第4話

 家に帰り、玄関の扉を開けると、叔母さんが靴箱の前にある立ち鏡と向かい合っていた。叔母さんは俺に気づいておらず、鏡の中の自分に目を奪われている。そんな叔母さんに俺も目を奪われた。


 紋章の入ったボタンがついた紺のブレザーと白いワイシャツが、大きな胸に押し上げられパンパンに張っている。はち切れそうな白いシャツの上には、曲線を描いて紅色のネクタイが滑っていた。


 頬が熱くなって、見てはいけないものを見た気持ちになり、慌てて視線を落とす。そこには、ブレザーと全く同じ色のズボン……。


 違う意味で見てはいけない気がして、くるりと踵を返す。無駄一つない動きで、玄関の引き戸を引いて外に出る。そしてすぐに、後ろ手でぴしゃりと戸を閉めた。


 辺りは暗い。玄関から漏れ出す明かりが、大きな門まで続く石畳をぼんやり照らしている。石畳の上には、庭に伸びた雑草の影が奇妙に踊っており、どことなく切ない。


 しばらく佇んではいたが、涼しいよりは寒い四月の夜風に吹かれ、ここでこうしていても仕方ないと振り返った。玄関の上には瓦の三角屋根、そこから大きな木の柱が二つ鳥居のように地面に突き立っている。扉は大きく、心を大きく持て、と言われているように思えた。


 俺は意を決して、引き戸をからからと開く。玄関には、さっきと変わらず学生服を着ている叔母さんがいた。


「将ちゃん、さっきはどうしたの? いきなり外に出ちゃって?」

「気づいてたんですか……。それより叔母さんこそ、その……どうしたんですか?」

「どうしたのって何が?」

「……なんで学生服を着てるのかなって?」

「一度着てみたかったのよ! 男子の学生服!」


 そう言って、叔母さんはパトカーのランプが回るようなキレの良いターンを決めた。34歳独身というフィルターがかかり、流石に厳しいものがある。だけど叔母さんには「似合いますね」とお世辞を述べておいた。


 すると叔母さんは「やっぱり?」と言って小躍りした。叔母さんが喜んで着ている学生服は、明らかに俺の新しい学校の制服ではあったが、何も言わないことにする。というか、言える筈がないのだ。叔母さんは、俺を引き取ってもらった恩人なのだから。


 一ヶ月前、父が急な転勤で海外へ行くことになった。家事が出来ない父のために母もついていくことになり、当然、俺もついくるように言われたが、どうしても嫌だった。


 俺は、黒目黒髪身長170cm痩せ型の一般的日本人。外国語を話せるわけでもなく、今更海外の新しい生活に馴染める気もしない。そういうわけで、行きたくないと駄々をこねたところ、叔母さんに引き取ってもらえることになったのだ。


 叔母さんもいい年であるので、婚活するなら大切な時期だ。おまけに、俺がいてもいなくても関係ないくらいの顔立ちならまだしも、二十代に見える清楚系の美人である。そんな人に引き取らせてしまった事に、強い罪悪感を覚えている。


 まあ、そういった事情があり、恩どころか大恩を感じている。もし、俺のせいで結婚できなかったら、生涯尽くす覚悟がある。


「あ、将ちゃん! ご飯にしましょう! そろそろ帰ってくると思って用意してたのよ!」


 叔母さんはふと思い出したように手を叩き、俺に背を向けて、るんるんとスキップしていった。俺は叔母さんが板廊下をギシリと鳴らす後をついていく。


 叔母さんが大きく襖を開いて入ったので、俺も続く。部屋は、大きなダイニングキッチンと繋がっているリビングだ。てらりと光沢を放つ木製のテーブルと椅子が、キッチンのカウンターに接しており、大きなガラス窓の近くには、もこもこしたピンクの絨毯が敷かれている。壁際には黒光りする革のソファーが置かれ、その正面には大きなテレビも設置してあった。


 いつ見ても統一感のない部屋だなあ、という感想を抱く。しかし、たわいない、と、そんなものはすぐに消えていく。


 以前、叔母さんに、この部屋はどうしたのかと聞いたところ、「やっぱり、今時和風ってださくない? だから改築したの!」と拗らせた女子中高生のような事を言っていた。だからこの部屋は、叔母さんのセンスから来たものなので、深く考えないようにしている。


「さあさ、将ちゃん。お座りなさいや」


 叔母さんは、テーブルにしまわれた椅子を引いて「どうぞどうぞ」と両手を開いた。俺は恭しく頭を下げ、椅子に座る。机の上には、ほくほくと湯気を立てる肉じゃが、ツヤツヤとした茶色のお米に落ち着いた色合いの具が乗った筍ご飯。香ばしい匂いを放つ鯵の開きに、豆腐とわかめのお味噌汁。緑鮮やかなほうれん草のおひたしに、厳かな器の茶碗蒸し。まるで宝石箱や〜な夕食が用意されていた。


「今日も豪華ですね」

「そう? これくらい普通じゃない?」

「いや、普通じゃないですよ」

「そうなの? でも、人を構成するのは衣、食、住なんだから、これくらいはないと駄目よね!」


 叔母さんはそう言って、何かに気づいたようにハッとした。そして、ふふん、と鼻をならせて嬉しげな声を出す。


「翔ちゃん。保護者として教えてあげるわ! ええ保護者として教えてあげるわ!」


 どうやら、叔母さんは学生服を着つつも、先生気分になられたようなので、「教えて下さい」と相槌をうつ。そんな俺に気を良くしたのか、叔母さんは掛けていない眼鏡をくいと上げる。


「人はね、美しい衣装、美味しい食事、素敵な住居から幸福感を得られるのです! 幸福感の正体は神経伝達物質で、それがあると仕事に恋に趣味に冴え渡るの! つまりは幸福感を得られるようなことをガンガンすればいいのよ!」


 なんとなく「おお〜」と拍手。鼻の下を人差し指でこする叔母さんに、よせやい、よせやい、と窘められる。


「だからね。無理して、衣食住にお金を使った方が、仕事の効率も上がるし、幸せだしで、良いことがほとんどなのよ。それと一緒で、自分のやりたい事があれば、無理してでもやりなさい」


 叔母さんは、「ここテストに出ます!」と付け加えて、けらけら笑った。


 確かに叔母さんの言葉を聞いて、そうなのかもしれない、とは思ったが、流石に無理するのは本末転倒なのでは、とも思う。まあそれはともかく、折角の豪華な食事が冷めては困るので、すぐに叔母さんと一緒に手を合わせた。


「いただきます」

「はい。召し上がれ」


 まずはお味噌汁をすする。白味噌の塩味が心地よく舌を滑る。遅れて、磯の香りがやって来た。ぬるりとしたワカメを噛みしめる。じゃくじゃくとした良い食感がして、味噌と混じり合った旨味が、噛むたびに滲み出てくる。


 喉元を過ぎると、次は筍ご飯を箸ですくい、口に運んだ。味噌汁で残った塩味が、筍、人参、こんにゃくなどの具材に絡み合い、素材そのものの味が際立つ。何より、ご飯が塩味を中和した後、味が染み込んだお米一粒一粒の優しい甘みが舌を喜ばせる。その甘味が、今度は塩分、旨味を欲して、ほろほろと柔らかい身の鯵、プリンみたいに滑らかな茶碗蒸しへと、勝手に手を伸ばさせる。


 また、ご飯の甘みだけでは飽きさせないように、甘じょっぱい肉じゃがと、ほうれん草のおひたしが用意してある。筍ご飯は優秀で、甘めのおかずを食べると、今度は塩味としても働き、箸が止まりそうにない。


「あらあら。そんなに食べるなんて、私も嬉しいわ」

「本当に美味しいですよ!」

「もう、上手ね! このスケコマシ!」


 叔母さんの言葉選びの古さは置いておいて、こんなに美味しいのは、何もメニューのおかげというわけではない。料理一品一品が和食のプロ並みに美味しいのだ。叔母さんは昔、一流のホテルで和食、洋食、フレンチと修行していた。今は、仮想通貨で相当稼いだので辞めたそうだが、非常に勿体ないと思う。


「それにしても、良い食べっぷりね。今日は冒険に行ったからかしら?」

「確かに、それはあるかもしれないです」


 叔母さんが愛でるような眼差しでくれた質問に頷いた。間違いなく、坊主と茶髪に絡まれたせいで、エネルギーを消費したことが原因だろう。


「ねね、今日はどこに行ってきたの?」


 あまり今日のことは思い出したくなくて、考えないようにしていた。しかし、叔母さんの瞳は爛々と輝き、いかにも興味津々といった様子である。そんな叔母さんの為を思えば語るくらい苦ではない。


「実は今日、公園に行ってきたんですよ」


 そう言った瞬間、叔母さんは持っていた箸を落とした。しばらく口をぽかんと開けていたあと、必死の形相で立ち上がる。


「大丈夫将ちゃん!? 怪我は無かった!?」

「い、いや、ないですよ。確かに変なのに絡まれましたが……」

「変なのって!?」


 叔母さんはテーブルに、どん、と手をつき、顔をよせてきた。くりくりとした瞳は大きく見開かれ、眉間には皺が寄っている。


 な、何かまずいことでも言ったのだろうか。わけもわからず、気圧されたまま尋ねられたことを答える。


「い、いきなり、坊主と茶髪の二人組で、なんか遊具に乗って勝負しろって絡まれたんです」

「勝負の結果はどうなったの!?」

「なんか良くわかりませんが、勝ちました」


 そう言うと、叔母さんはほっと胸を撫で下ろし、すとんと椅子に座った。そして、さっきとはうって変わり目を細める。


「やっぱり、将ちゃんも私の甥ね。公園バトルに勝っちゃうなんて」


 俺は人生で聞いた事がない、むしろ誰が知っているのか分からない単語に首を傾げた。

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