフェンスだ。

 私がその事を理解した時――――


「どうして――――撮ったの?」

 

 私の耳元で声がした。


 ――――ドンっ。


 何かが私の背中を軽く押した。


 そして最後の言葉が耳に届く。


『撮らなければ







        ―――――落ちなかったのに』

 

 

 





 どちゃっ。


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