第十二章 Scarecrow
「それで、君たちが駆けつけた時はあの状態だったと?」長野署の中川警部は秀明に質問した。
「はい。亜紀さんの帰りが遅いので探しに行くところでした。GPSが丁度そこの場所を示してたので…」いつまで同じ事ばかり聞くつもりなんだろうか? もういい加減帰して欲しい、と彼は少々苛立っていた。
「もう一人居た男性、小鳥遊綾人との関係は?」中川は威圧的な態度で秀明をにらみ据えて尋問した。
「知らない人です」秀明はもういい加減にして欲しいという口調で答えた。
「君たち埼玉から旅行に来たんだよな? なんで……」警官が言いかけた時、扉をコツコツ叩く音がする。
「中川さん、ちょっと」年配の…秀明の母と同じ歳だろうか、女性警官が警官を外に呼び出す。
「本庁から連絡です。一乗寺美紀、龍沢秀明の取り調べは中断しろとのことです」と女性警官が中川に話した。
「はぁ? どういうことだ? まだ大してこと聞いて無いぞ?」と中川が言い放った。
「理由は教えてもらえませんでしたが、とにかく中止しろとのことです」女性警官は声を押し殺して言った。
「くっそ!」中川は憤って壁を叩いた。
「おい、今日は終わりだ。もう帰っていいぞ」と中川は取調室に入ると秀明に言った。「あと、小鳥遊綾人は直ぐに窓がない部屋に移送すべきとのことです」女性警官は中川に言った。
「なんでだ?」
「理由は教えてもらえませんでした。ただ、
「鳥使い師か…」中川は一瞬悩んだ。
「まあ、良い。搬送先の病院に地下室でも何でも良いから、窓無しの部屋を用意させて移すようにと伝えろ」
「了解しました」女性警官はそう答えると、「さ、貴方たちに聞きたいことは取りあえず終了したわ。長時間だったけどご苦労様でしたね」とにっこり笑い、彼を玄関まで案内した。さすがに疲労困憊だっただけに女性警官の微笑みに少しだけほっとした。
警察署のロビーの古ぼけたソファーでは美紀が疲れ切った様子で彼を待っていた。
「ようやく解放されました。待たせてしまって申し訳ありません」
「こっちも、今終わったところ」彼女は大きく肩を上下に動かした。多分ずっと同じ姿勢でいたので肩が疲れたのかも知れない。そんな彼女を見て秀明も心配になった様だった。
「美紀先輩、大丈夫ですか?」と、思わず彼女に声をかけた。彼女はそれでも気丈に振る舞って見せた。
「ボクは大丈夫。ヒデ君は?」
「僕も大したこと無いです。でも意外に早かったですね。今日はもう帰れないと思いましたが」秀明はやれやれといった感じで答えた。彼女は彼に突然顔を近づけ「コネクション使って圧力かけてもらったの」とみみうちした。なるほど、だから思ったより早く解放して貰った訳か。それにしても彼女たちってどんなコネを持ってるんだろうか? 警視庁から釈放をしろなんて圧力が地方警察署にできるなんて…。彼は一乗寺姉妹のバックに、何かとてつもない事がが隠されているのではないか邪智して、そら恐ろしくなった。
かれらは警察署駐車場の片隅に停めてあるレンタカーのビーエムダブリュに乗り込んだ。美紀は車のスターターボタンを押してエンジンをかける。
「これから、亜紀姉ぇの病院に行くよ。小鳥遊綾人も同じ病院の様だから充分気をつけて」そうだった、綾人は亜紀先輩を殺そうとしていたのだ。あの時聞いた録音を聞く限り、そうとしか思えない。雑音に紛れたカラスの声と羽音。やはり綾人も鳥使いの能力を持っているのだろうか? そんな事が秀明の脳裏に横切った。彼女は暖機運転もそこそこにギアをドライブに入れて、さっそうと警察署をあとにして夜の一八号国道を疾走していく。女性なのに意外にとばすんだなあと彼は感じつつもさっきの話が気になった。
「先輩、綾人さんはやはり鳥使いなんでしょうか?」彼はさっきの思った事を彼女に尋ねてみた。
「そうね、実は陽菜ちゃんに聞いたんだけど、彼も鳥使い師としておじいさんから訓練は受けてたらしいんだけど」美紀はハンドルを切りながら続ける。
「どうも、雀くらいは扱えたらしいけど、ほとんどダメだったらしいよ。まあ、素質以前に不真面目で訓練自体をサボっちゃってたらしいけど。よく習い事とかで真面目にやらないで、遊んでるような子いるじゃない? そんな感じだったみたいよ」車は長野市立病院と書かれた標識を左折する。
「だから鳥使いだったかは判らないけど、状況から判断するに、何らかの方法でカラスを使って亜紀姉ぇを攻撃してたのは確かみたいだね」美紀は『長野市立病院』と書かれた門をくぐり、玄関側の駐車場に止めた。
「さ、ついたよ」美紀はエンジンを止めるとそう言って、不安げな秀明に目をやった。
亜紀はかすり傷と捻挫くらいで他は大した外傷もなかったが、念の為に一晩だけ病院に泊まることになったようだ。
「美紀ちゃん、ヒデ君。今回は心配かけちゃったわね。ごめんね。無理なお願いしちゃって」と、亜紀は言った。首と腕の包帯が痛々しい。
「いや自分、ほとんど何もしてないっすから」秀明は自身の顔の前で大きく手を横に振った。
「あら、そういえばそうね」亜紀は包帯が巻いてある方の手で口を押さえながら爆笑した。彼は「ひどいっすよ! これでも本当は役に立ちたかったんですから!」と少しくやしそうに答えた。情けないのと嬉しさが混じった表情だった。意外と彼は負けず嫌いなのかしら? と笑いながら亜紀はおもった。
「亜紀姉ぇ、今度はこんな無茶な計画建てないでね。ボクたちは二人で一緒なんだから」美紀は亜紀の両手を握った。
「そうね、ちょっと自信過剰だったのよ。それにちょっと考えが浅かったわね。待ち合わせ場所考えたら十分ありうる状況だったのに」亜紀は美紀の手をぎゅうっと握りかえすとそう答えた。
「ところで陽菜ちゃんどうした?」亜紀は握っていた妹の手をそっと離した。
「ちょっと何回かメールと着信は有ったみたいなんだけど、返信しても梨の礫だね。もう遅いから明日連絡する」美紀は腰掛けていた椅子の位置を変えて足を組んだ。少し太ももが露わになり、ちらっと下着が見えたように思えて、秀明は思わず目をそらした。
「そうね。警察署からは連絡行かなかったのかしら? いくら子供でも一応唯一の親族なんだからね。それにそろそろメディアが騒ぎ出す頃じゃ無いかしら?」
「それは大丈夫だよ。手をまわして報道規制させたからね。でも多分持って明日朝までだね。ユーチューバーやツイッター民などが騒ぎ出したらもう無理」
「ところで何か外が騒がしくない?」亜紀は病室の外を見ようと身体をそらした。
「ちょっと僕が見てきますよ」秀明は、病室の外に出た。やはり外が騒がしいと感じてた人が多かったらしい。廊下には付き添いや、それほど重病ではない患者などが野次馬のように居る。何事なのだろうか? 皆が見ている方を見ると看護師が右往左往しているのが見えた。そして、
「皆さん、部屋にお戻りください!」と叫んでいる。
秀明は部屋に戻り亜紀たちに「なんか有ったみたいですね、大騒ぎしてますが」と伝えた瞬間、ガシャーンとガラスの割れる音が部屋に響き渡った。秀明はとっさに顔をそむけ腕で覆った。粉々に砕けたガラス片が腕に当たる。ひゅーっという風の音とパタパタと風で舞うカーテンの音以外部屋の中に聞こえない。いったいなんなのだ? ガス爆発でも起きたのだろうか? 身体全体に埃やガラス片がまとわりつき、なかなか目を開けることが出来ず、さらに額の辺りの何処か切ったようで痛かった。痛みのあまりながれた涙で目の周辺の垢が流れ、次第に目を開くことが出来たが、そこには自分を正気かと疑うような光景が広がっていた。病室は吹き飛んだ窓と崩れた壁でめちゃくちゃな状態で、さらにもっと驚いたのは、まるで作り物のような巨大な鷹のような生物が目の前に佇んでいたのだ。視界がハッキリするにつれ、それは鷹ですらない何か巨大な別のものであることが明らかになった。巨大な竜のような生き物は双頭で昔の怪獣映画に出てきた化け物に似ていた。まるで安物の日本製特撮映画にでも出てきそうな作り物のようないでたちで、なにかのドッキリカメラかロケ現場に偶然出くわしたような、場違いな所に突然放り込まれたような気分だった。きっとこれは何か悪い冗談か、夢だろう。だが、生々しくぬらぬらと光るうろこや如何にも獣のようなは虫類のような生臭い息で、これが現実であることが彼の脳裏に否応なしに突きつけられた。舞い上がった埃はある程度落ち着き視界が明瞭になると、竜の背中でなにかが震えていた。次第にそれが何だか理解した。人だ。しかもこいつは見覚えがある。小鳥遊綾人、陽奈ちゃんの兄だ。震えていると思ったのだが、何が愉快なのか判らないがへらへらと笑っている。だが、こいつは重傷ではなかったのだろうか? 少なくともあのとき《・・・・》は死亡していると思える程に微動だにせず、グラウンドに横たわっていたし、刑事さんも言っていた。僕の事はガン無視か? 秀明は気が付かれないように、その場で凝固したように身動きを潜めた。そうやって秀明がチャンスをうかがっている間に、彼は気絶している一乗寺姉妹を暫く凝視した後、何かを竜に向かってつぶやいた。竜はそれに呼応するように耳まで裂けた巨大な顎で彼女らにぱっくりと食いついた。やばい! 食べられるぞ! 秀明の背筋が一瞬で凍り付くような寒気が走った。なんとかしなければ、なんとか…。彼は二人を助けなければならないという一心で反撃を試みようと身体を動かそうとしたが、ピクリとも動かせない。恐怖で足がすくむというが、全く同じ状態だ。彼の想いと裏腹にまるで神経が切断されてしまったけが人のごとく、ピクリとも動かすことが出来ない。「おまえ! ふざけるな! 先輩を離せ!」と彼は叫んだつもりだったが、驚いたことに声すら出せなかった。あ、とか、うとかうめき声なような音を発するのが精一杯だったのだ。そして、彼が手を拱いている間に、秀明の事は我関せずと二人を咥えた竜はくるりと回れ右をし、夜の空に飛び去った。
満月をバックに飛び去る綾人と
「うわっ! あああああああっ!」目の前には壊れた窓硝子の残骸とがれきと化した病室で絶叫をする事しか出来なかった。
秀明は壊れた窓に近づくと竜が立ち去った後の空を見た。どこに飛んでいったのかもう形跡すらない。「くっそう、助けられなかった! 先輩たちを助けられなかった!!」彼は拳で窓枠を叩きながらしゃがみこんで泣いた。
「うっ、うっ、う、う…」塞ぎ込んでしばらく彼は泣いた。だがそのうちに涙も涸れ果ててしまい、出なくなっていた。涙を手で拭い、ふと見るとベッドの下に何か落ちているが見えた。それは美紀が使っていたバッグだった。こんなところにおいてあったら危ないよな。と拾い上げた拍子に何かチャリンと落ちた。ビーエムダブリュの鍵だった。
そうだ、鍵があれば吉宗も持ち出せるな。ペーパードライバーだが、三月下旬まで教習所通っていたのだ。まだ運転の感覚も忘れていないはず。あとは、美紀先輩達がどこに居るか判れば。
その時アイフォンがブーンブーンと振動した。『ヒデ、お前ナガノで何やってんの』竜二からだ。きっと、埼玉に帰ってから、居ないことに気がついてメールしてきたのだ。しかし、何故竜二が僕が此処に居るって判るのだ? 彼はしばらくの頭をひねって考えていた。あ、ひょっとして! アイフォンのホーム画面から友人検索をアプリを開いた。すぐさま、自分の現在地と友人たちのローケーションが映し出された。長野、埼玉、東京、ついでに高校時代の友人たちのロケーションも共有しっぱなしで、北海道から沖縄まで散らばっている友達のアイコンのおかげで、ほぼ日本全国の地図が映し出されていた。思い出した、思い出した! 旅行に行く前日に待ち合わせ場所などで迷子になったら困るからと位置情報を共有していたのだ。すっかり忘れていた。大事なことなのに。たしか、先輩たちとも共有していた筈だが、彼女たちは携帯電話を落としたり鞄に入れっぱなしで居ないだろうか? そうだとすれば、この思いつきもぬか喜びになってしまう。アイフォンの友人検索アプリの友人リストから亜紀と美紀のアイコンをタップして位置を確認すると、亜紀は警察署に居ることになっていた。まだアイフォンを返してもらってないのか。あとは美紀先輩。彼女の位置情報は、すでに市街地から離れていて何処かの山奥を指し示していた。
『神隠神社本殿』
拡大すると、そう名称が示されている建物内に彼女のアイフォンがある事になっていた。 この山の中の神社本殿、昨日まで泊まっていた、ホテルのすぐ近くじゃないか、秀明は気づいた。なるほどそこなら、人も来ないし綾人にとって都合がいいのだろう。どうせお正月や祭りの日くらいしか人が寄りつかないようなところだ。しかし、今日の出来事にはいろいろと疑問がある。まず、彼が陽奈ちゃんの言っていた鳥使いの能力があるといって間違い無いとは思うのだが、せいぜい小鳥位しか操れないでは無いか? 陽奈ちゃんは雀やメジロなどの小型の鳥しか使役出来ないという話だった。それに、綾人は鳥使い師の修行をサボっていて、まともに操れたことが無いと聞く。ところがどうだ、カラスなどの中型の鳥はおろか、
良く良く考えれば、
秀明が駐車場へ向かおうと病院の玄関までくると既にパトカーが何台か来ていた。こんな大惨事が起きたのなら当たり前の事だ。きっと看護師か職員がすぐさま連絡をしたに違いない
「おい、君」聞き覚えがある声が聞こえるので、振り向くと長野警察署の刑事~たしか中川とか言う人だ~だった。
「きみ、たしか龍沢君だよな?」
「はい、そうです」
「さっきの爆発、君の連れの女の子の部屋だぞ? 心配じゃ無いのか?」
「いま、110番するところだったのですが、爆発ではありません。壁と窓ガラスが突然破壊されて、僕の友人が……一乗寺先輩たちが、あの男……小鳥遊綾人にさらわれました」どうせ竜がとか言っても信じやしないだろう。
「くっそ、そうか。で、小鳥遊綾人はどっちの方に向かったか知ってるか?」と中川が尋ねたので、秀明はアイフォンを見せ「先輩の携帯とGPS情報を共有してるんですが、どうも神隠村の神隠神社本殿に居るようです」と亜紀達の居場所を指し示した。
「ちょっと貸してみなさい」と中川は秀明のアイフォンを取り上げ、地図をスクロールする。
「ありがとう、場所はだいたい判った。しかし、異常に移動が早いな。車でもここから最低でも三十分はかかるぞ…」刑事は険しい表情で訝しむ。
「あ、あの、信じてもらえないと思ってさっきは言いませんでしたが、そのなにか巨大な鳥というかドラゴンみたいな動物がさらっていったんです」と秀明が言った。
「は? 君、何寝ぼけてるんだ? アニメとの見過ぎじゃないか?」中川刑事は顔をしかめる。そりゃそうだ自分でもそう思う。秀明は説明するのが億劫になったので止めた。
「君も疲れてるんだろ。もう遅いから後は警察に任せて君は帰りなさい」
「でも、先輩が…」
「君が心配するのは判るが君が此処にいてもどうこうなる物では無い。聞きたいことがあればまた連絡するから、とにかく今日は一度ホテルに戻り給え」そう秀明に言い放った中川は彼を一人残して、病院のロビーに集めた部下の警官に指示を出し始めた。
帰れと言われて、おとなしく帰るわけは行かないんだ。大切な友人なんだ。秀明は病院を出て駐車場に行くため、ロビーを横切っておおきなガラス製の自動扉—今は明け放れてドアの意味をなしていないが—を通り抜けようとした時。
「龍沢さん!?」年端も行かぬ少女の声だ。振り向くと、見覚えのある女の子が顔面を蒼白にして立ち尽くしていた。
「陽奈ちゃん? どうしたの?」秀明は意外な顔見知りに会って、少々驚いた。しかもこの子は綾人の妹さん。
「お兄ちゃんが怪我で入院してるっていうんで来たんですけど、この騒ぎで……。何があったんですか?」彼女は病院のただならぬ様子にかなり動揺しているようだった。
「先輩たちが、行方不明なんだ」と秀明はボツりと言う。
「!?」陽奈は大きな目を見開いて、秀明に声をかけようとするがびっくりして声が出なかった。それでも一呼吸おいてようやく絞り出すように尋ねる。
「お兄ちゃん……ですね?」
秀明は無言でうなずいたが、直ぐに軽はずみな態度に後悔した。こんな酷なことを彼女に教えてなにか問題の解決に繋がるとか良いことがあるのか? 茫然とした表情で大きくため息をつく陽奈をみて、残酷なことを教えてしまったと。
だが、彼の心配を余所に彼女は冷静だった。
「うち、分かってたんです。いつかこんな大それた事件を起こすんじゃないかって」と彼女は大きな目に涙を溜めながら話を続けた。「お兄ちゃん、だいぶ前からおかしかったんです。小学生の頃からスズメとか操って猫とか犬とか傷つけたり」溢れた涙を拭いながら彼女は言った。
「でも、そんな子供みたいな事を、中学入ってからはしないと思ってたのに」
「陽奈ちゃん泣かないで」秀明はハンカチで陽奈の涙を拭ってあげる。
「今日はもう帰ろう、後はお巡りさんがちゃんとやってくれるよ。ほらお家に送っていくから」泣きじゃくる小さい陽奈の頭を撫でて宥めると、彼女の手を引っ張り歩き始める。
「龍沢さんはこれからどうするんですか?」泣きすぎて真っ赤に張れた目で彼に尋ねた。
「僕はこれから亜紀先輩達を助けに行くよ」と秀明は言う。でもどうやって助ければ良いのだろうか? あんな化け物と渡り合うためには知恵を使わなければ無理だ。だが、自分のようなFラン大学の学生が国立大学に通うような賢い人間に太刀打ち出来るのだろうか? それでもやらないわけには行かない。そうでないと絶対に後悔する事になるからだ。彼は、過去に決断を迷ったせいで大切な友人を失ったという辛い経験があったからだ。
「うちも連れていってください。何とかお兄ちゃんを説得します」陽奈は秀明に訴えた。
「いや、危ないからだめだよ」秀明はあの双頭の竜のことを思い出して、彼女には危険が大きいと考えたのだ。それに今の綾人が身内に会って、どんな事をするかも判らない。
「お願いします! お兄ちゃんはうち《・・》の言うことならどんな我儘も聞いてくれるんです。それに本当のお兄ちゃんはいい人なんです。悪いことをするような人では無いはずなんです!」
秀明はあまりにも真剣な陽奈の様子に駄目とは言い切れなかった。
「よし、わかった。でも良いと言うまで車の中に居てね」と秀明は優しく言うと車の鍵を開け、助手席を開く。
「さあ、乗って」陽奈が助手席に座ると秀明も運転席に座り車のエンジンをかける。
「神隠神社本殿ってわかる? 先輩達はそこに囚われて居るみたいなんだけど…」秀明は亜紀に訊いた。
「あ、知ってます。お爺ちゃんちのホントに側にあるんですよ! 鳥使いの訓練やるときはいつもそこで…」
「なるほど、で、そこまで簡単に行ける?」
「山の中にあって、車では途中まで行けるんですが、参道は侵入禁止になっていて、途中で車をおいて暫く歩くって感じです」
「そうなんだ、取り敢えずナビで近くまでセットしていくけど、あとは陽菜ちゃん案内できるかな?」
「はいわかりました。頑張ります」彼女はおおきくガッツポーズを取って任せてと言った様に思えた。
秀明はナビに行き先をセットすると、ハンドルを握り、サイドブレーキをおろして、ゆっくりとアクセルを踏み加速する。
やっぱ、久しぶりの運転だから少し緊張するな、と考えながら右側のウィンカーレバーを上に上げる。
「ガコーガガコー」とウィンカーではなくワイパーが動く? あれなんだこれ?
「右じゃなくて左じゃありませんか?」
「ああそうか」右のレバーは元に戻して左のレバーを下げる。
「カッチカッチ」今度はちゃんとウィンカーが点滅する。
「大丈夫でしょうか?」陽奈が不安そうな顔で尋ねてくる。秀明は顔を真っ赤にして「だだ、大丈夫だよ」と答えたが…。流石に免許取り立てで運転に慣れてないなんて言えないよなあ。彼はおっかなびっくりといった体でそろそろと車をすべらし、夜の市街地に出て行った。
「でも、お兄ちゃんは怪我してるのに、どうやって、お二人を連れて行けたんでしょう? (病院の)四階の部屋が凄いことになってるって看護婦さんたちも大騒ぎしてたみたいですけど?」陽奈は不安そうに言った。病院での惨憺たる有様を見れば誰にでも容易にただならぬ事態であることは想像出来る。きっと、陽奈も薄々綾人が何かとてつもない事をしでかしたと感づいているのではないかと秀明は思った。
「いいかい、今から言うことを決して驚いたりしないでね。少なくとも僕は確実見たことなんだ。作り話ではないんだけど…」と
そして陽奈に正直に一乗寺姉妹は綾人が乗った、竜に咥えられて、連れ去られたと話した。視線は運転のために前方へ集中しているにもかかわらず、彼女の目からぽろぽろと大粒の涙が溢れている様子が伺えたが、彼女は悟られまいとしているのか、いっさいの声を抑えて、嗚咽すら漏らさなかった。
幸い、夜も更けた時間の所為か車通りも少なく、秀明の下手くそな初心者運転でも難なく市街地を走り抜けられた。市街地を抜けてから、途中もの凄く急な坂道に出くわした時はとてつもなく焦ってしまった。こんな坂道でエンストでもしたらどうしようかと、不安がよぎったのだが、なんとか無事に、神隠神社本殿近くまで車を走らせることができたのだった。陽奈に聞いておいた参拝者向けの駐車場である空き地には、既にパトカーも何台も停まっている。警官の何人かはまだ残っていて、出入りする者が居ないか、見張っていた。
秀明は彼らに見つからぬ様、大きな木の陰に車を停めた。あれも持っていかないと。彼はBMWの後部座席足下をガサゴソと探った。助かった、これは警察に気が付かれてなかった。先輩が一般人には気が付かれないように呪術をかけておいてくれたおかげだろうか、それはそこに何事もなかった様に置いてあった。彼と陽奈はそっと車のドアを閉めて、境内に向かおうと封鎖されている所以外に手近な入り口があるか見渡した。ひとつだけ駐車場から参道にショートカットできる手頃な抜け道—おそらく参拝者が作った獣道だろう—を見つけることが出来たのだが、見張りをしていた警官が此方にライトを向けて、小走りに走ってきた。
「君たち、ここになんか用があるのか? いま此処は立ち入り禁止だぞ。それに…」警官は彼らを見回して怪訝な顔をした。
「なんだ、君らは? 高校生か?」大学一年生だが童顔である秀明は高校生と勘違いされたようだ。
「いや、高校生ではありません! 大学生です…」
「大学生? それにそっちの子は高校生にしてはまだ幼いな、中学生か?」警官は一層疑い深く、彼女の方を見やって尋ねた。陽奈は声も出さず小さくこくりと頷いた。
「とりあえず、お前は免許証を見せろ。まさか無免許ではあるまいな?」中高生カップルが無免許で深夜の山奥に車でデートなんて確かに警察にとって立派な事案だ。彼は余計な疑いをかけられたら困ると感じ、大人しく免許証を渡した。警官は免許証を受け取りながら、「お前らまだガキのくせにこんな所で何をするつもりだったんだ」としゃべりながらライトで照らしながら、免許証の生年月日と顔写真を秀明本人の顔と代わる代わる確認をしている。
「写真が似とらんな。まさか兄貴のでも拝借したのか?」免許証写真の写りが良く無く、若干老けて見えるのだろうか。
「いや、マジモンで僕です。それにほら」彼は財布の保険証やら銀行のカードを見せて本人であることを訴えたのだが、逆に、
「大学生であるのは本当だとして、この中学生の女の子の事はどう説明する? 返答次第では署に来て貰うことになるぞ」秀明は自分が迂闊だったことを悟った。そうだった、夜中に中学生の女の子を連れ回していたら、立派な犯罪だ。たとえ年が近いと言っても相手は中学生だ。ニュースでも中学生と性交した大学生が逮捕等という話はよく聞く。別に彼女とはそんな関係ではないのだが、そんな事は他人からしたら知ったことでは無い。
「すみません、その僕等の知り合い…、というか彼女のお兄さんと僕の知り合いの大学生がいま行方不明なので探しに行こうとしてたところなんです」
「へたな嘘をつくんじゃない! 行方不明といってこんな山奥に来る必要があるか! 今日の所はこっちも忙しいから見逃してやるから、直ぐ車に戻って女の子を自宅に送り届けろ!」今はそれどころでは無いから、中大学生カップルのいかがわしい夜遊びには目をつむるから、さっさと帰れと言うことらしい。だが、本当にそうなら諦めも付くのだが、実際には大事な先輩と彼女の兄を探さなくてはならないのだ。彼は意を決して、
「僕は行方不明になっている一乗寺亜紀さん、美紀さんの大学の後輩なんです。それにこの子は小鳥遊陽奈さんと申しまして一緒に行方不明になっている小鳥遊綾人さん妹さんで…」
「妹です」と陽奈は訴えた。
「ちょっと、待ってなさい」と警官は言うと無線のスイッチを入れた。
「こちら、警備班。入り口の所で一乗寺亜紀、美紀姉妹、小鳥遊綾人の関係者と名乗るものが来てますが」かすかな空電をバックに、通話相手の声が漏れて聞こえた。
『なに? 帰れと言ったのにあいつら…。取りあえず、そこで、待たせておけ! どうせ帰宅させたとして、またひょっこり現場に現れたとしたらかなわん』
「了解。そちらの状況はどうです?」
『今のところは進展は無い。いま、機動隊一個分隊配置してる完了したところだ。未だ犯人の動きは無い。犯人からの要求も今のところ無い。なにが目的で彼女たちをさらっていったのかも不明だ』警官が前線との連絡で秀明らから目を離している隙に陽奈が先に行動を始めた。
「龍沢さん、こっち」陽奈が入り口から数メートルはなれたところから呼びかけてくる。丁度秀明が車を止めた向こう側だ。警官が目を離している隙に秀明は陽奈の居る物陰にそろりそろりと警官に気づかれない様に動いていった。彼が側まで行くと、彼女は植え込みの隙間を指さした。だがそれは言われてみなければ気が付かない程小さく、中学生の陽奈ならともかく、決して小柄ではない秀明に取ってはこの狭い隙間をくぐるには少々躊躇われる大きさだ。
「ここくぐれば、別のルートでいけます」陽奈はそう言うと、秀明の意見も聞かずにさっさと藪と藪の間に入っていく。
「ちょっと…」待ってくれと思わず声を発てる所だったが、警官が直ぐ側に居て下手をすれば逮捕もされかねない状況であることを直ぐさま思いだした。そろそろ警官も僕等が姿を消したことに気が付いてもおかしくない頃だ。仕方ない、このままついて行くしかなさそうだ、と秀明は覚悟を決めて植え込みの木々の隙間に身体を押し込んだ。
「おい、君たち!」警官が今更ながら僕等が居ない事に気が付いて慌て始めた。だが、彼が気が付くのは少々遅かったようだ。秀明は狭い樹木の隙間をなんとかとおり抜けて、駐車場の反対側に出た。そこには人が一人歩けるくらいの山道が有った。陽奈は少し先まで歩いていた様で、暗がりの中で彼を手招きしていた。白っぽい服装を月明かりが照らしているため、木立の中ではあるが、直ぐに彼女だと判った。警官に居所がばれないようにするため、ゆっくり静かに彼女のそばまで歩みよった。
「ここはハイカーの人達が使う道です。あっちの道より狭いですし、少し遠回りになりますが神社本殿までいけます」彼女は囁いた。
なるほど確かに狭いが十分歩ける。彼女の話によれば、この道はちょうど本殿の横の辺りを抜ける道で、途中で何度か曲がらなくては行けないし、急なところも登らなくてはいけないが逆に表からは目につきにくいので、警官を避けるにはちょうどいいということだった。
「ただ、お兄ちゃんもこの道のことは知っているので気をつけないと」彼女は不安そうにうつむいた。だがそれよりも秀明が持っているケースに気が付き、
「ところで、さっきから持ってるその釣り道具みたいなの何なんですか?」と尋ねてきた。先輩の神通力も切れたのか、と秀明は悟ったのだが、陽奈であればべつに警戒する必要もないと考えて、
「ああ、これ一応護身用にと思ってさ」と彼は答えた。
「ふーん。善行寺で買った木刀?」
「まあ、そんなところ」
「大人なのに、うちのクラスの男子みたい」彼女はちょっと秀明が子供っぽいと思ったらしく、そう言ってクスッと笑った。本当に木刀だったらきっとあれには太刀打ち出来ないだろうな。と彼は思いつつもあえて否定する事は無かった。しばらく、歩いたところで道が二手にわかれていた。
「こっち、曲がって下さい」陽奈が秀明の袖を引っ張る。笹の葉が邪魔して通りづらいところだ。傾斜もきつくなってきた。
「陽菜ちゃん寒いからこれ」と秀明は陽奈にジャケットを手渡す。ミニーマウスのTシャツにショートパンツだけなので、流石に寒いだろう。
「ありがとうございます」陽奈はほっとした表情で言う。やはり相当寒かったようだ。初夏なのだが、すでに夜中と言って良い時間だし、しかも信州の山奥なのだ。
「もうすぐです」と陽奈が言った。前方で誰かが拡声器で怒鳴っている。音が潰れていてなんて言ってるかは不明だった。その時、突然前方が昼間のように明るくなり、ドカンと大きな音と人の叫び声が聞こえてきた。なにか爆弾でも破裂したのだろうか?
「陽菜ちゃん、なにか見える?」先に進んでいる陽奈に小声で問いかける。
「なにか本殿で火事みたいです。人が沢山入り口の階段から逃げています」と陽奈が答える。
「あ、燃えてるのは神社本殿じゃありません。鳥居と……あと人です……」
ひょっとしたらあのときの生物か? 一乗寺先輩達は無事だろうかと、秀明は不安になる。秀明は、ゴルフケースから吉宗を取り出し、ケースを手近に生えている木の枝にかけるた。
「陽菜ちゃん、僕はこれから本殿の様子を見に行くよ。もし何かあったら、下に降りておまわりさんのところに助けを求めに行くんだよ」と話した。彼女は手に持っている吉宗を見て「それ木刀じゃない…。日本刀ですよね? まさかそれでお兄ちゃんを切ったりしないですよね?」と不安そうに尋ねた。
「大丈夫だよ。お兄さんを切ったりなんてしないよ」それに刀どころか竹刀すらふったこと無いんだからと秀明は思った。こんなので先輩たちを助ける事なんて叶うのだろうか? 彼は絶望的になりながらも、もうあとに戻れないと覚悟を決めつつあった。
秀明は
さて、これからどうする? このまま正攻法でせめても竜の火の餌食になるのは、ここの様子を見れば目に見えている。SWATか機動隊か判らないが訓練を受けている大人が太刀打ち出来なかった相手だ。おそらく、火を放つ竜を従えているなんて、とうぜん思って居ないから、ただの凶悪犯に対応するレベルの装備で突入したのだろう。そんなので太刀打ち出来る相手ではなかったのだ。これは爆弾テロ犯やイスラム過激派に対峙するくらいの危機感を持たねばいけない。戦争と同じなのだ。だが、戦争だって和平を結ぶことだって出来る。いっそ交渉してみるってのはどうだ? しかしそれには相手が何を望んで何処まで譲歩出来るかがカギだ。
「そうか、あそこまで行ければ…」彼は社の上空を見上げてつぶやいた。
「何とかあそこまでたどり着かなければ…」彼は一旦、元来た道に引き返した。途中諦めて陽奈が待つところに戻ることも頭によぎったが、今暫く努力しようと彼は考えた。しばらく歩くと彼は頃合いを見計らい、手前で右手の山道、——というより獣道と言った方が良かったかもしれない——に分け入っていった。そこは油断をすれば転げ落ちてしまいそうなところで、道と言うより沢と言った方が正しいのかも知れない。大雨の時にはちょっとした小川のごとく、雨水が流れていた気配がそこここに感じられた。彼はその道とも沢とも付かぬ、その小径を泥だらけになりながら懸命に登っていった。かれこれ三十分くらい昇ると丁度本殿を見下ろす場所までたどり着いた。登り切ったころには彼は既に這々の体であった。お世辞にも運動が得意とは言えない彼にとって、その道程は決して生やさしい事では無かった。だが、これからやらねばならぬ事に比べたら、まだほんの序の口と言えた。ここから社に侵入するには、最初にこの急斜面、というより断崖絶壁を降りていかねばならなかった。ただ、ほんの少し幸運と言えたのは、斜面にはびっしりと生えた青竹が足場の代わりになると言うところだった。彼はその竹林をつたって、社まで下りて行くことを試みた。当初はの本殿に左上の山から降りていった。何もない断崖絶壁よりはマシとは言え、実際にみっちりと生えた青竹の間をぬっていくのはさすがに困難を極めた。竹林の密度が高く、人が通れる程の隙間がほぼ無いと言って差し支えなかったのだ。オマケに竹の葉が鋭利な刃物のように彼の手や頬を切り刻んでいく。苦労してようやく社の屋根の上に降りるころには、血だらけになってしまっていた。彼がようやく社の上までにたどり着いたとき、彼は思わぬミスを犯してしまった。苦労してたどり着いた安堵感で気が緩み、本来はそっと下りなければいけないのに、勢い余って仕舞ったのだ。「ガシャッ」という靴と瓦がぶつかる音が響いた。その派手な音に驚き、思わず彼は「やばい」と小さな声でつぶやいた。これほどの大きな音が響けば大抵の人間なら気が付くし、犬、猫など人よりも耳が鋭い獣なら確実に反応する。彼は、このミスは致命的だ。流石にこれには綾人にも竜にも何者かが屋根の上に乗ったとばれてしまう。何処かに身を隠さなければ…。彼は必死に辺りを見回した。ちょうど木の枝が屋根に覆い被さっているところがある事に気が付いた。もう、考えている余裕は無い。彼は、そこまで音を立てないよう、這って移動し、うつ伏せになって声を殺して身を隠した。やがて、巨大な何かが表からぬっと頭をもたげるように屋根の上に出現した。竜? 秀明は物陰に隠れながら、その正体を伺っていた。あらためて見ても、それは機械でも人間でも、既知の動物では無かった。それは、屋根の上をぐるりと、まるで工事現場のクレーンのように首を回転させた。だが、クレーン明らかに異なるのは機械的な動作ではなく、象の鼻のように有機的な動きだ。それ《・・》は明らかに何かの異変を探っているように思えた。だが、幸運な事に秀明に気付く事はなかったようで、それ《・・》は、その巨大な首をすっくと引っ込め、元の位置に戻っていった。
「ふっ…」彼は静かにため息をついた。助かった。取りあえず気が付かれなかった。だが、次はもう、ごまかせないだろう。なんとか策を講じなければいけないのだが、この吉宗だけでなんとか出来るものなのだろうか? 彼はその日本刀を手にして、しばし考え込んだ。こんなことなら、剣道でも柔道でも空手でも習っておけば良かった。小さい頃から運動神経も無くて、スポーツが苦手だったことから、中、高と文化系の部活で体育の授業もサボり気味だった事を後悔した。だが同時に普段鍛錬を欠かさないと言う一乗寺姉妹の事についても考えはじめた。それにしても怪我をしている亜紀先輩はともかく、美樹先輩は神器を使うことが出来ないのだろうか? あれほどの腕前を持っている彼女なら、竜と真正面に対峙して勝てるかはともかく逃げ出すことなら可能なのでは無いか? それとも、それが出来ないような何か特別な事情があるのだろうか? 彼は一抹の不安を覚えた。もしかすると既に二人とも……。正直考えたくは無かった。彼は手に持った黒光りするさやに入ったる日本刀を握りしめた。
時間は遡り、秀明らが神隠村に到着する直前、中川警部は社の手前に設営した、対策本部で陣頭指揮を執っている真っ最中であった。当初は今回も以前に何度も経験した、籠城事件と同程度のものという認識しか、中川警部にはなかった。夜遅くに発生した事件であるため、直ぐに動かせるる機動隊も待機している一個分隊のみだったが、その程度の人員で充分解決できるヤマと高をくくっていた。不足の事態の為、念を入れて既に非番の人間は全員呼び出してはいるが、恐らく無用に終わるだろうと考えていた。出動可能まである程度、時間が掛かるだろうが、恐らく彼らが準備が完了する頃までには解決する、と考えていた。催涙弾の発射や上空からの突入する為にSWATを載せたヘリコプターを一機を手配も要請したが、到着まであと一時間足らずある。長期戦は人質が危険にさらされるリスクが高まる懸念があるから、なるべく早めに決着をつけたい。
「山崎ぃ! とりあえずドローンをとばして本殿の中を確認しろ!」中川は部下の山崎巡査に命令した。
「すみません。まだカメラのセッティングが出来てなくて」山崎巡査は導入されたばかりのドローンの操作に苦慮した。なにしろ、今年度になってから導入され、トレーニングも半日で詰め込みやったばかりなのだ。とうぜんではあるが、本番で使うのは今回がはじめてだ。しかもタイミングが悪いことに導入を任されていた技術担当者は定時退社で既に帰宅済み。非常事態であるから、既に召集は掛けてはいるが、自宅が遠いこともあり、この山奥に到着するまで、暫く時間が掛かる。ドローンを単に飛ばすだけならラジコンと大して変わらないから、山崎だけでも対応は可能だ。だが問題はカメラだ。このカメラは家庭用のビデオカメラとは訳が違い、捜査用の高感度赤外線カメラであるため、手慣れた者でないとセッティングは難しく、いざというときに撮影が出来ない。だが、それでも彼は一刻も時間が惜しいこの状況で何とか出来ないものかと、四苦八苦しながら設定を続けていた。大学は理系ではあるがどちらかというと体育会系の人間だ。元々メカに詳しい方ではなく、他の署員より多少は使いこなせるという程度なので、どこをどう弄れば使えるかなどという事は皆目見当もつかなかった。それでも神が味方したのか、偶然に偶然が重なって、取りあえず撮像とデータ転送は可能となり、モニター用のノートPCから画像を出すことに成功した。だが、理解して設定したわけでもなく、何処かのスイッチを触れただけで、画面が変わってしまったら、元に戻せる自信はなかった。
「中川警部、準備完了です」山崎は喧噪の中で声が埋もれないようがなり声をたてた。報告を聞いた中川は待ってましたと、言わんばかりに彼に近寄り、早速彼に指示をした。
「よっし、じゃまず右手の崖側から近づけろ」山崎はモニター用のVRゴーグルを手に取ると大慌てで、それを頭にかけた。誰かがリモートコントロールを彼に手渡す。中川警部だろうか? このゴーグルを付けると極端に視界が狭くなる。だから直ぐ横にいる者なぞ全く死角になって気配を感じることさえ困難だ。まあそんなことはどうでも良い。いまはこいつに集中しなければいけない。本体は既に電源は投入済み。リモコンの電源を入れ、通信の確立を待つ。意外にも通信確立はそれほど時間は掛からない。一瞬で完了する。あとは取りあえず、トレーニング通り此奴を飛ばすだけだ。彼は慎重にレバーを倒した。ドローンは拍子抜けするほどあっけなくふわりと飛び立たった。すこし体勢のバランスが良くないな。でも、始めて動かすのだ、まあ上出来な方だろう。それに思ったより静かだな。よくテレビでみるドローンはもっとモーター音も風切り音もうるさかった気がする。警察署向けに特別に作らせた物ということだけある。安物と違って中型バイクが買えてしまうほどの代物だから、当然と言えば当然なのだが。それに、余りにも騒音が酷いようなものは、捜査用途では使い物にならない。
一方、中川はモニターの画面を食い入るように見いっていた。さっき取り寄せた見取り図で見る限り、進入出来る所は正面しかない。正面から入ったら早速気が付かれるてしまうのがオチだ。先ずは周辺を一通り探る必要がある。見取り図には書かれていない、隙間や小さな換気口などは絶対にある筈だ。
「山崎ぃ! まずはぐるっと一周させろ」中川が低く野太い声で言った。それほど大きい声では無いが、周りを威圧するような声だ。
山崎は指示通り、操作をしてドローンを本殿の右手からぐるっと一周させようと正面に近づかせた。一瞬ドローンはその高性能暗視カメラで本殿の中を捉えた。外は月明かりに照らされているが本殿の中は正面しか光が入らないため真っ暗だが、この高感度赤外線カメラのおかげで、社内の様子が鮮明に映しだされていた。
「中川さん、ここ!」モニター担当の佐々木巡査が指さす先にはロングヘアの女性と思わしき姿が映っていた。身動き出来ないように縛られている。顔は鮮明に映っているのだが、口元だけ何かにおおわれていて見えない。声を出させないようにガムテープが張られているのだ。その側には若い男が身動き一つせず横になっている。怪我のため体調が良くないのだろうか? ただ、単に寝ているだけなのだろうか? ここからではうかがい知れない。
「このままの状態で中の様子を見ましょう」佐々木は中川に進言した。外からでも中の様子が判るなら危険を犯してまでドローンを侵入させる事も無い。
「許可する」と中川は一言言って黙り込んだ。さて次の一手はどうするか? 小鳥遊綾人が倒れているなら、今踏み込むべきだ。催涙ガスを一発お見舞いすれば良い。あとは人質の救出だ。そのためには彼女らの監禁位置を把握しなければならない。一人は小鳥遊綾人の側にいることは判ったが、もう一人女の子がいるはずだ。出来れば踏み込む前に確認しておきたい。
「山崎ぃ、ドローンをゆっくり後退させて、社内部全体を見えるようにしろ」中川は先ほどまでの威圧的な雰囲気を抑えて命令を下した。山崎はゆっくり頷きリモコンを操作を再開した。ドローンはゆっくりと後退しはじめ、モニター画面に本殿内部全体が映し出されようとしたとき、一瞬何か黒い影がカメラの前を横切った。そして、次の瞬間ブチっというノイズ音がすると画面は真っ暗になり映像が途絶えた。
「ドローン、ロストしました」山崎巡査が声を上げた。
「くっそ!」中川はモニタの置いてある机を弾みでモニターが数センチ動いてしまうほどの勢いで叩き、罵った。なんだ? あの影は? 小鳥遊は床に寝ていたはずだ。我々が把握してない共犯者でも居るのか? 「竜」という言葉が中川の脳裏に一瞬よぎった。あの人質の少女達の知り合いである少年、龍沢秀明が言っていた言葉だ。
「まさかな」有り得ないだろう、そんな絵空事みたいなこと。なにかの聞き間違いだ。そんなことを真顔で言うなど頭がおかしい奴位しかいない。それとも、今はやりの中二病とか言う奴か? ガキ同士の戯れ言なら兎も角、大人、しかも警官である我々に口走るような事では無い。きっと屋根から落ちてきた石ころかなにかにでも当たったのだろう。たまたま当たり所が悪かっただけだ。だがその程度で故障など、警視庁の要求事項を満たしていないでは無いか? 導入したばかりなのに困ったものだ。中川は共犯者の可能性はあるもの、一刻の猶予も無いと考え、SWATの到着を待たずに機動隊による制圧を実行に移す決意をした。
「第一班、突入準備だ」中川は機動隊に命令をかける。「俺の合図で突入しろ。いいな?」中川の命令に社の周りに配置された機動隊全員が大きく頷いた。
「小鳥遊ぃ! これが最後の通告だぞぉ! あと十数えるうちに投降の意志を見せない場合は後悔することになるぞ! いーち!」中川の号令を機動隊隊長は隊員に指で合図をおくる。本殿からは何の反応もない。
「にーい!」相変わらず無反応だ。
「さーん!」隊長がブロックサインをおくると、隊員たちは動き出した。
「よーん!」隊員たちはアサルトライフルを構えじりじりと本殿に近づく。
「ごー!」本殿のほんの少しの位置まで近づいた隊員達が指でサインを送る。
「ろくっ!」アサルトライフルのレーザー照準器の赤い光が不気味に光った。本殿からの反応はない。
「なな!」隊員は一斉に本殿にアサルトライフルを向け、突入にそなえる。
「はちぃっ!」「きゅうっ!」隊長の手が高くあがった。
「じゅうっ!」その号令の瞬間に彼が手を振り下ろすと隊員の一人が本殿に催涙弾を打ち込んだ。だが、すぐさま、まるでテニスでも見ているかのように催涙弾が本殿の外に投げ返され参道の石畳にカラカラカラと転がった。やがて巨大な影のような物が本殿の外に現れた。なんだ? 象か何か? とその場の誰しもが思った。だが動物園があるわけでも無い山奥にそんな物いるわけが無い。
「閃光弾発射しろ!」中川のがなり声が響いた。機動隊の発射した閃光弾がはじけて辺りを明るく照らした。
「キングギドラ」機動隊員の一人が言った。
そうだ、昔の怪獣映画に出てくる首が三本有る、竜のような怪獣だ。その怪獣は二つの首で辺りをなめ回すように伺うと大きく口を開いた。中川は一瞬反射的に化け物が次にどうするかを悟ったのだが、すでに手後れだった。
「おい、やばいぞ、撤収、撤収だ!」中川がそう言い終わらないうちに一瞬で火の海になる。そのキングギドラのような生物がまるで怪獣映画のように火炎を放射したのだった。
もうどのくらい過ぎたのだろう? 亜紀は目を開け、辺りを見回した。身体じゅうが痛い。特に足首と手首が痛い。どうも縄みたいなもので縛られているようだ。ここはどこだ? 周り暗くてよく見えない。左胸から腰にかけて何かがもたれ掛かっている。彼女には直ぐ自分の妹だと分かった。彼女も縛られている。何があったのか良く思い出せない。そうだ、部屋の外がうるさいから、ヒデ君が様子を見に行って、そうしたら直ぐ轟音と衝撃が有ったんだ。そしてなにかの獣、象みたいなでかくて、息が臭かった。それからそいつに咬まれて、意識が無くなった。
そうだ紫雨を呼ぼう。だが、声を出そうとするが声が出ない。いや喉までは出ているのだが詠唱が出来ない。いくらやってももごもご言うばかりだ。最初は何が起きているか理解できなかったが、だんだん意識が戻るにつれ理解出来るようになった。口にガムテープか何か張られているんだわ。亜紀は美紀を揺すって起こそうとするが、彼女は目覚めない。よく見ると彼女も口にテープが張ってある。
「何しても無駄だよ」と男の声がする。小鳥遊綾人だ。
「ちょっと暴れたんでね。薬を打たせて貰った。あんたも暴れるんなら打たせて貰うぜ。だけどちょっとやばい薬だからね。中毒にならなきゃ良いけど」どうやらモルヒネか何かを打ったらしい。病院から奪った奴だろう。
「本当は俺が使うつもりだったんだけどね。あんたに切られた舌が痛いよ。それに身体も全身ボロボロで痛い。少しここで体力を回復させて逃げるつもりだったが。警察がかぎつけてきやがった。ここならばれないと思ったが」綾人はポケットから携帯を取り出す。美紀のアイフォンだ。
「このハイテクって奴を見落としていたよ」と美紀の電話を部屋の壁に投げつける。
「まぁ、いい。あんたらは少し俺がいたぶってやろうかと思ったが時間がない。まもなく警察がここに突入してくる。そうしたらこの龍神様をつかって」綾人は闇の中に隠れているものをぽんと叩く。あの象のようにデカい獣は最強の妖鬼と言われる「龍神」だった。文献には載っているけど初めて実物を見たわ。きっと現存する防人でも実物と遭遇した人はいないんじゃ無いかしら?
「警官隊を焼き払う。そのときついでに、おまえらと一緒にここも焼き払ってやる。俺を傷つけた罰だ」小鳥遊は息を切らせる。まだ体力は充分でないようだ。
「そして俺はその隙に逃げるさ。どっか太平洋に小国がいい。こいつに勝てる兵器を持っている国なんて大国くらいな物だ。小さい国なぞ、あっという間に此奴で制圧出来る。そうしたら、俺はそこの国王にも成れるし、文明が未発達の連中からしたら神にさえ見えるだろう」かれは青息吐息でもその野望の片鱗を見せた。だがこいつはただのサイコパスだ。被害が広がらないうちに何とかしなければいけない。だが綾人はどうやって龍神を手名付けたんだろう。亜紀は思った。妖鬼が人を同化する事は聞いたこと有るが、逆なんて聞いたこと無い。ああ、紫雨さえあれば。
「小鳥遊ぃ!これが最後通告だぞぉ」外から警察とおぼしき声が拡声器から聞こえる。
「そろそろ来るつもりみたいだな」綾人はそう言うと龍神に向かい「おい、外にいる奴らを焼き払ってこい!」
亜紀は「やめてー!」と叫ぶが実際にはもごもごと音が出るばかりだった。
「パン!」なにかが投げ込まれるが、龍神の体に跳ね返され外にでてしまう。龍神は格子を壊してのっそりと外に出て行き、一瞬で本殿の辺りを明るいオレンジ色で染める。周囲は叫び声、怒号にまみれる。ああ、なんて言うことを。亜紀は一線を越えてしまった綾人に悲しみと哀れみを感じた。
竜が本殿に入ると、秀明は吉宗を手に屋根を伝って本殿入り口付近までいった。さて、この後はどうするか? なんとか竜を外におびき出して、この剣で切るか? いやいや、あんなでかいやつに正攻法で勝てるわけないな。くそぉ、考えろ俺! とりあえず、あの竜と正攻法では勝てない。なんとしても、外におびき出して、できるだけ遠くに行ってもらう。綾人だけなら自分一人でもなんとかなるな。そうしたら先輩たちを助けて……。そう考えていると、バタバタとヘリコプターの音が聞こえてきた。自衛隊でも呼んだのだろうか。音がだんだんと大きくなってくる、かなり近い。やがて周囲の木々はヘリコプターの風圧でざわめき、投光機の明かりで照らしだされる。これはチャンスだ。秀明はヘリに見つからないよう本殿の山側に身を寄せる。しばらくすると本殿からごそごそと竜が出てきた。今度は此方のことはまるで、気にも留めていないようで、周りを伺うことなく、境内に出て行った。そして翼を大きく広げると、ものすごい勢いで飛び立っていった。何をするつもりだろうか? だが今はそんなことはどうでも良い。またとないチャンスだ。彼は本殿の脇から飛び降りると様子をうかがいながら、中に入っていった。本殿内は暗かったが、境内の鳥居がまだ燃えていたため中の様子がかろうじて分かる。やがて彼は柱に縛られている一乗寺姉妹を発見した。他に人の気配は無い。彼女達に近づき「亜紀先輩大丈夫ですか?」と声をかけ、まず口の粘着テープをゆっくりはがした。
「フハァ!ハァハァ、ハァハァ、ありがとう、ハァハァ、んぐ」粘着テープで息苦しかったのだろう。
「怪我ありませんか?」と亜紀に話しかけ、すぐさまロープを解こうとしたが、彼女は、
「ハァ、私は良いから、美紀ちゃんの先にしてあげて、ふぅ」と言った。秀明は亜紀同様身動き取れない、美紀の粘着テープとロープをはずしたのだが、なにか様子がおかしいことに気づいた。
「美紀ちゃん、なにかモルヒネか何か麻薬打たれたみたいで。何を言っても反応しないわ」亜紀が息も絶え絶えで話した。確かに、ぐったりしたままで目は半開きだが焦点がさだまってない。体は温かいので死んではいないはずだ。
「気をつけて、まだ小鳥遊綾人は居るはずよ」亜紀が言い放った。その時、外で「バグォーン」と耳をつんざくような轟音が襲った。その振動で本殿の中もビリビリと震え、いくつかの飾りも落ち、秀明はその音で一瞬体がすくんだ。外を見るとそこには見覚えのある男が立っている。小鳥遊綾人だ。
「正義のヒーロー見参かな?」綾人は不適な笑みを浮かべた。
「おい、おまえ! どういうつもりだ?」
秀明は吉宗を引き抜き綾人に向けて言った。
「ああ、この女の子達の彼氏? 別にこいつらと
「そんなことは聞いてない! なんで攫った?」
「あ〜、その事か。そこのおねーちゃんにはいろいろ世話になったんで、まぁお礼でもしたいなと思ってね。こいつに舌噛みきられて痛いのよ。まぁ応急処置が良かったせいか、喋れるようにはなったけどね」
「あと、あの竜はなんだ?」
「おおっと、質問はそこまでだ、もう時間が無いんでね。もう少し経ったら自衛隊の戦闘機でも飛んで来るだろう。ヘリコプター一台くらいならなんとかなるけど。それどころじゃすまないからね」
秀明は刀を構えるが綾人は余裕綽々だ。
「やめなって。外見てご覧よ」
外には竜が口を半開きにして待っている。綾人に手を出したら外の竜が黙ってないよってか。
「じゃあな。一応逃がしてくれたら、もうあんたらのことは放っておくよ」
「ヒデ君、アイツを逃がしては絶対駄目。逃げたあと、何をしでかすか判らないわ。それに逃げ出したあと、その竜の火炎で私達ごとここを燃やすつもりよ」
綾人は一瞬、唇を噛みしめる。図星といった感じだ。
「ヒデ君、よく考えてみろ。ここで俺にその刀を刺して皆で丸焦げになる、それとも俺を信じて丸焦げにならない。どっちが良い? しかもお前一人の命じゃない。そっちの女の子達二人の命もかかってんだ。よっく考えてみな」綾人はくるりと踵を返し、入り口に向かうと振り向きざまに「それに俺も男だ。約束は守る」
「クッ!」秀明は葛藤した。正々堂々戦って勝てる相手じゃ無い。自分がアイツを刺すより、竜が火焔を吐く方が早い。だが、取りあえず逃がせば、一瞬だが時間は稼げるかも知れない。それに望み薄かも知れないが約束通り見逃してくれるかもしれない。どうする? どっちにしろ殺されるとしても、どちらに逆転のチャンスがあるだろうか? 苦渋の決断だが、一抹の期待を込めて秀明は彼に従い、見逃すという選択をした。だが、綾人は社から出て秀明と充分距離を取ったことを確認すると、突然ゲラゲラを笑い出した。
「いや、愛って美しいね。女のためなら、どんなことでも信じるんだな」と綾人は言放った。やはり、彼ははなから約束など守る気なんて無かった。
「糞ったれめ! よくも裏切ったな!」一瞬でも、こいつのいうこと信じた俺が間違っていた。秀明は自分の愚かさを呪った。
彼はそれが哀れみから来たものか、単に笑いすぎて出てしまったものなのかは判らないが大笑いをしながら涙を拭った。
「じゃ、竜神さん。こいつらを神社ごと焼き……」彼が化け物に秀明たちを丸焼きにするように命じようと手を上げたとき、
「おにいちゃん、やめて!」少女の声が彼を遮った。
「陽奈、どうしてここに?」綾人は突然現れた妹に驚愕し我を忘れた。
「もう、やめようこんなこと。素直に自首して」と彼女は兄に懇願した。彼は一瞬動揺したがそれでも直ぐに元の冷徹な男に戻った。
「ゴメンな。陽奈。もう何もかも手遅れなんだよ」彼は非情にも妹にそう言い放つと、「竜神さん、さあ……」と秀明たちの方に振り向きかけた。しかし、言い切れないうちに彼はまるで何か強大な力で殴られたかのように、何か強い衝撃をうけて、灯籠の向こう側にある社務所のほうまでふっとばされた。秀明が後ろを振り向くと、亜紀が縛られた身体を前のめりにして手のひらを大きく広げて腕を伸ばしていた。いつの間にか位相の隙間から紫雨を呼び出して、それを放っていたのだ。
「いやぁ~!」陽奈は叫びながら兄のほうに駆け寄った。そして急いで抱きかかえ、彼の体を大きく揺さぶった。彼は気絶しているのか死んだのか判らないが身動き一つしない。
秀明の後ろに立っていた亜紀が姿勢を取り直し、右手首をひょいとひねると、外の石畳に転がっていた紫雨はまるで彼女の手に吸い付くようして戻った。彼女はそれを使って自分と美紀を縛っていたロープをその刃先で切り裂いて、妹と自らの拘束を解いた。
「ヒデ君は美紀ちゃんを守ってて、私は綾人が気を失っている今のうちに龍神をなんとかするわ」彼女は妹をその場に寝かせると、紫雨を片手に持って立ち上がった。パジャマ姿だった彼女はいつの間にか、戦用の服である巫女服姿に変わっていた。神器である『紫雨』に備わった
「大丈夫ですか? あんな化物?」秀明は彼女の言葉に驚いて尋ねた。
「大丈夫じゃないけど、とにかくやるしか無いじゃない! いったん私が境内左側に出て、陽動するわ。ヒデ君は美紀ちゃんを背負って右側から逃げて」亜紀は紫雨を構えた。
「待ってください! いくら何でも危険です! あれ《・・》の火焔を見ましたか? 機動隊の人何十人もあっという間に焼き尽くしたんですよ? 先輩だって、いくらその巫女服に強力なシールドが付いていたとしても、無事でいられるわけがありません! お願いだから考え直してください!」彼は彼女に考え直すように懇願したが、そんな彼を無視して、彼女は左側の壁伝いに、じりじりと進んでいく。秀明は吉宗をベルトと腰の間に挿し、美紀を背負った。身長が高い割には軽いんだな。と思った。
亜紀は本殿入り口まで近づくと、手で秀明たちに入り口まで近づくよう無言でサインを送った。そうして、指でカウントダウンのサインを始めた。そのサインがゼロになった時、彼女はいままで秀明が聞いたことも無いほど大きな声で「いくわよ!」と合図を送り、同時に境内左側に突進していった。龍神は突進してくる彼女に気が付き、右側の頭をもたげ、彼女に向けて大きく口を開いた。それは喉の奥を不気味にぐるぐると鳴らし、胸部にある嚢からヒドラジンに似た液体を喉奥にある火炎管に送りこんだ。
「来るわ!」と彼女はつぶやいた。そして龍神の注意をぎりぎりまで引き寄せると、ぽーんと目の前をジャンプした。次の瞬間、龍神の口から発射された火炎が先ほどまで亜紀が居た場所に注がれた。亜紀は鈍重な竜が彼女の素早さに追従できなかったおかげで、火炎を難なく避けたられたのだ。彼女は龍神の背中に飛び乗ると、左側のうなじ目掛けて一気に紫雨を突き立てた。だが、堅い鱗に阻まれて肉まで届かずはじき返される。何度も同じところに突き立てればうまく行くかもしれないが、じっとしていない龍神の背中でそれを実行するのは無理な話だった。どこか弱点を探さなければ。龍神と戦うと分かってればあらかじめ弱点を調べるとか対策できたのに。
亜紀は考えを巡らした。そうだ、動物っておなかが柔らかいんだっけ。犬とか猫もそうだもんね。よし、何とか腹側にまわって突き刺せれば。亜紀は一か八かに掛けてみることにした。龍神は背中の載る邪魔者をはたき落とそうと、尻尾で払ってくるが、首までは届かない。しばらくして尻尾ではだめだと悟ったのか、こんどは右側の首をまわして、邪魔者を追い払おうとするが首は真後ろまで曲がらない。それでもなんとか彼女を追い払おうと大きい口を開け臭い息を吐きながら、首をそらしてくる。彼女はなんとか弱点と思われる腹側へまわろうと四苦八苦したが、暴れる竜から振り落とされないようにするのが精一杯だった。やがて龍神はついにしびれを切らし、強硬手段をとった。突然暴れるのを止め、竜は足を揃えた。そして、地面に伏せ、羽を縮めた。この子、何をしようとしてるの? まさか? 亜紀が竜の妙な動きに気が付いた瞬間、それはその場から一気にジャンプした。グウォオオオという音とものすごい風圧がまわりに立ちこめる。おびただしい量の土煙が一瞬立ちこめ辺り一面が視界が遮られた。そしてそれが収まる頃には、境内から竜の姿が消えていた。
どうやら龍神は邪魔者を振り落とすつもりらしい。亜紀は綾人が着けたのであろう、龍神の肩に掛かっているロープを握り必死に捕まっている。眼下前方には町の灯りが見える。さすがにここから落とされたら、いくらこの服に防護機能があるとはいえひとたまりもない。龍神は上昇下降を繰り返し、錐揉みをする。激しく揺さぶられる中、彼女の意識は朦朧とし始める。そろそろ限界だ。亜紀は、意識のあるうちに何とかしないといけない、と感じた。
下降して上昇し始めるタイミングで飛び降りれば、あとは防護機能でぎりぎり助かるかもしれない。それに落下する場所が湖か森の上なら生存確率はさらに高くなる。彼女は次に龍神が下降を始める時を伺った。しかし、彼女がその目論見を実行しようとしている、今に限って、上昇下降しない。龍神は錐揉みしながら夜の空を疾走し始めた。そして、亜紀はついに耐えきれず気を失って仕舞った。気絶した彼女の手から手綱であるロープは離れ、彼女は夜の闇に吸い込まれてしまった。
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