第9話

 目の前には、ほかほかと湯気を立てる大きな器。中には薄茶色の出汁、浸かっているのは白くて太い麺。最後に湖に浮かぶボートのような狐あげが乗っている。


「頂きますっ!!」


 栗色の女がきつねうどんを食べている。汁を飛び散らせながら麺をすすっていて、凄くはしたない。


 結局逃げ切れず、貯水タンクの下から出てきた埃まるけの女に「ご飯食べてないから、ついてきて」と涙ぐんだ声で頼まれ、渋々食堂までついてきたのであった。


 各々が食事に談笑に楽しんでいる声から逃げるようにして、長机が何列も並ぶ食堂の隅にある丸テーブルを占拠した。そして現在は、女の食事姿を俯瞰しているというわけである。


 テーブルに置いてあった緑の布巾で、飛び散った汁を拭きとりながら語りかける。


「で、なんでここまで連れてきたんだ?」


 女は麺を一本咥え、ゆすりながら答える。


「ごはん、はだだったから」


「……そうですか。質問を変えるけど、なんでつけ回してきたんだ?」


 そう問うと、女はやたらと踏ん反り返り、口を猫のように変え、麺を一気に啜った。


「それはですね! 赤兎馬! あなたが、惨めだったからですよ!」


 つい目頭を押さえてしまった。いや、涙まで滲んでいるかもしれない。


 こんな惨めな生き物に、俺は憐れまれているというのか。


「心配しないでください! 私が赤兎馬を救ってあげますから!」


 しかも救われてしまうのか。こんなに惨めな生き物に……。


「感動の涙まで流すなんて。良いんですよ、赤兎馬。お礼は私の奴隷になれば良いから」


 女の顔は、まるで聖母のように慈愛に満ちていた。けれども俺に救いはなかった。


 あまりに悲嘆しすぎて、うつ伏せになってしまう。だが、よしよし、と撫でられ始めたのがあまりに不快すぎてガバッと起き上がる。


「うわっ!?」


「うわっ!? じゃない! だいたいお前は誰なんだ!?」


「そ、そう、まくし立てないでください赤兎馬! これから救ってあげようって人に対して失礼じゃないですか!?」


「奴隷にされるくらいなら、救ってもらわなくて結構だ! そもそも、何から救おうとしてるんだよ!?」


「あの悪魔! 東奈緒から救ってあげようっていうんですよ!? この私、栗原樫薇(クリハラ カシラ)の奴隷になるくらい当然じゃないですか!」


 女のキリキリとした大声が食堂に響き、耳を手で押さえる。


 無音の世界でふと我に返り、あたりを見回す。長机に座るグループ、一つ開けて隣の丸テーブルに座る女子二人組、カウンターでお盆を持って待つ男子、皆が皆手を止めて、奇異の視線を向けてきていた。


 俺は慌てて立ち上がり、手を伸ばして女の肩を押さえる。


「わかった! 俺が悪かったから! ちょっと黙って!」


「お、おお。普通に触られるのは不愉快ですが、冷静さをかいていたのは事実です。ほんと私らしくない」


 お前が冷静だった時を見たことがない、と言ってやりたかったが、我慢して手を離す。あたりをもう一度見回すと、皆は俺の視線から顔を逸らしてきて悲しくなった。だが、見て見ぬふりをしてくれるならばと口を開く。


「で、え〜と、栗原だっけ?」


「樫の木の『樫』に薔薇の『薇』と書いて樫薇です。カシラって呼んでください」


 葉にも茎にも棘があるじゃないか。オマケに苗字には栗まで入っている。名前からして全く触れたくない。名は体を表すというのも馬鹿にできないな。


「あのさ、栗原……」


「カシラです」


 栗原は平然面で口を挟んできた。


 俺に名前で呼んで欲しいのだと思うが、それはちょっと気恥ずかしい。こんな惨めな女でも外見だけは良い。良いどころか最高だ。正直、そんじょそこらのアイドル、モデル程度じゃ歯が立たないくらいに可愛い。こちとら普通の男子高校生としては、下の名前で呼ぶことに抵抗があるのも当然である。


「えっと、栗原じゃダメ?」


「ダメです」


「俺としてはあんまり呼びたくないかな」


「じゃあなおさら呼んでください」


「……ダメな理由は?」


「カシラって呼ばれるの好きなんです」


「なんで?」


「ほら、お偉いさんは『頭』って呼ばれてるから。イヤイヤ呼ばれてる方が、本当っぽいじゃないですか」


 どうしよう。さっきとは違う意味で、呼びたくなくなってしまった。だが、どうせこの女のことだ。呼ばないとまた面倒になることに違いない。溜息を吐いて嫌々名前で呼ぶことにする。


「わかったよ、カシラ」


「良い嫌々感ですね。何だか、魔王が騎士を屈服させたみたいで、ゾクゾクします」


 殴っても良いだろうか。本当に。


 しかし、今殴ってしまえば本当に普通の学園生活が送れなくなってしまう。両親に無茶を言い、叔母さんに迷惑かけてまで、俺は自分の意思を貫いたんだ。こんなところで、変わらない学園生活を諦めたてたまるものか。


 震えて白くなる拳をなんとか抑えて口を開く。



「まずだ。朝、俺に怯えていたのはなんで?」


「お、おおおおおおびえてなんかいませんよ! た、ただ、『影分身ジョッキー』に勝った『赤兎馬』がいて驚いただけですっ!!」


 カシラは、明らかに取り乱し、顔に図星と浮かべた。


 反応から見て、昨日の公園バトルを見られていたか……。本当、なんで昨日公園に行ってしまったんだろ……。


 だが、終わってしまったことは仕方ない。まずは、なぜ怯えられたのかを探っていこう。


「そうだったのか。勘違いしたわ」


「ええ。そうです! 勘違いも甚だしいです!」


 カシラはそう言って袖で額を拭った。


「俺は引っ越してきたばかりであまり知らないんだけど、公園バトルの二つ名持ちは、どういう存在なんだ?」


 カシラの警戒が薄れたと見て尋ねた。すると、カシラは身を乗り出して、嬉しそうに語り始める。


「それはもう! 高校生の憧れですよ! 公園バトルの猛者! 凄くカッコいいじゃないですか!」


 なるほど、分からん。


 キラキラとした瞳でそう言われても全くしっくりこないので、自分の理解できるレベルまで噛み砕いてもらうことにする。


「例えるなら何?」


「う〜ん、街で出会ったら、道を譲らなければいけないし、二つ名もちが公園バトルで勝っているお陰で、施設を堂々と使えるし、う〜ん……」


 カシラは首を捻って考え込んだが、俺は昨日の叔母さんとの会話と絡め、なんとなく把握した。


 恐らく公園バトルは昔の伝統そのままに不良の喧嘩的な役割を未だ持っているのだろう。二つ名持ちは喧嘩が強い名の知れた不良みたいな感じに違いない。


 それに憧れるってことなら、カシラは不良漫画に憧れる高校生みたいなやつなのだろう。


 全くもって滑稽で、現実感のない話だ。しかしそう考えれば、朝のカシラの反応にも納得がいく。これで一つ謎が解けた。次の謎を解いていこう。


「まあ、大体わかったからいいよ。じゃあ、なんで俺を探してたんだ?」


「ああ、それはですね。さっきも言ったと思いますが、東奈緒から貴方を救ってあげようと思ったからです」


「……どういうこと?」


「ラインで回ってきましたよ。転校生が東高校の公園バトル代表に目をつけられたって」


 カシラは制服の胸ポケットからスマホを取り出し、この紋所が目に入らぬか、と言わんばかりに突き出してきた。


 画面に映っているのは、グループラインの画面。斜め上から撮られた女子のアイコンから出ている吹き出しには、


『速報!! 転校生が東さんにバトルをふっかけられた!』

 その下には、

『まじか!?』『ってことは、今日バトルってこと!?』『キターー!!』『ktkr』『部活サボり安定!!』『転校生も終わったな』と様々なアイコンから、短い吹き出しが続いていた。


 状況が全く理解できず、問いかける。


「ねえ、俺って終わってるの?」


「相手は東高の代表、東奈緒ですから。みんなはそう思うでしょうね」


「そもそも、公園バトルを受けてないんだけど」


「もしそうなら、いい出した子は火炙りですが」


 淡々と告げたカシラに、少し怯えてしまう。


 そ、そんなに罪重いのかよ。まあでも、確かに番長とだれかが喧嘩するってデマを流すのは罪深いか。でもそれなら、ある程度確信がないと下手に言えない筈だ。


 そう思い、東との会話を思い出す。


「あ、そう言えば、放課後空けとけ、とか言われたっけ」


「ちゃんと公園バトルに挑まれてるじゃないですか」


「いや。それだけで、挑まれたわけじゃないだろ」


 カシラは「これだから」と大きくため息をはいた。


「まさか、転校初日にデートにでも誘われたと思ったんですか? もしそうなら、お花畑が過ぎますよ」


 ダメだ。抑えろ。殴っちゃいけない。殴っちゃいけない。


 大きく息を吸い込んで、自分を抑える。それに、物言いこそあれだが、カシラの言わんとしていることは分からなくもないのだ。


 見も知らない転校生を放課後に誘うなんて、おかしな話である。しかも、あの時の東は俺に対して激昂しており、復讐に燃えていた。だから、なんらかの仕返しをされるだろうなぁ、とは予想していた。


 だけどなあ。公園バトルのお誘いって、わかるわけないじゃん……。まあ、いいか。適当に負けよう。この前みたいに勝って面倒なことになるのも勘弁だしな。


 内心、そう結論を下すと、カシラは優しい声で語りかけてくる。


「まあ、安心してください赤兎馬。この私が無事に勝たせてあげますから」


「いや、別に勝っても面倒になりそうだから、勝ちたくないんだけど」


「何を言ってるんですか!?」


 カシラは突然激昂し、机に両手を叩きつけて立ち上がる。


「公園バトルに負けるってことは、東の格下に成り下がるってことですよ!?」


「べ、別に、それでも良くない?」


 急に熱がこもったカシラに気圧されながらも、正直な感想を述べた。


 相手はギャルで、カーストトップ。尚且つ、公園バトルでは、番長的な立ち位置。カースト的に元々下ではあるし、みんなも下だ。普通の学園生活を目指す俺にとっては、下手に勝つより負けた方がいい。


 しかし、俺の気持ちとは反対にカシラは断固拒否する。


「ダメです! 『心寂しい思いをしている赤兎馬につけ込み、東を倒してもらって、そのあと私に代表を譲らせる』という、私の計画が台無しじゃないですか!」


 この女。それが目的で近づいてきたのか……。


 朝はあんなにびびっていた癖に、いざ自分が上に立てると思えば、ころりと態度を変えやがって。何が頭だ。やられ役の小悪党みたいな考えしやがって。


「なんですかその軽蔑するような目は?」


「別に」


「なんですか!? エリカ様ですか!? そんなネタ、今どき誰が知ってるんですか!?」


「ああもう、かったるい!」


 俺はあまりに面倒臭くなり、カシラを振り切るように言った。


 もういい、大体の状況はわかったし、結論が出た。東が俺に舐められていると勘違いして、公園バトルを挑んできたこと、カシラは、弱っている俺につけ込み、東を倒させて代表になろうと近づいてきたってことだろう。なら、カシラを無視して東に負ければ普通の学園生活を送れる。


 俺は急にバカらしくなって、一刻も早く去ろうと立ち上がる。そして、カシラに背を向けて歩き始めた。


「ちょっ、どこ行くんですか赤兎馬!?」


「教室に帰るんだよ」


「待ってください! まだ私、うどんを食べきってません!」


「知らんわ!」


 そう言い放って、再び歩き始めたが、ガタリと椅子の鳴る音が聞こえて振り返る。すると、狐あげをトーストのように咥え、うどんを小脇に抱えて追ってこようとしているカシラの姿が見えた。


「お、追ってこないでくれ!!」


「何へ、れすか!?」


「色んな意味で追って来て欲しくないからだよ!」


 単純にカシラと離れたいだけじゃなく、周りからは白い目で見られるし、汁を制服に飛ばされたら困るし、普通にこんな狂気に満ちた行動をとるやつにも追って来て欲しくない。他にも理由を上げればきりがない。


 カシラは、ひまわりの種を頬張るハムスターみたいに狐揚げを口に入れ、もごもごと話す。


「わひゃりました! 私の善意が怖いんへふね!? 赤兎馬は優しさに触れたころがない繊細な人間と言うこひょへふね!!」


「違うわ!!」


 数えきれないほどの正解があるというのに、どうしてあり得ない間違いをするんだ!?


「ち、違うん、ですか?」


 カシラは油揚げをごくりと飲み込んで、心底驚いたような声を出した。


「なんでそんなに自信あったんだよ!? そりゃ違うに決まってんだろ!」


「そんな!? じゃあ、私が可愛すぎて急に恥ずかしくなったとかですか!?」


「それはとっくに過ぎてるよ!」


「それはどういうことですか!? 意味がわかりません! 人に理解できるように話してください!」


「俺が悪いの!? 理解してくれないのは、カシラじゃなくて俺が悪かったの!?」


「仮に私が犯罪をおかしたとしても赤兎馬が悪いです! 奴隷は主人の犠牲になるのは世の定めです!」


 だめだ。今一体、なんの話をしているのだろうか。


 取り敢えず、カシラが独善的で酷く頭が残念な女の子だとは確信した。やはり俺の学園生活に変わった女の子はいらない。


 かといってここで無視でもしようものなら、教室まで着いて来られてしまう。そうなれば、汁まみれの女に付き纏われる転校生、と可哀想な人間に見られるかもしれない。そうでなくとも、変人に見られることは想像に難くない。


「はあ……」


「な、なんですか、そのため息!?」


 誠に遺憾ながら、どうしてもカシラが諦めてくれないなら従うしかない。だが今回だけだ。


 カシラは俺が強いと誤解している。だからこそ、俺が東に勝てると信じているのだ。本気でやって負ければ、誤解が解けて俺を利用しようと思わなくなる筈である。


「わかった。お前の助けを借りて本気でやるよ。その代わり、東との勝負に負けても悪く思わないでくれ」


「初めから素直になればよかったんですよ。安心して私に任せておいてください」

 そう言ってカシラは余裕の笑みを見せた。

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