生存報告0097

 私の指先ひとつで作品は世界に放流される。いい時代に生まれたという実感は常にあった。両手に収まる端末ひとつでたいていのことはできる。ちょっと多くを望むなら、デジタル一眼とノートパソコンがあればいい。

 私のような人間にも平等に表現は開かれている。それってすごく貴重なことだ。


 オーバーベッドテーブルに乗せたPCを閉じる。パジャマの裾を正して紐なしの靴slip-onをつっかける。背に皺が寄っていないかも首をひねって見る。部屋に鏡はない。手首に巻かれたタグは長袖に隠れている。

 長い髪に指を触れてしまうのは、癖だ。衰えてゆく身体の中で、やけに素直に健やかに伸びる髪。私にとっては珍しくも手の届く範囲にある、健康的な存在だった。これもいつまでもつかは謎だ。ゆっくりと細っていく腕を、陰を強くしはじめた肋骨を思えば。


「みもざちゃん、お散歩?」

 廊下で看護師が声をかけてくる。二十三歳にしてちゃん付けで呼ばれてしまうのは、私のキャラクターに問題があるのか、平均年齢の高い環境によるものか。

「中庭にでも行こうかと」

「気をつけて。夕食を忘れないようにね」

 夕焼けに見とれて夕食を忘れる。検査の予定を忘れて廊下で制作を始めてしまう。失敗は数知れず、だから彼女の心配は正当だった。

 別れたのち、一度だけ振り向く。廊下の果てに窓があり、変哲のない都市の風景とさめた色の空を切り取っている。リノリウムに反射する光は表面の歪みに沿って湖のようなさざなみを立てていた。つまらないけれどきれいで、ありふれているけれど切り取り方しだいで胸に響く風景。私の作品たちworksはそこに意味を持たせるインスタレーションだった。空間の中に、空間を生かして形づくる非恒久的temporaryな展示。写真を撮ってはすぐにほどいてしまう。赤のレース糸、それから真鍮のかぎ針。それが私の銃弾。インターネットへ開かれている私の展示室は生活そのもので、つまり病棟ここ


『生存報告0097』


 余命二年の私に四桁のナンバリングが必要とは思えないけれど。一日ひとつ作品を公開する。積み重なる履歴。毎日増えていく数字。私を見つめる瞳はそれなりに多いはずだ。死んでゆくというコンテンツ。白っぽい、病院という背景。糸とかぎ針さえあれば無限に連ねることができるレース模様。タイトルを添えて写真を投稿するほかは、目立ったことはしない。それでもときどき発言をするときは、つとめてひらがなで語ることにしていた。儚さ、柔さ。私の印象を誘導するための細工。

 それから私の名前。左近みもざ。実名で活動するにはちょうど良いケレン味と読みやすさ。どうせ死ねば失われるのが名であるからして、このさい使い倒すと決めていた。

 運命ってやつは気まぐれに好き勝手な方向に転がっていく。純粋芸術fine artに魅せられた学生時代。絵画から彫刻に興味を移し、倉庫めいたアトリエでひたすら石膏を盛ったりそいだりした。彫塑。削ることと積み上げること。明確な終わりの存在しない世界が好きだった。だけど卒業を前に私は逃げた。金銭、時間。困難を前に制作を捨て、一般企業に就職した。なのに私の手は作ることから逃れられなかった。昼休み。残業から寝るまで。受け付けない朝食のかわり。無意識に生み出される作品と名付けようもないゴミ、ゴミ、ゴミ。それ以上に吐き出されず溜まる心の澱、澱、澱。ずっとよどんだ気分だった。寝不足。慣れない仕事。霞む思考。


 やがて私は倒れ、社会から切りはなされ、親を泣かせ、現代医学の限界に立たされた。残された命の使い道なら自明だった。つくること。心を燃やすこと。不安だろうが恐怖だろうが哀しみだろうが不甲斐なさだろうが憤りだろうがぜんぶ、ぜんぶまとめて火にくべること。爪痕でも歯型でもなんだっていい。この世に私が生きたあかしを刻みたかった。それ以上に骨の髄から湧く衝動を消化したかった。身体は正直だから。手はあらゆる素材をなにか意味のある形にしようとするし、目は映るものみんなに意味を与えようとする。私の言葉だって、本当は私の芸術artを語るためにある。

 限られた時間を前にすれば、よけいなことは消えてなくなる。私は私をくまなく吐き出して、空っぽになって死ぬ。誰かが見ていてくれたらもっといい。


 無意識のうちに脚は私を中庭へと運んでいた。人々の憩う場所は散らばった思考に糸口を与えてくれる。自然の風は胸の中をきれいにさらっていく。

 ベンチにブレザーを着た少女の姿がある。右手に包帯。泣いているのか、うつむいて表情が見えない。気になる人には積極的に話しかけると決めていた。他者は常にひらめきの源泉だから。そっと、そばへ寄って声をかける。

 少女が顔を上げる。頬が濡れていた。重力が描いたであろう筋は美しかった。

「悲しいことでも? 私でよければ聞かせてくれません? ほら、お互い名前も知らないしただ話してすっきりするにはちょうどいいでしょ」

「たいしたことじゃないんです。部活で楽器やってて、使い過ぎで手を痛めて。弾けないからどうしようってだけで」

「芸術家なのね。すてき」

「そんな大層なものでは」

「私、表現しようって志に貴賤はないと思う」

「もうやめますし」

「なぜ?」

「向いていないかなって」

「焦らなくても。今はいろんなものを見聞きして、世界を広げる時間だと思えばいいんですよ。きっと芸の肥やしになるから。また治ったら新鮮な気持ちで向き合えるんじゃないかな。芸術は光で、道しるべだよ。大事にして」

 話しながらレースを編む。花を連ねた小さな栞。

「あげる。元気出してね」

 唖然としている少女を置いて立ち去る。若く未来あることの輝かしさは私には少々きつい。でも、私なんかの力で光の方へ彼女の背中を押せたなら嬉しい。

 たぶん彼女が本当の意味で深淵を覗きにくることはない。生きるか死ぬかの瀬戸際で、血を流しながら表現をすることはない。だからきれいなところだけを掬って日常を健やかに過ごしてくれたらいい。芸術という昏く魅力的で不定形な存在にからめとられた私は逃れようがなく、醜いはずの吐露の昇華を試みる。終止符periodの位置が決められているのは限りない救いだ。深い闇に飲まれ切る前に、きっと死が私を迎えに来てくれる。

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