Blue-black
九月の昼の進路指導室は、そのものが罰のように暑かった。それでもブラウスのボタンひとつ外さないのは、わたしが真面目であることの証左だ。禿げた額をハンカチで拭き拭き、中年の男教師が現れる。ぎょっとした顔はわたしの無表情にか室温にか。
「どうした、窓も開けないで」
外の風が入れば堪え難さも薄れて、椅子の上で小さく居ずまいを正す。
「
「わたしはわたしの表現に誇りを持って、何を恥じることもありません。先生」
先生は苦い顏をしている。
「わかっているだろうが、今度こそ退部だ。いいのか」
「致し方ないと思ってます」
「そうか。書類を持ってくるから待っていなさい」
最後にわたしの手に残ったのは一枚の紙。
『二年五組十番、北川
自業自得、と言ってしまえばそれまでだけど。つまり学校にわたしの居場所なんて残っていない。でも大丈夫。学校の本来の目的なんて勉強だけだ。
部室から私物を引き上げていると、
「星歌、ついに退部だって?」
「そうよ。いずれ辿り着くべき結末だったでしょ」
「そりゃあね。だって書くものぜんぶえげつないんだもん。三回に一回は主人公が毒殺されてるし」
「わたしは姉のことしか書かないから」
日向子は小さく首を振るにとどめた。他人の家の事情には踏み込まないのも彼女の美徳のひとつと言えよう。
「傷つけられたら怒っていいって気づいてほしかったんだけど、もういいかな。書く場所もないし姉もちっとも自分のことと思ってないふうだし」
「なら、うちくる? ちょうど活動再開したよ」
「美術部? なんでよ」
「きみが寂しがりなのを知っているから。
その名に思い当たって息が止まった。
「那月って、
「まだ毎週カウンセリングに呼ばれるって嘆いてる。気丈って言ってしまうと綺麗すぎて好かないけど、表面的には元気そう」
美術部員のひとりが初夏に自死を遂げた。西尾那月はその生徒と付き合っていたという噂だった。夏休みが明けて美術部の活動停止は解けたものの、影が消えたわけもない。
「まぁさ、気晴らししたくなったらいつでもおいでよ。難しく考えないで」
日向子はひらりと去っていく。
***
「みんなはどんなの描いてるの」
結局二週間もおかず美術部に顔を出してしまった。あくまで空気は和やかで、本当に
「みんな好きなの書いてるよ。水彩でもデッサンでも」
「表面を立体的にできたりもする?」
「どんな風にしたいの。半立体レベルなら粘土とか使わないとだし、ちょっとでいいなら絵具だけでも」
「触ってわかる感じがいいんだけど」
「だとするとアクリル絵具にメディウム入れるのが良いかな。モデリングペーストとか。色々あるから試してみたら」
「ぜんぜん頭に入ってこない。専門用語こわい」
「しょうがないな。私が使ってるやつ貸してあげるから、気に入ったのメモして買ってきなさい」
日向子の呆れ方は好きだ。とても優しく突き放してくれる。
美術部の子たちは新参者かつ素人のわたしにも良くしてくれた。困っていれば気づいて声をかけてくれるし、乞えば感想までもらえる。文化祭の展示に誘われて、はじめてB2のパネルを買った。周囲で広げられている巨大な画面に比べれば小さいけれど、わたしにとっては未知でしかない。
姉はわたしの変化に
「なにかいいことあったでしょ」
「文芸部を退部になったくらいかな」
「またあの病んだ話を部誌に載せようとしたの?」
「お姉ちゃんだって面白いって言ってくれたじゃん」
「掲載場所は考えないと。どう考えても学校は喜ばないよ。あれ」
「わたしは好きなの。ねぇご飯落してる」
テーブルの上を探る手はいつまでも目的のものにたどり着かない。かわりに拾って、握らせる。美術大学を出た姉は、とある歌手の衣装やセットを手掛けていた。けれど絶妙なバランス感覚で色を合わせていた目はもう光を映していない。歌手が姿を消すと同時に起きた事故――そんなわけあるか。あいつが姉にメチルアルコールを飲ませたに決まっている。蝶の顔した毒蛾。
なのに姉は疑うそぶりも見せないのだ。自分が酔って間違えたんじゃないのって。いくら記憶をなくすまで飲んだって、わざわざ薬品庫からそれだけ取るわけがないのに。警察は一応調べてくれたが、証拠は出なかった。
「いいこと、ね。わたし美術部に入ったよ。文化祭にも出すんだ。お姉ちゃんも見に来てよ」
「作者の解説つき?」
「いらないよ。触ってくれれば」
「おー、いわゆるハンズオン展示? たのしみだなぁ」
以前ならありえないほどの穏やかさ。あの烈しさを見ることはもうないのだろうか。
***
姉を連れて自分の絵の前に立つ。美術であれば姉の方が専門だったのだから恥ずかしさはあるけれど。
「アルファベットで『Blue-black』サイズはB2。パネルに直描きでアクリル。色はタイトル通り深い青と黒。ちょっとだけ銀。素人仕事だけど」
「イメージつくよ。星歌ちゃんの色だ。宇宙みたいな」
あまり嬉しそうなので、画面に触れさせるのに躊躇が生じる。だって、これは姉にしか作動しない爆弾だから。
「触るね」
全体を軽くなぞった姉が眉をひそめた。改めて指が左上に戻る。
「点字でしょ。劇作家のインクに毒。で、死ぬ。懲りないのね、また退部になるんじゃない」
「どうせだれも読めない。写真にはうつらないし、お姉ちゃん以外には触らせないし」
姉の手がわたしの肘に触れ、二の腕から肩をなぞり頭部をとらえる。耳に口を寄せられた。
「いいかげんにしなよ。たとえあの子が犯人だったとして、刑事罰や復讐がなにかを生むの? 人間は未来にしか進めないんだよ。あんたも前だけ見てなさい。若い時間は有限なんだから」
銀のナイフを首筋にあてられたような。ひそやかな声が心臓をすくませる。わたしが見たかった姉はこれだ。触れれば切れる鋭さの姉だ。鳥肌の立つ腕で自分を抱く。姉はゆるりとわたしから離れ、再び穏やかに笑んだ。
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