紅子二十一歳のダークサイド

 後ろから白杖が地面を叩く音が近づいてくる。粟立つ肌を指で宥めながら振り向けば、青年がゆっくりと歩いていた。やっと息をつく。


 度なしの眼鏡を指で押し上げる。カールをつけもしない睫毛やサイズひとつ大きめで野暮ったいタイトスカート、黒のパンプスを引きずって歩くのだって擬態だ。街ゆく人の誰も注目しない、背景としての人物。

 それでも白杖の音が怖いのは変わらない。あたしの罪ゆえの、罪を自覚するがゆえの恐怖だった。良心なんてあったのね、と自嘲したって仕方ない。かつての過ちはあたしを縛りあたしは退屈の泥の中へ沈む。それがたぶん、罰だから。


 北川風香きたがわふうかは戦友だった。あたしに翼をくれた人。一緒に世界を作ってくれた人。でもぜんぶもう過去のものだ。


 あたしはあの頃、光の中で歌っていた。歌手、上村紅子かみむらこうこことあたしと芸術監督の風香によるユニット『ハゴロモ』のコンセプトは、風香が発案した。圧倒的な可愛らしさに匂わせる深そうな背景。パステルカラーのふんわりしたドレスにお菓子やお花をモチーフにしたセットや小道具。

 面白いように売れた。狙った通りの感想や考察がインターネット上に溢れた。かわいい、だけど芸術的artistic。歌詞に裏の意味すら見つけ出して、あたしたちが公表するまでもなく囁き合ってくれた。

 幸運ではあったのだと思う。あまりにも簡単に、あたしたちは世の中でいちばん明るいスポットライトの下に躍り出た。テレビ、雑誌、コマーシャル。


 だけどあたしたちには見えてしまっていた。登りつめたら落ちるしかない。限りない栄光の隣には闇に満たされた深淵が口を開けている。変わり続けなくてはだめになってしまう。たとえこのままで生活に足るだけの稼ぎが得られても、死んだ歌には興味がない。


 あたしたちは火を放った。今までの活動を何もかも破壊する作品を発表した。

紅子こうこ二十一歳のダークサイド』はあたしたちを、あたしたちの信奉者を貶めるモノだった。タイトルはデビュー当時の年齢。かわいらしさもちょっとした主張もやさしさも、みんな嘘っぱちで計算尽くだった。思った通りに踊らされる人々を薄暗い喜びとともに眺めていた。

 自白は混沌を生んだ。批判、誹謗中傷、殺害予告。はたまた絶賛、擁護、重たいファンレター。

 それらは予期したよりも面白くなかった。生まれ変わりきれずにゾンビにでもなった気分だった。あたらしいあたしたちを、人々はまっすぐに見てはくれなかった。


「もう、やめようよ」

 風香の部屋で浴びるように酒を飲んだ。アルコールよりも言葉に酔って、ばらばらと取り留めもなく喋った。普通に暮らしてみたい。働いて、恋なんかしてみて、いつか結婚するのを夢見るような生き方をしてみたい。そんなことを言った。

 風香は笑って肯定してくれた。紅子のやってみたいことは何であれ応援するよ、きっとうまくいくよ。

 受容されるのは嬉しいはずなのに納得できなかった。この人の才能が熱量が愛が、だれか他の人に向く可能性に至ったとき、それが許せなくなった。


 夜は更けて、風香はひどく泥酔していた。記憶が侵されているのか同じことばかり言う。あたしを褒める言葉ばかり。くすぐったくて、甘ったるい。狭いトイレで嘔吐しては、支えきれない身体を引きずってなお笑う。その肉の薄い背中を片手で擦りながら冷えていく指を握った。風香はおかしい。かぎりなく昏い淵をちらちらと見せながら、どうしてこうも人の良さを滲ませられるのか。翳りのない顔で人を褒めちぎるのか。


「あたしと心中してよ」


 たしなめられると思った。なのに風香はふらふらと立って薬品庫の前にしゃがみ込んだ。初期から衣装は自ら染めていた。そのための薬品を入れている銀色の戸棚。汚れた手を気にもせずに勢いよく開く。

「毒ならいくらでもあるよ。どうやって死にたい?」

「苦しまないで、かな」

「自死はみんな苦しいよ。醜いよ。それでも?」

「……ごめん、ごめんね。嘘だよ」

 その場に崩れて眠ってしまって、どこまで覚えていることやら。風香の深い呼吸をじっと見ていたらあまりの無防備さに指がうずいた。


 あたしより一回り以上大きな手をそっと取る。手前にあった薬品の中で知っているのはメタノールだけだった。メチルアルコール、目散る、あるこーる。色彩を命とする風香にはあまりに酷な毒。

 試しに手を触れさせてみると、ゆるりと瓶を握った。もう片方の手を添えさせて蓋をあける。


 手近にあったグラスにほんのすこしだけ注いだ。私の手は瓶に触れないように。


 開きっぱなしだった薬品庫に瓶をおさめる。膝で蹴って扉を閉める。グラスはただキッチン台に置いてあるだけだ。底に少し水が溜まっているだけに見える。

  風香を起こして布団まで支え歩いた。よれたシーツに横たえる。顔は蒼ざめていても穏やか。規則正しく胸が上下する。


 ミネラルウォーターをときどき与えながら夜明けを迎えた。明るんでいく窓の外。電気を消してカーテンを開く。風香は瞼をふるわせて目を覚ました。

「始発だから帰る」

「ん……ぅ、気をつけてね」

「お大事に。ちゃんと水飲みなよ」

「はぁい」

 怠そうではあったけれど、もう意識ははっきりしているみたいだった。靴を突っかけて部屋を後にする。アパートの鉄扉は重たい音とともに閉まった。


 警察から任意で事情を聞かれることとなり、あたしは風香があれを飲んだと知った。命こそ助かったけれど失明したってことも。普段ならばグラスを洗わずに飲み物を注ぐような性格ではない。むしろ飲み会の席でドリンクを置いたまま席を立つこともしないような人だった。

 ひょっとしたら知っていて口にしたのかもしれない。あたしの大雑把な悪意に気づいていて。


 毒を仕込んだことは立証されなかった。あたしも隠しおおせた。だけど、あの日からずっと白杖の音が怖い。


 駅前でストリートミュージシャンがギターを抱えて歌っていた。当たり障りない歌詞、つまらない旋律。楽しいのだろうか、あれで。なにか歌ってやろうと思った。だけど声は出なかった。もうあたしはアーティストなんかじゃない。おびえて、隠れて生きるだけの人間だ。


 風香。もしもあたしがあの時やめようって言わなかったら、あなたは次に何を考えてくれたの?

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