第16話

 青白く寒い朝5時の公園。チクチクと煩い鳥の声を聞きながら、俺はハケを握っていた。


 スプリング遊具の前に屈み込み、どろりとした液体をハケでハンドルに塗りつけていく。周りには甘い香りが漂い、コバエのような羽虫がまとわりついてくる。鬱陶しさから手で払っていると、怒声が飛んできた。


「赤兎馬ランド! ちゃんとしてください! 今日の対校戦で勝つんでしょう!」


 声の方に顔を向けると、カシラが蜂蜜の小瓶を抱えていた。


 怒るくらいなら手伝って欲しい。そう思うが、カシラの服装を汚すことが躊躇われる。デニムシャツにボーダーのTシャツ、そしてベージュのスカート。テンプレなファッションだが、カシラの美貌も相まって上等に見えるのだ。仕方ないので、視線を遊具に戻し、黙々と蜂蜜を塗っていく。


 今日は対校戦当日の土曜日。瑞樹と出会った翌日、カシラと連絡をとり、対校戦についての話を聞いた。今回の対校戦はトーナメント形式で、一回戦は午前中に北高対東高、午後からは南高対西高で行われる。決勝は来週に持ち越されるらしい。


 今日勝つための策を打つのに、早朝から呼び出されたわけであるが、早くも心配だ。


「なあカシラ。本当に大丈夫だよな?」


「大丈夫です! 北高代表の北村は、虫とネチネチするものが苦手なんですから!」


「そんな思春期の女子中学生みたいな話を信じていいの?」


「うっるさいですね。ネチネチと。これは影分身ジョッキーも、本質に気づいて負けたんじゃないですかね?」


「じゃあ、蜂蜜塗らなくても俺だけで良いんじゃないの?」


「あ〜ネチネチ、ネチネチ!」


 カシラはそう吐き捨てて、スマホをいじり出した。


 今回は心配しすぎた俺が悪いので、黙って蜂蜜を塗る。学校での英雄扱いは変わらず、みんなからの期待に押し潰されそうで、つい大丈夫か不安になってしまったのだ。


 前も上手くいったし、カシラを信じよう。強いストレスとプレッシャーの中、なんとか希望を持っていられるのもカシラが手助けしてくれるからなのだ。カシラの思惑はどうあれ、俺の救いになっているのは否定しようのない事実である。


 信じることを決めると、負けたときの大きな不安が軽減して気が楽になる。同時に弱った人間が悪徳宗教に騙され、盲信する感覚を少し理解した。


 遊具のハンドルや座席に塗り終えると、既に空は明るくなっていた。白い光を放つ太陽に目をしばたかせる。腕で額の汗を拭い、そのまま瞼を擦った。


「カシラ、これくらいでいいか?」


 遠くに配置された滑り台、その出口に座っているカシラに声を掛けた。すると、カシラはのっそりと立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。


 俺は半身になるようにしてスプリング遊具までの道をあける。


「御苦労」


 そう言って、カシラは俺の前を通って遊具を物色する。何度か頷いたのちに帰ってきて、肩をポンと叩いてきた。


「よくやりましたね。赤兎馬ランド」


「救いになってるのはわかってる。うん、わかってるんだ。でもさ、流石に殴っていい?」


「えっ怖い。突然なんですか? 誰をですか? 対校戦で暴力振るったら反則なのでやめてください」


 きょとんとそう言ったカシラに呆れ、怒りが収まる。


 毎回怒っていても仕方ない。カシラとの付き合いも対校戦が終わるまでだ。気にしないようにしよう。


「どうしたんですか、赤兎馬ランド。急に悟った顔して。顔芸の練習でもしてるんですか? 多分、変な人に見られるからやめた方がいいですよ。正直キモいです」


「……なあカシラ。写真撮らないか?」


「また突然ですね。可愛いカシラちゃんと写真撮りたいのはわかりますけど」


「ああ。叔母さんが持っているエクササイズ用のサンドバックを使いたくて」


「へ? 何を言ってるんですか? あと笑顔が怖いです」


 カシラの写真を貼ったサンドバックを殴る妄想をしていたら笑顔になっていたようだ。相当俺は疲れているか、潜在的なサイコパスなのだろう。怒っていても仕方ないと思った矢先に、耐えきれなくなるなんてありえない。


 その時、車の音が聞こえて反射的に目を向ける。フェンス沿いに低速でやってきた車は、公園の入り口で止まった。中から中年の男が降りて来て荷台のドアを開ける。そして、何かを取り出そうと体を乗り込ませた。


「あれは何をしてるんだ?」


「対校戦はこの町の人の楽しみですからね。日陰で観覧できるように、テントを運んで来たんですよ」


「もしかして、この町の高校生以外も観に来るの?」


「そうですね。たまに屋台とかも出ますよ」


「普通子供が真似したらどうするんだ、って怒らない?」


 カシラは首を捻って「う〜ん」と唸る。そして、ぽん、と手を叩いて話し始めた。


「だんじり祭りは危ないからやめろって、よく言われるじゃないですか。でも、毎年開かれるわけですよね?」


「まあね」


「それって、昔から続いてきた伝統を終わらせる事が、心理的に作用すると思うんですよ。古くから大切にしてるものに口出すなんて野暮じゃないですか?」


 たしかに、昔からの伝統を終わらせることには惜しさを感じる。第三者が首を突っ込んで、止めろ、と言うのも、あまりに野暮な話だ。けれど、しっくりこない。


「それに、公園バトルは危ないからこそ価値が上がるんです。危険を冒して勝ち取るから、皆んなも納得するんですよ」


 そう言ったのち、カシラは大きく息を吐いた。呆れた、そんなこともわからないのかっていう態度だ。


 しかし俺は未だしっくりとこない。多分、この町で育ったカシラと俺の間には、公園バトルの価値観に違いがあるせいだろう。危険だからといって値打ちがあるとは到底思えない。


「なんとも微妙な顔してますね。まだ理解してないのですか? 脳細胞の数少なめですか?」


「世間一般的に、カシラの脳細胞の数が圧倒的に少ないとなるなら、俺は少なめかもしれない」


「残念でしたね。私は脳細胞の数がアインシュタイン並みですから、赤兎馬ランドが私以上はありえないです。可哀想に」


「なるほど。仮にそうなら、紙一重で別の方か」


「なんですか? 私を馬鹿だと言いたいんですか? 喧嘩なら買いますよ」


「俺は買ったつもりでいたんだけど、売ってなかったの?」


「何を言ってるのか訳がわかりません。伝えることもできない赤兎馬ランドは馬鹿ということが証明されたので、仮に喧嘩とするなら私の圧勝ですね」


 勝ち負けに関して、ここまで主観的なものはあっただろうか。怒りを通り越して呆れてしまう。


「わかったよ。カシラが勝ちで、俺の負けでいいよ」


「でったー! 負けを認められず、大人な態度取った風にプライド守るやつぅ! 痛い痛い痛い! もう高校生なんですから、そんな痛い行動取らないでくださいよ〜」


 本当にこのうざい生き物どうしてやろうか。


 呆れを越してまた怒りが沸き立つ。無意識に拳が握られていたことに気づき、慌てて自らを諌める。


 落ち着け。今日は対校戦だ。これから精神を削られるのに、今のうちから消耗している場合じゃない。


 一刻も早くカシラから離れたいが、今どこかへ行こうとすると「ねえ、今どんな気持ち?」と嫌らしい笑みを向けてきて、つきまとわれる事が想像に難くない。


 哀れな生き物の生態を予測できるようになった事に嘆きつつも、最善策をとる。


「そういえばさ。カシラはどうしてそんなに代表になりたいんだ」


「あれ、話変えて逃げですか?」


「それが一番めんど臭くなさそうだし」


 俺がそう言うと、カシラは大きくため息を吐いた。


「まだそんな態度を取るんですか。いい加減、私も飽き飽きしてきたので、忘れてあげましょう」


 カシラが尊大な顔で話し始める。


「代表になれば、みんなから尊敬されるし、一番大きな態度が取れるじゃないですか。人間なら、権力欲を求めて当然です。例えば、嫌な奴を、倒れるまで電気の紐とボクシングさせても許されるんですよ。ほら、良くないですか?」


 後半はともかく、それは違う、とは言い切れない自分がいた。


 実際に褒めそやされたり、上げられたりした時は嬉しかった。けれど期待を裏切れば、皆んなは俺にどんな対応をとるだろう。そんな不安に一瞬で塗り替えられた。現在もプレッシャーに恐怖し、押しつぶされそうになっている。

 変わりたくない。変えたくない。変わって欲しくない。


 息苦しくなってきた。胸がぎゅうぎゅうに締まって苦しい。


「ど、どうしましたか赤兎馬ランド!? 流石の私でも、赤兎馬ランドの顔で便器掃除まではしませんよ!?」


 カシラの見当違いの言葉に、少し窮屈さが和らぐ。


「あ、ああ。別にそれは心配してない」


「そ、そうですか。ちょっと心配して欲しいという乙女心が湧きましたが、赤兎馬ランドが元気ならそれでいいです」


「それは乙女心ではないと思うんだけど」


「減らず口が叩けるほど、回復しすぎたなら、もう少し弱っていても良かったかもしれませんね」


 そう言いながらも、カシラは笑った。そんな様子を見て疑問が湧く。


「カシラはさ、本当に俺が雑巾にされると心配したの?」


「勿論です。他に赤兎馬ランドが心配するようなことがありますか? まさか、このカシラちゃんがフォローしたのに、まだ負けたときの事を憂慮しているのですか?」


 カシラはジト目を向けてくる。俺は正体不明の罪悪感に駆られ、視線から逃げるように頷いた。


「はあ、赤兎馬ランドは小心者ですね」


「うっ、どうせ俺は小心者だよ。でもさ、カシラは代表になって立場を変えたいって言うけど、負けて蔑まれたりして、周囲が持つ自分への気持ちが変わることに恐怖は感じないの?」


 カシラはきょとんと目を丸くして自らを指差す。


 俺が頷くとカシラはからから笑った。


「まさか。私は自分を権力者の立場に変えたいから赤兎馬ランドと組んでるんですよ。確かに立場や環境が変わったりして、自分に悪意が向けられることには恐怖します。でも……」


 その時、男の野太い声が聞こえ、カシラの言葉が遮られる。


「お〜い、兄ちゃん、姉ちゃん。ちょいとテントを建てんのに手伝ってくれねえか?」


 声の方を見ると、さっきの中年の男が、肩に鉄パイプの束を担ぎ、こっちを見ていた。


 俺は再びカシラに顔を向けると、照れ臭そうに笑っていた。


「なんか、私らしくないことを語ろうとしてました。さあ、行きますよ赤兎馬ランド! いざ、お手伝いです!」

 そう言って、カシラは男の方へと走っていった。

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