不完全なポートフォリオ

夏野けい

ランドスケープNo.9

 高校生は喪服を着ない。だから私たちが通夜の帰りであることは紺のプリーツスカートから匂う線香だけが証明している。最終下校時刻が迫る美術室には二人きりだ。夏至が近いとはいえ日は大きく傾き、先生に見つからないように電気を点けないままの部屋は薄暗く沈んでいる。彼の死は周囲への衝撃と美術部の活動停止をもたらした。

「ねぇ、本気?」

 那月なつきは彼の遺作を前に座っている。手には布。黒い油絵具でべたべたになっている。全国コンテストで最優秀賞を取ったはずの作品には、真の闇というべき黒が塗りこまれている。彼、東条黎人とうじょうれいとが最後に登校した一昨日には綺麗な画面だったはずだ。すなわち彼の死に前後して作品は侵された。

「本気だよ。明日になったらもっと乾いちゃう。いまなら下がどうなってるかわかるかも。黎人が何を隠したかったのか」

「黎人君がやったとは限らないじゃない。だれかの嫌がらせかも……だって、あんなことが」

 続きを口にするのは憚られた。


『ランドスケープNo.9』

 晴天のオフィス街の風景画。雲の大らかな流れや窓の反射や濃く大胆な陰影が爽やかな油彩だ。発表は一ヶ月以上前だったし、提出となれば春まで遡る。だからこそ絵具は乾ききっているとみて那月は発掘を試みるのだろう。

 東条黎人は夏のコンクールに向けた作品にほとんど手をつけないまま逝った。小品や習作を除けばこれが最後の絵だ。


(ちょっと、これさ)

 公開された絵は匿名のだれかの声をきっかけに燃えた。叩かれに叩かれた主催者は黙ったまま公式ホームページから画像を削除した。


 画面右手のビルの屋上に、黒い影がある。直線の多い構成の中で有機的なかたちをとるそれは人の姿に見えた。

 自殺を助長するだの、この少年の心の叫びだの、無責任に騒ぎたてる人たちはきっと自分の正義を振りかざすのが気持ち良かったのだろう。確実に存在する人間としての作者を想像することさえせずに。

 話題として飽きられるのは早かったけれど彼の名前と騒動は紐付けられて、今もインターネットの海を漂っている。


 彼が暗い感情にこだわりがあったとは思わない。那月と無邪気な交際をしたり、合宿で花火を両手に持って走ったり、明るく健やかな印象は常にあった。


 でも、今となってはわからない。

 ちょうど囁かれたような形で彼は死を選んだ。真昼の屋上からつかの間の飛翔を経て、人のかたちを失った。

 その理由を私が明確に知ることはないはずだ。那月ならともかく、ただ部活が同じだけだった私に遺言を用意する謂れはない。ただ可能性に満ちていたはずの将来を惜しみ、何故という問いを胸に収めたまま生きる。いつかは記憶も少し埃をかぶって痛みも鈍くなるだろう。


 那月は一心不乱に絵具を拭う。一部に元の青さが戻ってきている。画面右手、問題の箇所の周囲を重点的に掘ると決めたらしい。


 急に手が止まった。布を手放しそっと、指の腹で黒をこそげる。那月は潤んでいた目からついに涙を落とした。厚い絵具の層をパレットナイフで抉った痕がある。まさにあの、矢を向けられた場所だ。影が佇んでいた屋上はカンヴァスの布目も露わに空白となっていた。汚れてはいるけれど、そこに何も描かれていないことはわかる。

 那月は目を見開いて自分の手元に視線を落とす。震える指が黒い塊の中から紙片のようなものを広げた。

 ノートの切れ端と思われた。雨漏りのようだった涙がとめどない流れになる。


「那月」


 呼べばぐちゃぐちゃに汚れた手をこちらに開いた。筆跡は彼のものだ。紛れもなく。

 ただ一言だけ走り書きされている。


“ごめん”


 答えになんてならないよ、これでは。唇を噛む。那月は腕で顔を擦った。頰に黒い線がついた。


「黎人はバカだよ。生きてたらなんどでも言うのに。人の表現に文句をつけるやつなんてバカだって」

「この絵のこと、やっぱ気に病んでたんだ……だよね。あたりまえ、か」

「前に、ずっと前に言ってたんだ。表現はどんどん規制されて、自由じゃなくなって、この先もっと息苦しくなるって。そんな世の中で生きていかなきゃならないなんて絶望的だって」


 なに言ったって届かなかった。きっと響いてなかった。たとえ屋上で声をかけられたとしても、自分には止められなかった。那月は泣きながら歯を見せて笑った。片方の拳を固く握りながらもう一方の手でそっとカンヴァスの縁を撫でた。

 感情に正答など無くて、彼の死は言葉で説明しきれない。だから私たちは声にならない思いを筆に乗せるのに。


 子どもに穢れがないなんてだれが言うのだろう。法律では定められていなくても、私たちが公に表現できるものは限られている。健全な育成のためと謳って取り上げられたモチーフがいくつあるだろう。

 性、死、血、憎しみ。そんなの、生きていれば勝手に湧いてしまうのでない?


 息がしたくて絵筆をとるのに、世界はあまりに狭量で。結局はだれも傷つけないを最善として毒にも薬にもならないものがひろく歓迎される。

 汚くて醜くて馬鹿馬鹿しくて自己中心的な個人なんてお呼びでないのだ。


 彼は屋上で自らに問うただろうか。

 生きるか死ぬか。生きるなら何を希望とするのか。那月も彼も、たぶん言葉を扱うのは上手くない。描くことに迷いを生じてからは澱ばかりが溜まってしまっていたのかもしれない。

 痛みも苦しみも思考も、他者とは決して分かち合えない。だから私の肌をかすめる落下の感覚やつい考えてしまう死の理由は幻に過ぎない。


 でも彼の名を思う時、真っ青な空と強い風、コンクリートの床が浮かぶ。具体的にどこで死んだかも知らないのに。


 私たちをこんなにも揺さぶって彼はもう消えてしまった。彼は永遠に若く才能と希望を輝かせたままだ。たとえ貶める声が残っていても、惜しまれるべき存在なのは明白である。私は思い出したように那月の肩を抱いた。ブラウスの胸が温かく濡れていく。

 東条黎人。私は君が少しだけ、ほんのすこしだけ羨ましい。

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