第8話

 辺りを見回すと、屋上の隅にある小学生のサッカーゴール程の貯水タンクが目に入った。そこ以外、隠れられそうな場所がなく、貯水タンクの裏へと一目散に逃げ込む。


 何であいつがこんな所に!? しかも「見つけました」とか言ってたか!? 朝はあんなに逃げてたのに、何で探されているんだ!?


 暴れまわる心臓に手を当て、背中は貯水タンクに預け、ズルズル滑り落ちながらしゃがみ込む。


 真上から照りつける太陽に加熱され、汗が出てくる。鼠色のコンクリートで出来たタイルが反射し、両面から焼かれているようだ。太陽を憎むように空を見上げると、真っ青な空の海を白い雲がふわふわと浮いていた。呑気にゆっくりと流れ、煽られているように思える。


 泳ぐ雲に苛立ちを覚えていると、扉の開く音がした。続いて、栗色の女の声が聞こえる。


「どこですか、赤兎馬? この私相手に、逃げようとも無駄ですよ?」


 この私って、今日初対面のやつが、どの私かわかるわけないだろ。


 つっこみたい気持ちを我慢して息を殺す。どうやら、俺を探しているように思えるが、こんな変なやつと関わりたくない。


「なるほど。流石、赤兎馬ですね。『鬼ごっこ』で勝負という事ですか。面白い、乗って上げましょう!」


 何がなるほどで、何が面白いんだよ!


 焦りと苛立ちに余裕を失っている俺とは反対に、栗色の髪の女は上機嫌な潤った声を出す。


「う〜ん、ここかな? それとも、ここかなぁ〜?」


 貯水タンクの裏に隠れているせいで、全く見えない。だが、口調から、愉悦たっぷりな様子が、容易に想像できて酷く不愉快だ。


「ふふっ、ここにも居ないとなると、あとは貯水タンクの裏ぐらいしか考えられませんねえ?」


 全く焦りの感じられない女の物言いに、最初から知っていたことがわかる。


 本当、何なんだこいつ!? ウザい!


 ペタペタとスリッパ特有の足音が段々と近づき、汗が頬を流れる。


 どうしよう!? 絶対に、この女と関わりたくない! 何か面倒な事になるに違いない!


 確信めいた予感を得ると、追い詰められた時に羽を生やして飛ぶゴキブリの如く、脳の回転が早くなる。


 両親、叔母さんに無理をさせてまで、環境を変えたくなかった。公園に行ったのだって、新しい町に変わらないものを求めたから。想い描いた理想の新生活も、普通の学園生活だ。そして今、普通の生活が失われそうになっている。


 そこまで考えが及ぶと闘志が漲り出した。足元を見ると、こいつが何故俺に気づいたのかを理解する。


 貯水タンクの下に30センチメートル程のわずかな隙間が存在していた。そこから足が見えていたのだろう。


 焦っていたとしても、それで隠れられていたと思うなんて、我ながら馬鹿すぎた。


 だが、気づいてしまえば、こっちも利用すればいい。貯水タンクの裏を確認するには、右からか、左からか、どちらかから周り込まなければいけない。


 つまり俺は、奴の対角線上に移動し、奴が裏に周りきった瞬間に逃げればいい。


 すぐにしゃがみ込み、隙間を覗く。


「ふふんっ! 気づいたようですね! 赤兎馬!」


 言葉から、俺が覗き込んでいる所が見えていると理解する。こちらからは、大体屋上の真ん中くらいに立つ白い二本足しか見えないが、女は腹立たしい顔をしていることも予想できる。


 白い二本足は近づいてきて、貯水タンクのちょうど裏側で止まった。


「はははは! 残念でしたね、赤兎馬! どうせ、回りこんだところを逃げ出そうと、思ったのでしょうけど、そんな簡単に乗ってやるもんですか!」


 不敵な笑い声が聞こえる。


 くそっ、お見通しってわけか! そして、うざい!


 だが、距離が縮まったことで相手から、俺の足は見えていないことだろう。見るには、しゃがみ込んで覗かなければいけない。


 未だやつは、俺の居処がわからないはず。なら、二分の一の確率。


 俺は覗きこむことをやめ、立ち上がった。


 右か、左か!?


 逡巡した後、右に決め、足音を立てないように、ゆっくりと歩く。


「そう来る事はお見通しですよ! 赤兎馬ぁ!?」


 聞こえた声はすぐ後ろから。


 まさか、すでに背後に回られていたのか!?


 焦り振り向くと、貯水タンクの下から、端っこのシメジみたいに、にょっきりと女の顔が生えていた。


「残念でしたね赤兎馬ぁ!? そう来るとは、ってあれ? 待って!」


 全てを聴き終えるまでもなく、俺は一目散に逃げ出した。


 ……あいつ、馬鹿だ。抜け出すのに時間がかかるだろ。


 足を大きく振り上げ動かし、熱せられた鼠色のタイルを力強く踏み込んで走る。屋上を吹き抜ける風を切り、景色を最高速で後ろに流す。


 ふとふり返るも、女の姿は見えない。未だ貯水タンクの下だろう。


 前を向くと、扉の一歩手前。俺は足に力を入れて滑らせるように止まりつつ、勢いのままに扉に手をかけた。だが……。


「うわあああああん! 鬼畜! 赤兎馬が外道だって言いふらしてやるぅううう!」


 背中に泣き声が届いて、手を止めざるを得なかった。


「あんたなんか、恐怖の対象としてこの学校で孤立すればいいんだ! クラスのラインに『転校生の赤兎馬は鬼畜』って2分ごとに書き込んでやる! 1秒の遅れもないbotに化してやる!!」


 扉からゆっくり手を離し、振り返る。貯水タンクの下からは、スカート越しにもわかる形の良い尻が、もぞもぞ抜け出そうと揺れていた。


 悔しい。こんな奴に、こんな奴に、俺の普通の学園生活は潰されてしまうのか……。


 すり潰してしまいそうな程歯を軋ませ、尻に向かい深々と頭を下げる。


「……頼む。それだけはやめてください」


 俺の言葉を聞いたのか、突き出していた尻の動きが止まった。

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