1.帰還者、ミズホ
1-1.通勤風景
「……ざみさん」
「……」
「阿左美さん、朝……です……」
僕、
「よっ!!!!!!!!!!!!」
直後、全速力さの踵落としが向こう脛に直撃し、瑞穂は最高の目覚めを享受した。
「何時間寝たら気が済むんですか、あの人は」
数ヶ月前、とある基地が壊滅した。最南端に位置する、本土奪還のために建てられた強者揃いの橋頭堡が、信じがたいことにたった一夜にして。偵察に向かった者は誰ひとりとして戻らなかった。しかし唯一の生き残りの瑞穂によって、やっと壊滅した事が分かったのであった。
極寒の荒野を
「ごめん、おまたせ……!!」
優に180cmはある大女が、助手席に転がり込んで車体を揺らす。朝は起きない、整えれば綺麗なはずの長い黒髪は寝癖でくるくると迷走している。ふっくらと柔らかそうな唇は開くたびにピンボケした狂言が飛び出す。優しげながら芯の強さを感じさせる、長いまつげが影を落とした青い瞳は目ヤニが付いてる。冬霞は目を細めた。……細部さえ見なければ目の保養にはなる。そこにいるだけで場の華やぐような容姿でありながら、一見してダメだこいつと分かるような……こう。
「目覚ましは置物じゃないんですよ。わかってますか」
「はい……」
冬霞にはそのふわふわ……を通り越して先達として……いや、人としての尊厳すら危うい何か、それがこの500万都市であるサホロを傾けうる危険だとはとても思えない。証人たる額の傷も今は髪の下で見えないし、その肢体……特に胸は食べるに困ったことの無いようにでっか……じゃなくて、だらしのないだけ見えてならない。大きさで言えば冬霞の何十……何百倍……
「じゃあ、出しますよ」
冬霞がアクセルを踏み込むと、車重3tに及ぶ公私両用の装甲車は滑るように走り出す。電波が入ってラジオが流れ出した。
《今日の最高気温は-21℃、夜間は最低-40℃程まで下がると予想され……》
「どうします、急ぎますか」
時刻は始業20分前。普通に行けばどうあがいても間に合わない時間。
「お願い」
そうは言ったものの、この朝の混雑の中で一体何をどう急ぐというのか?瑞穂は怪訝に思ったが、顔に出さないようにした。
「シートベルトは締めてますね?」
冬霞が何もないところでウインカーを出した瞬間、瑞穂の背筋を冷たいものが走った。そこはかつて川だった場所。そして土手にある細長い道……。路面の劣悪さとその狭さ故に、車が通るのを見たことさえない道。私達の車は、その酷道に鼻先を突っ込んだ。
冬霞が軽やかにアクセルを踏み込むのに合わせて、エンジンが吠える。ハンドルを回すたび、タイヤがぐりぐりと鳴って危うげに凍結したアスファルトの上を転がる。なんとか二台がすれ違える幅しか無い道に吸い付くように走っている。ガードレールの向こうはかつては川だった氷原だ。土手から落ちればただでは済まない、曲がりくねった限界ロード。
速度計は80km/hを指しているように見える。見間違いであってくれ。瑞穂は祈って、いつ"絶叫マシン"になってもいいようにシートベルトに手を添える。助手席から見る運転は魔法のような業だった。冬霞が一度車体を中央に寄せて、それからハンドルを深く切り込んでいく。徐々に不吉な振動が増え、スリップの一歩手前まで来ている事を察して瑞穂は青ざめる。
冬霞がさらに深く切り込むと、振動が一気に消失する。車重3tの防弾車はカーリングよろしく横滑りを始め、デッド・オア・アクシデントの限界に追い込まれる。ガードレールが猛烈な勢いで迫る。重ねて言うが向こうは川。瑞穂の長い髪が遠心力に引かれてなびく。
「し、死──」
「よいしょ……っと」
冬霞が鋭くハンドルを切り返し、クラッチやブレーキを慌ただしく操作すると、一瞬でタイヤが氷を掴んだ。
「今何分ですか」
「あ、ああと5分」
答えた瞬間、瑞穂は猛烈な加速でシートに貼り付けられた。なんとか首を回して冬霞を見ると、アクセルを底まで踏んでいる。
「捕まる!!」
「追いつけませんよ!!」
「そういう問題ではない!!」
職場の駐車場にパワースライドしながら転がり込むと、なんとか始業3分前に二人分のタイムカードを叩きつける。瑞穂は初めての乗り物酔いを経験し、今日はこれ以上悪いことが起こらないように祈った。
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