朝7時半、遅れる前に

水木ココ

1話

 朝七時半。ピピピピピ、と部屋に固く無機質なアラームが鳴り響き、私は穏やかな夢の世界から引き戻されてしまった。う~、と声にならない声を上げながら、暖かい空気を閉じ込めている毛布をめくり上げようとするけど、私はまだ寒い現実に引き戻されたくはないので、身をよじって暖かい空気を味わう。そうしているうちにだんだん身体が起きてきたみたいで、10分ほどたったところでようやく身体を起こす。すると冷たい空気が体を撫で上げ、体温が急激に奪われる。起き上がって足をベッドから降ろすと、ひやりとした床が私の足を刺したかのような感覚に包まれる。それでまどろみの中にいた私の眼は一気に覚め、朝の支度をするために一階に降りた。

「おはようあさひ。ちょっと遅かったね」 

 母さんがごはんの支度をしながら呼びかけてきた。それに私はうん、と返す。ぱちぱちと何輝ける音と香ばしい香りが立ち込めている。おいしそうな香りは鼻からお腹へと届いて、私のお腹をぐ~、っと鳴らす。早くご飯を食べたい気持ちを抑えながら、そのまま立ち止まらずに顔を洗いに洗面所に向かう。蛇口をお湯の出る方にひねり水を出す。最初は氷のように冷たいが、少し待つとだんだんぬるく、そして暖かくなっていく。そこでようやく両手でお湯を掬って顔を洗う。顔に水が触れた瞬間は暖かいけれど、手から流れ出ていくに連れてすぐに冷たくなっていく。それは顔も同じで、早く拭かないとすぐに冷えてしまう。一、二回顔を洗うと、手早くタオルで水を拭き、保湿のためにローションを顔になじませる。

 顔を洗ったあとは髪だ。寝ている間にぼさぼさになった髪に櫛を入れて梳かしていく。少し寝癖がついているけど、まあ今日はいいだろう。もうそろそろ切ろうかな、とも考えている神を後ろいまとめて、ヘアゴムでまとめる。うん。今日も私の完成だ。

「ごはんできてるよ。早く食べなさい」

 母さんに急かされながら、私は席に着く。いただきます。今日は焼き鮭か。ちょっとしょっぱいけれど、ごはんと一緒に食べると不思議と気にならなくなる。焼き魚とは偉大な発明だ。焦がさない限り、どんな魚でもおいしくなってしまう。サバでも、アジでも、そして鮭でも。お味噌汁は今日は赤だしだ。私は赤くてちょっと濃い方が好きだし、今日はなんだかいいことがありそうな予感がする。

 なんとなくテレビのリモコンを取ってチャンネルを変える。朝だから、どこの局も放送しているのはニュースやワイドショーばかり。アニメも何個かやっているけど、どれも子供向けで、見る気にはならない。とりあえず番号順にボタンを押していると、

『……続いて今日の星占いです』

とアナウンサーが口にする。おっ、と思ってリモコンを置く。

占いもまた、偉大な発明だと思う。星座であろうが血液型であろうが、色々な要素で手軽に自分の運を測れるのだ。誰もが当てはまるものだ、とも言われるけれど、この前見たテレビではかなり手が込んでいることが紹介されていた。それに、もし適当なことを言っているのだとしても、占いに言われたことが実際に起きたらそれはそれで楽しいのだから、そんな目くじらを立てなくてもいいんじゃないか、と思う。  

 そんなことを考えながら自分の順位を確かめる。私の星座はふたご座だけど、なかなか出てこない。これは低いんじゃないか、と思っていると、

『ごめんなさい、最下位はふたご座のあなた。小さな不運が重なってしまう一日になりそうです。ラッキーアイテムは、手袋!』

と、女子アナの声が無情に告げる。

 あ~あ、予想、当たっちゃったよ。ちょっと残念な気分のまま、私は味噌汁の残りをすすった。ちなみに一位はかに座だった。くそ。いつもはよく下の順位なのに。続けざまにアナウンサーは今日の天気を告げる。もう三月に入って一週間ほど経つけれど、まだまだ冬は終わらなさそうで、今日は一層冷え込むらしい。最高気温は6℃。今日も暖かくしていくか、と思って学校に行く支度をしに二回に戻る。

 何を隠そう、私はペンギンが大好きだ。愛らしいフォルム、あるのかないのか分からない小さな目、白と黒の身体に入るオレンジや黄色のライン。陸の上ではてちてち歩くのに水中では弾丸のように早く泳ぐギャップ。ああ、可愛いなあ。コウテイもアデリーもフンボルトも、みんなみんな! だから私の部屋は色々なペンギングッズで満たされている。クッション、壁紙、毛布、縫いぐるみ。そしてもちろん今日のラッキーアイテムも。ただ、今日は折角だからいつもつけてるものとは別の奴をつけていこうと思い、タンスを開けていつものピンクとは違う、パステルブルーのものを取り出す。もこもことした毛糸で編まれていて、手の甲にフェルトのペンギンがついている。これならたぶん今日はラッキー間違いなしだ。

「あさひ~、早く行かないと遅れるよ~」

 下から母さんの声がする。慌てて時計を見ると、もう八時になっていた。そうだ、こうしちゃいられない。早く行かないと電車が出てしまう。急いで手袋をつけて、マフラーを巻く。リュックを右肩にかけながら、階段を降りると母さんが弁当を持って待っているのでそれを受け取ってリュックに入れ、玄関を飛び出した。間に合うといいんだけど……。

 

 大急ぎでいつもの道を走る。大通りは既に多くの人が駅に向かって歩き始めている。サラリーマン、OL、学生。たくさんたくさん。車も多く走っていて、朝が来たなあと実感する。走りながら時計を見ると、あと3分ほどで電車が出てしまう。やばいやばい。急がないと本当に遅れてしまう。駅にはあと少しだけど、ちょっと本気を出さないとダメそうだ。朝から走りたくはないんだけどな。しぶしぶ頑張って走りだす。


 ……間に合わなかった。駅に着いたのはちょうど電車が来たタイミング。階段を駆け上がってホームに向かうけれど、着いた時にはもう遅く、電車のドアは私の伸ばした手などつゆ知らず、目の前で無情にも閉まってしまった。占いが本当になりそうで少し怖い。まあ、諦めて次の電車を待とう。

 電車が出た直後は人も少し少なかったけど、ちょっと待つにつれ次々人が来た。ここら辺は結構大きな街だからか、比較的たくさんの人が電車を使う印象だ。毎日この時間は通勤ラッシュで電車の中はパンパンだ。そこに毎日乗り込んで、痴漢に気を付けながら学校に行くのは女子高生どころか電車を使う学生の宿命かもしれない。むき出しのホームに強い風が吹いた。

 

 次の電車が来たのは5分後だった。だけど多くの人が乗り込んできたことでたちまちラッシュ状態になってしまう。外は寒かったのに中は暖房が効いているのもあって中は蒸し暑く、マフラーと手袋を外してしまった。おまけに走って駅に来たのもあって少し汗をかいてしまった。手で軽く仰ぐも当然焼け石に水だ。早く着かないかな。そしたら逆に涼しくなるのに。


 いつも乗る電車は13分ほどで学校の前の駅にたどり着くけれど、朝はやはり乗り降りする人が多いのもあってたいてい2分ほど遅れてしまう。だが、たかが2分と侮ってはいけない。この2分が命取りなのだ。全力で走っても横断歩道に阻まれて遅刻寸前になる時間、それが2分。普通にいけば間に合うのに、それが原因で遅れたのも何度かある。だから毎朝電車を呪うのもよくあることだ。加えてただでさえいつもの電車を逃しているから、急がないと本当に遅れてしまう。だからいつもより焦って電車を降りて駆け足で階段を下り、学校に向かって走る。

 これが、良くなかった。靴ひもがほどけているのに気づかなかったんだ。階段を下りたそのままの勢いで走りだそうとしたその時、ほどけた左足の靴ひもを勢いよく踏んでしまった。すると走りだそうとした勢いは前に向かずに地面に向かう。踏み出そうとした足が踏み出せずに、バランスが崩れる。あ、やっちゃった。これは痛いぞ。と思ったのは一瞬、私の身体は気づいたら地面に叩きつけられていた。

 とっさに右半身を地面に向けたから上半身の被害はさほどではなかったけど、スカートからのぞく膝をすりむいてしまった。擦り傷なんて久しぶりで、ジンジンと突くように痛む。

 今日の占いはよく当たるな。電車は乗り遅れるわ、ラッシュで人はパンパンだわ、こけてしまうわ、散々だ。ラッキーアイテムの効果もないのかもしれない。……何か悔しいな。折角今日はいつもと違う手袋つけてきたのにな。しかし、そんな私のことなどお構いなしに膝は痛む。どうなってるのかと抱え込んで見ていると、

「どうした、あさひ?」

 と上から声をかけられた。驚いて上を見る。

「……雄介」

 声の主は幼馴染の雄介だった。雄介は私の家の近くに住んでいるけれど、高校に入ってからめっきり会うことは少なくなった。それなのに声をかけてくれたことに少し驚いて、反応が遅れた。

「何でもないよ。ちょっと擦りむいただけ」

 平静を装って声をかける。

「ん~?」

 しゃがみこんで、私の傷を負った膝小僧を見る雄介。

「……痛そうだな。そうだ、これ、使えよ」

 そう言いながら雄介はカバンのポケットに手を突っ込んだ。ごそごそとまさぐった後、出したのはばんそうこうだった。

「意外だね、ばんそうこう持ってるなんて」

「俺、サッカー部だし。よく怪我するからな」

「ふ~ん。ありがと」

 雄介の出したばんそうこうを受け取り、軽く傷口を拭いてからしっかり張り付ける。おかげでだいぶましになった。

「大丈夫か? 歩ける?」

「そこまでじゃないよ。……あ。急がないと遅れちゃう!」

 ほら早く、と雄介に声をかけて走り出す。雄介も気づいたのか私の後を追って走り出した。今日の運勢は最悪。だけどやっぱりラッキーアイテムの効果はあったみたいだ。気持ちよく風が頬を撫でていった。

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