ピアニシモ
駅前の人通りは絶えず、けれど僕の前に立ち止まる者はほとんどなかった。構わず声をあげて歌う。ギターを鳴らす。投げ銭を要求するハットの中には数枚の硬貨が光っているだけだ。
誰も傷つけない歌詞は決して誰にも刺さらない。優しいだけのメロディじゃ誰の記憶にも残らない。
わかっていた。だけど僕が歌うのはたった一人のためで、路上は本番のようで練習にすぎない。とびっきり繊細で傷つきやすく、誰にでも優しかった彼女。ほほえみの仮面の下で人知れず痛みを抱えていた。孤独に死んでいこうとしてうっかり中途半端に生き残ってしまった。それも不器用さを思えば納得してしまいそうで。
機械につながれた身体の中で、彼女の魂はまだ生きているのだろうか。手を握り返すことも瞼をひらくこともなく呼吸だけを続けていて。若葉色の便箋に綴られた遺書は僕への気遣いと謝罪で埋まっていた。何が彼女をそこまで追い詰めたのか、僕には知るすべがなかった。
『人間、最後まで聴覚は残っているらしい』
どこかで聞いた説に僕は望みをつないだ。彼女のもとに通い詰め、思いつく限りの言葉を贈った。愛してる。戻ってきて。どんな君であっても好きでいるから。言葉は詩になり、詩はいつしか歌になった。
今も彼女の耳もとに歌をささやく。ありったけの想いをこめて。彼女が反応を示したことはなかった。届いているのかなんて、奇跡の果てに再び目を覚ます日まで知りようがない。怖かった。空虚な穴に叫び続けているようで。耐えられなくなると路上に出た。冷たい視線も面白半分に投げられる一円玉も僕が空気でないことを証明してくれる。
また僕の名を呼んでおくれよ。いつまでだって待っているから。
我に返ることだけはしてはならない。それは恐怖に追いつかれるのと同義だ。彼女の耳の穴は当たり前に暗く、僕も同じ構造を持つはずなのに彼女の身のうちに満ちた闇のように思えた。
光のない世界で君はどんな夢を見ているんだい。はやく目を覚まして僕に教えておくれよ。
眠り続ける彼女をよそに、僕は確実に歳をとる。大学を卒業した。働きはじめた。会社は寛容でこうして歌い続けることを許してくれる。一方で彼女の知らない僕は確実に膨らんでいく。意識を取り戻した彼女が以前と同じである保証がないように、僕もまた同じ自分ではいられない。変わっていってしまう。抗うように歌うしかない。他に方法を知らない。
日没も近づいてギターをしまう。家路につく人たちが増えてきた。僕も帰ることにする。明日は彼女の見舞いに行く。だからよく眠っておかなくちゃ。睡眠はすべての気力の源。そう信じているから。
***
病院の匂いにはいつまでも慣れない。くしゃみをこらえて馴染みの道順で廊下をたどる。長くはまったままのネームプレートはいくらか褪せている。ドアは開いているので入り口の脇の壁を軽くノックする。
「おはよう、
もちろん返事はない。ベッドサイドに歩み寄る。彼女の表情が前回訪れたときと変わらず穏やかなことにまず安心した。点滴をしていない方の手を軽く握り、ついでのように指をほぐす。僕の眠り姫はキスごときじゃ起きない。無駄なことはせずに形のよい耳もとに口を寄せる。短く切られた髪をそっと指で梳いてから。
ほとばしる歌も尽きて、水面に浮上するように息を継ぐ。心なしか周囲が明るくなった気がする。彼女に向き合うのは深い潜水に似ていた。
ペチペチと変な音が聞こえた。振り返ると部屋の入り口から女が覗いていた。音はその人の控えめな拍手だった。僕らと歳はそう変わらないだろう。黒いパジャマを着ているが、艶やかに長い栗色の髪は病を感じさせない。
「すてきね」
「立ち聞きですか」
遠慮を知らない口ぶりに苛立つ。
「ごめんなさい? きれいな声が聞こえたものだから」
「素人臭いのはわかってます。からかうのはやめてください」
「からかってなんか。私はただ拍手を送りたかっただけ。その子、あなたのたいせつな人なんでしょう?」
「当たり前じゃ、ないですか……誰が大事でもない人にこんな不毛な真似!」
彼女はいきなり僕の手を取った。その感触は蒼のものよりしっかりとしている。
「無駄なんてこと、ありません。人の心のあらわれに貴賎なんてない。ねぇ、タイトルはあります? いまの歌に」
まっすぐ僕を見てくる。あまりに真剣で、つい視線を外してしまう。しまいには蒼にすら恥ずかしくて言えなかったタイトルをぽろっと口にしていた。
「ピアニシモ、です」
「ありがとう。ピアニシモ、優しいことば」
彼女は顔をほころばせた。はじめて瞳を僕から離して、ポケットから赤い糸玉を取り出す。毛糸のようなものではなく、ミシン糸をずっと太くしたような艶のあるものだった。
「私、左近みもざといいます。アーティストで。あの、インスタレーションってわかります?」
「いえ、すみません」
「あっ良いんです。普通知らないですよね。現代美術で、展示空間そのものをアートにするっていう。永遠には存在しなくて、期間が終わったら撤去してしまう仮設的なもので」
「で、あなたがそれを?」
「そうです。よければお二人の手を貸してくれませんか」
「僕はまぁ、いいですよ。でもこの子は」
「動くのは私だけでいいので。ただモノとして手を借りたいんです」
「どっかに公開されるのは困ります。僕は家族じゃないし、そういう許可は出せません」
「普段は写真に撮って公開するんですけど今回は私、撮らないので」
「じゃあ何のために」
「私の衝動に理由なんてない。ただここに表現したいものがあるから」
知らず、僕はうなずいていた。彼女の声の切実さだけを信じて。
左近さんは糸を僕の小指に結んだ。そこから端を発して、金色の細いかぎ針で手早く編んでいく。リボンほどの幅とはいえ信じられないスピードでレース模様が展開される。糸はついに蒼の指先に至り、僕と同じように小指に糸を結ばれた。
「ありがとう、ございました」
深く頭を下げる左近さんを前に僕はとっさに声を出せなかった。何度かどもったあとに一言だけ訊く。
「写真、撮ってもいいですか。いつかこの子に見せたい」
破顔とはまさにこのことだろう。左近さんは晴れやかに「ぜひ」と言った。
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