あいうえお作文

森野杏樹

第1話 足りない文字はない。

  朝にしては爽やかな日だった。息を吸い込むと柔らかい初夏の香りがした。鬱蒼と茂る木々なんて今では見る影もないけど、季節の香りというものは案外残っているのかもしれない。映画のワンシーンみたいな街路樹に沿って私たちは歩いていた。お決まりの道をテクテクと歩いていく。からりと晴れた空はどこまでも突き抜けるように青い。絹のように柔らかな日差しが葉の隙間から差し込んでいた。

 「クジラを見に行きたい。」

軽快な歩調でクルクルと回るように、君はよくわからない提案をするのが常であった。

「今度は何、また随分と急な。」

「…寂れた水族館に一匹で泳ぐクジラ、エモくない?」

「しかも寂れた水族館なんだ。」

「水族館、混むのは嫌じゃん。」

「世界中探しても寂れた水族館に鯨だけという状況はないと思うのだけど。」

「そこは置いておいてよ。」

例えばさ、と前置きして君は話し始める。

「違う世界があったとして、そこでは僕らはこんな関係じゃなかったとする。」

つまり、他人同士、顔も知らない状態なわけだ。

「…展開についていけないけど?」

唐突な話に私はたくさんのはてなを浮かべた。

「何かのきっかけで、僕と君はそれぞれ鯨だけが泳ぐ大きな水槽のある寂れた水族館に行くんだ。」

にこりと笑って、私は君に話の続きを促した、こうなると君の話は終わらないから。

「温い気温なんだ、そこは閉鎖空間独特のね、少し酸欠気味の頭で僕らは出会うのさ。ひどくロマンチックじゃない?」

「望んでそこに私が行くとは思えないのだけど。」

はあ、と君はため息をついて、例えばの話だよ、と言った。

「一人で君がそんなところに行くとは微塵も思ってはいないが、それでもやっぱりエモいと思うんだよ。」

二人で話すときはいつもこんなかんじだ、くだらないたとえ話、空想、妄想、君の頭の中に詰まっているものを取り出してこねくり回す、楽しい世界。

変な関係、と友人に言われたこともあるけど、まあこれはこれで気に入っているので口を出さないでほしい、私は自明に君が好きなのだから。

本当は、それを口に出せばいいものの、素直じゃない私はできないのが目下の悩みだ。

全くねえ、私は私を笑う、もう一歩なのにね。

微塵もそんなことに気がつかない君はまだ鯨の話をしていた。

「難しいかもしれないけど、もし本当にそんな寂れた水族館があるのなら一緒に行くことを検討しなくもないよ。」

面倒臭い回りくどい言い方を我ながらするものだ。

「もし、あれば、今からでも?」

やった、と額に書いてあるようなそんな顔で君はいった。

「…夕方までに帰って来られれば。」

よっしゃ、と叫ばんばかりにガッツポーズをする君に年齢にそぐわないポーズをするなと咎める。

「来館時間が限られているからね、たいして遅くならないよ。」

「了解、それなら構わないよ。」

瑠璃色がかった目が輝く瞬間が好きで、そんな君を見るためなら今日の夜の予定なんてどうでもよかったけど。

恋愛というものはひどく不思議で、ふわふわで、甘くて、いたいものだ。

ロマンを叶えるためだ、君の、そのロマンが私をときめかせる。

私は、そのときめきの元を追いかけた。

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あいうえお作文 森野杏樹 @-juliet1325

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