第15話

 帰宅後、汗だくの俺は、叔母さんに風呂を勧められた。


 素直に感謝して、早歩きで浴室へと向かう。障子に挟まれた板廊下を奥まで進み、制服を脱ぎながら洗面所の戸を開く。大きな鏡とシンクを横目に、乱雑に制服のズボンを脱いで、ドラム式の洗濯機の上にあるカゴに入れた。


 洗濯機の扉を力強く開き、汗だくのシャツと下着を投げ入れるように突っ込むと、浴室への引き戸を開く。すると、生暖かい湯気が中から覆いかぶさってきた。


 湯気はすぐに自分の後ろへと流れ、ぼやけた浴室がはっきりと見える。檜が張り巡らされた壁、黒い石を思わせるタイル、煙立ち登る大きな浴槽、どこかの旅館にあってもおかしくない。


 俺は、これまた檜でできた風呂椅子に腰をかけ、鏡と向きあい、シャワーのハンドルを回す。


 お湯になりきらない水を身体中に浴び、シャワーを止めた。それから、叔母さんのやけにいい香りのするシャンプーやボディーソープを使って、荒く体を洗った。


 シャワーで泡を流し終えると、すぐに立ち上がり、浴槽へと一気に体を沈める。目を閉じて、溢れるお湯が床を叩きつける音を聞く。暗く暖かい世界の中、排水口に流れ込む水の音が聞こえなくなると、ゆっくりと目を開ける。首を後ろに倒し、立ち昇る湯気を見上げ、過去を振り返った。


 *


 夕方、小学校の校舎裏、俺の前には目をぎゅっと瞑った瑞樹が立っていた。習い事の体操に着る、白のタンクトップと黒のジャージを好んでいたのに、今は、短いスカートを履いて可愛い格好をしている。顔は夕焼けなんか比べ物にならないくらいに赤く、握られた拳はぷるぷると震えている。


「私と付き合ってください!」


 瑞樹は俺に向かって大きな声で告白した。少しの間あっけにとられていたが、言葉を理解すると、体の芯からこそばゆくピリピリとしたものが溢れ、全身をかけ巡った。視界は、はっきりと広がり、景色が鮮明に見える。嬉しさからくる爽快感。遅れて、焦がれた感情がやってくる。


 母親同士が仲よかった俺たちは、幼い頃から常に一緒にいた。その一つ一つの想い出が湧き上がり、目がひりつくほど恋心が上ってきていた。


「俺も……」


 しかし、言い淀んだ。今日の体育で言われた事がフラッシュバックする。


『お前、6年生になっても逆上がりができないのかよ。マジでダセエ』


 今日の体育の時間、男子の中で一人だけ逆上がりが出来なかった。そのせいで、嘲笑の的にされたのだった。


 悔しかった。だからこそ、とてつもない不安がのしかかってきた。


 逆上がりが出来ないまま付き合えば、瑞樹までバカにされるんじゃないか。俺のせいで、瑞樹が嫌な想いをすることになるかもしれない。


 言った男子達にとっては、ちょっとした揶揄いに違いなかったのだろう。けれど、俺にとっては重大な事だった。

 だから、俺は瑞樹に告げた。


「逆上がりが出来るようになるまで待ってくれ」


 瑞樹は俺の気持ちに気づいたのか、うんと大きく頷いた。


 それから俺は努力した。毎日放課後は、公園に通って暗くなるまで鉄棒に張り付き、昼休みは、クラスメイトのサッカーの誘いを蹴って、逆上がりの練習をした。


 けれど、一向に上達しなかった。ただ闇雲に無我夢中でやり続けたせいだ。出来なければいけないと脅迫観念に迫られ、何故出来ないのかを理解するための冷静さが欠けていた。


 練習すれば練習するほど、逆上がりが出来ないことを笑われる。それがさらに俺を盲目にしていった。瑞樹との時間もなくなり、いつしか鉄棒以外何も見えないほどになったのだ。


 結果、出来ないまま、秋が過ぎ、冬が終わる。ついに卒業式の日を最後に瑞樹の姿は見なくなった。



 瑞樹が居ないことに気づいたのは、中学に上がってからの事だった。


 入学式の日、クラスを確認した際に瑞樹の名前がどこにもなかった。俺は焦り、学校が終わると、一目散に瑞樹の家を訪ねた。しかし、その家は売りに出され、もう誰も住んでいなかった。


 瑞樹がいなくなったことを認められなかった俺は、その日町中を駆けずり回り、色んなところを探した。だが、みつからない。瑞樹を探して朝まで走った。けれど見つけられない。そして皮肉にも、俺を探していた母親に見つけられて帰宅した。


 帰宅後、最初は怒られていたが、あまりにも上の空だったようで母に心配され、何があったのか尋ねられた。馬鹿正直に答えると、瑞樹は引っ越していったと聞かされた。最初は母が何を言っているのかわからなかった。だが意味を理解すると、俺は盲目になっていたことにやっと気がついたのだった。


 自分の今までの行為が思い返され、どうしようもなく好きだった瑞樹を失い、深い絶望の底に沈んだ。それは、暗い井戸の底に住んでいるような、光のない地中にただ埋まっているだけのような気分であった。


 全ての気力を奪われた俺は何も出来ず、ただ暗い自分の部屋に篭った。


 それでも悲しみに耐えきれず、引き篭もってから3日目、逆上がりが出来ないから瑞樹は去ったのだ、出来れば戻ってくるのではないか、と家から出て公園に向かった。ただ鉄棒に縋ったのである。


 公園に到着し、逆上がりの練習を始めると、今までが嘘かのように、どんどん上達していった。


 そしてある日、ついに逆上がりに成功した。しかし、瑞樹が帰ってこない事を確認すると、俺は全てを正確に理解し、自分の過ちに気づいたのであった。


 *


 無理に変わろうとしたのがいけなかった。


 湯気のせいか目の前がぼやける。


 あんなに好きだったのに、引っ越すことすら教えられない関係に変わった。


 思い出しても笑えていたのに、今は悔しさがこみ上げてくる。ただ過去の事を真剣に受け止められていなかっただけだったのか。それとも、会って気持ちが再燃したとでもしたというのか。


 今日、瑞樹から逃げるように去ったことが思い返される。


 惨めだ。好きだった相手に、気まずい態度を取られ、嫌がられ、自分を隠して必死に気を遣う。そして逃げるように走り去ってしまった。ああ、惨めだ。


 顎に力が入る。握った拳、頬までブルブルと震え、水面が波立つ。


 もう、こんな思いをしたくない。


 自分の置かれている環境を鑑みる。


 今俺は、公園バトルという異な文化に関わっている。そして、対校戦の代表として東高生の期待を背負っている。勝たなければ、今までと変わらぬ生活を送ることができない。


 そこまで考えが至ると、何かに急かされるように浴槽から出た。

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