ハゴロモ

 上村紅子かみむらこうこはかつての友人であり、同時に私の青春の名である。真っ赤に染めたゆるく波打つ髪もスレンダーな体つきも網膜に焼き付いたままだ。耳はときどき気まぐれに力強い歌声を再生する。ちなみにスリーサイズも覚えてはいるが、これが役に立つ日はもう来ない。


 紅子の髪に花やリボンを飾るとき、いつもかすかに甘い香りがしていた。小作りの顔にメイクを乗せるとき、触れる肌のきめ細やかさに気づいていた。きゅっとくびれたウェストにぴったり沿う衣装を縫っているとき、たまにお人形のサイズなんじゃないかと思った。

『ハゴロモ』は私たちのプロジェクト名だった。同時に初めて世に出した曲の名前だった。活動を始めた当時、紅子は二十一歳。大学を出たての私とまだ学生だった彼女はアルバイト先で出会った。手を組んだのはいくつもの偶然の重なりで、私はいまだに運命を信じている。


 生命感の薄い女の子、ふんわりと可愛らしいセットと衣装。シュールにして甘やかな歌詞、軽やかに奏でられる複雑なメロディライン。ネットの海で紅子は瞬く間に光を浴びた。『ハゴロモ』を語るとき人々は芸術artという言葉を好んで使った。裏があるように見えるっていうのは大事なことだ。ひとは自分で読み解いたものを自慢したがるから。普通の人にも目に付くように違和感を配置してあげる。


 かわいいだけの女の子とは違うよね。一見ふんわりしてるけど、明文化できない毒があるよね。


 計算されたテイストが視聴者の言葉で返ってくる。そのたびに私はたとえがたい快感に身を震わせた。西洋において、かつて絵画は聖書と同義だった。言葉のない芸術に物語をまとわせるなんて王道中の王道。ときに美術的演出は歌詞以上に強く主張を帯びていた。


 ファンであるところの彼らは上村紅子を礼賛した。容姿を、歌声を。彼女の陰で私はずっと仄暗い世界を編んでいた。私こと北川風香きたがわふうかの名は誰も呼びやしなかった。ありがたいことに。

 生み出されるのは蝶々、リボン、お花。パステルカラーのドレス、ぽってりとしたエナメルのパンプス。キャンディ、フリル、ジャムで飾ったクッキー。淡い恋を帯びた幼い語彙、単純な接続。長くならない文章。ときに意味のない繰り返し。裾を効果的にひらつかせるダンス。

 紅子のきれいな顔は大衆に視線を向けられることでさらに磨きがかかっていった。絶え間ないダンスレッスンは華奢な脚にしなやかな筋肉をまとわせた。彼女は完成されていた。私は恍惚のなかで、彼女に注がれる神の愛を幻視した。


 三年が経ち、音楽雑誌はもとより一般的なテレビやラジオにも取り上げられるようになった。一方で私たちは飽きと限界について考えるようになっていた。このままのキャラクターでも生きていくことは出来そうだった。地獄の底までついてきそうなファンならいっぱいいたから。紅子のことを天使か妖精と勘違いしているような可哀想な人たち。

 それより私たちのほうでマンネリを覚えはじめているのが問題だった。実験としても、一連の成功談としても終わりが見えてきていた。似たようなフレーズ、似たような衣装。ぐるぐる同じところを巡っていることはわかっていた。


「自爆しちゃおっか」

 言いはじめたのはどちらからだろう。私は一度も使ったことのない黒と赤のチュールを手に取った。フェイクレザーも、ぎらつくスパンコールも。


 最後と覚悟して発表した『紅子二十一歳のダークサイド』は鮮やかに燃えた。この曲は裏切りであり告発だった。鋭く、暗く、過去にわたって嘘と虚飾を暴く歌だった。私たちの作品を貶めることで間接的に、私たちを誉めそやしていた声をあざ笑い無知をあげつらう。ガソリン撒いて火をつけるに等しい行為だってことをわかっていて、悪魔のような衣装に彼女は袖を通した。いつもより低い声で歌った。

 上村紅子の名はもう記録にしか残っていない。炎の中で生まれ変われたなら、また新しい景色に出会えるよと言い合っていたのに。叩かれて、あるいは称賛されて、ぐちゃぐちゃに飛び交う言葉の中で、彼女のどこかが切れてしまった。

 彼女は行方をくらませた。みんな彼女を忘れた。あれはいっときの夢だったのだ。


 では私は何も知らないかといえばそうではない。

 彼女は最後の夜を私と過ごした。月のきれいな晩だった。酒を山ほど買ってきて、私の部屋であれこれ喋った。二人してぐでんぐでんに酔った。紅子にしては珍しいことだ。彼女は普通に生きてみたいと言った。無理だと思うとも。顔を変えようかな、とか、就職してみたいな、とかも。

 私はいっさいを否定しなかった。行きたい道があるのなら、選ぶ権利は誰にでもある。紅子は美しく、才能があり、聡明だった。私の手を放して咲く花もきっとある。


 その後の記憶はあいまいに溶けて終わっている。何度か吐いたのは覚えているので、翌日の具合の悪さもひどい二日酔いだと思っていた。たまたま妹が訪ねてきて救急車を呼ばなかったら今頃は墓の下だ。

 どさくさに紛れてメチルアルコールを口にしたらしい。布地を染めるための助剤のひとつとして、薬品庫に入れてあったものだ。ふざけて飲んだのか、そのときの私が死にたかったのか、あるいは彼女が一服盛ったのかには興味がない。毒は私の網膜を焼き、光を奪っていった。私が生きるすべとして頼っていた色彩は、形は、模様は永遠に失われた。


 年の離れた妹は激しく紅子を憎んだ。証拠もないのに。でも純真な子どもだった妹が声を荒げるのは面白かった。おとなになっていく過程では、誰かを強く憎悪しなければいけないのかもしれない。私にも覚えがある。

 あの手この手で紅子を恨むように仕向けてくる妹はもしかして、かつての私と同じ顔をしているのだろうか。確かめるすべはもうないけれど。視覚を塞がれた世界は奥ゆかしく謎に満ちている。それでいて触れれば生々しい。音は立体として知覚され、ふだんはかたちをもたない世界に一瞬の造形をあらわす。

 期せずして私は違う景色の中にいる。そっと足を踏み出せば、私の下にだけ確かな現実が作られる。耳を澄ませば壁の向こうのことだって思い描ける。私の指は前にもまして鋭い感覚器になった。


 紅子は今どこで何をしているだろう?

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