糸を引く
一二三みやび
糸を引く
「君も秘書になって長い。そろそろ次の仕事を覚えてもらおうと思う」
先輩秘書に呼ばれ、おっかなびっくり後をついて秘書室に向かったら、唐突にそんなこと言われた。
机の向こう側、私の目の前では、温和な印象ながらもどこか鋭さを、ピシッとした紺のスーツと一緒に纏った老齢の男がソファーに座っている。
その男の言葉に、ほっと胸をなで下ろす。怒られるのかと思っていたのだ。
政治家の秘書、という職について四年。もう還暦近いだろうこの先輩の下で、事務作業から先生のスケジュール管理までみっちり教えこまれ、今では出来ない仕事はなくなったと自負していたが、どうやら私はまだまだ若輩者であったらしい。
大きな姿見と、小さなテレビ、長机、あとはソファー位しかない部屋で、私たちは向き合って座っていた。
「それで、新しい仕事というのは」
さっそく、という風に私は切り出す。新しい仕事を任されるのが、我ながら存外に嬉しいらしい。
先輩はふむ、と一度頷いてから「糸引きだ」と言った。
「はい?」
あまりに自然に発せられたその言葉に、私は疑問符を飛ばす。
「だから、糸引き」
「糸、引き」
あまりにも突飛なその言葉に、口をぱくぱくとさせてその言葉を繰り返すしかなかった。そんな私に構うことなく、先輩は話を進める。
「裏で糸を引く、というだろう? あれは実は、比喩でもなんでもないのだよ」
「は、はあ……」
説明をうけても、どうにもうまく飲み込めず、私はどっちつかずの返事を返す。
正直、なにを言っているのだろうかこの人は、という気持ちの方が強い。
「信じられないのは解る。ワシだってそうだった。だがね、事実なのだよ」
そう言って先輩は机の上のリモコンをとり、テレビをつける。国営放送が議会の様子を中継していた。加えてタイミングのいいことに、ちょうどうちの先生が答弁中だった。
「先生が、写ってますね」
毎日見ている光景である。別段変わったこともない。
けれど、先輩はそれを見ながら、
「ふむ。ではこれから、糸を引いて見せよう」
と言った。
「いえ、ですから」
からかわれているのだ、と思った。私はイラつきを隠しきれず、声を荒げそうになって、
「いいか──先生はこれから演台を叩く」
先輩の静かな宣言で、それを遮られた。
同時。テレビの中からばあん、と音が響く。そちらに私は思わず視線を向けた。
偶然? いや、これは──。
「さあ次だ」
その言葉に、思考が止まりかけていた私は、先輩の方を向き直る。
「先生は大きく頷き、腕を組む」
先輩はそう言って、左手をかかげて、人差し指をくいっと曲げて見せた。
画面を見る。言うとおりに先生が動く。
「な」
言葉を失う私をよそに、先輩は続ける。
右手を振った。先生が叫んだ。両手の中指を曲げた。先生が水を飲んだ。先輩が拍手した。先生がお辞儀をした。
私は画面と先輩の動きを、まるでテニスのラリーをみるかの如く交互に見遣る。
先輩の手が動いて、先生が行動する。それも、事前に先輩が言った通りに。
なんだこれは。正直、恐怖すら覚えている。もはや理解の埒外だ。
何が起こっているのか解らない。理解が全く追いつかない。しかし、ただ一つだけ確かなことがあった。
──糸だ。
最初はまったく気づかなかったが、よくよく見ると先輩の指に細い細い糸が巻き付いて、垂れている。それが彼の指の動きに合わせて動いていた。気づけば、私はそれをひたすら目で追っていた。
「ふう」と息をつく「こんなものかな」
先輩の言葉に反応して、我に返る。テレビを見ると、先生は自分の席に戻っていた。
「い、今のは」
ようやく疑問を絞り出す。のどがぺったりと張り付いてしまったようで、ひどくかすれた声だった。
けれど、どうしてか妙に心臓が高鳴っている。
「そう、裏で糸を引く、という、君が覚える新しい仕事だ。さあ、よおく先生の周りを見てみなさい」
私は言われたとおり、テレビに目を凝らす。
すると、なんということだろう、ちらちらきらきらと、先生の周りに糸のようなものが見える。それだけじゃない、テレビの中で喧々諤々と議論を交わす政治家の皆さんの周りに、たくさんの糸。
糸。糸、糸、糸糸糸糸糸糸糸。
議事堂の中はさながら、蜘蛛の群れの中。巨大な巣の様相だった。
「せ、先輩、これ」
「良かった、見えたな。それが『裏糸』だ。政治家という職業は特殊でな、皆、誰かに糸を引かれてあそこに立っている」
「……もしかして」
私は、四年前の出来事を思い出す。はじめてこの場所を訪れた時だ。奇しくも同じこの部屋で、目の前に座っていたのも、この男だった。
「採用面接の時、妙に視力について聞かれたのは」
人よりかなり目がいいのが自慢です、と答えたのを覚えている。
その疑問に、先輩はそのとおり、と答えて。
「糸が見えなければどうにもならんからな。大事な資質だ」
かくいうワシも老眼でな、年々きつくなってきたわ、と。笑い飛ばす先輩。
にわかには信じられないような出来事だったけれど、目の前で実際に起きてしまった以上、疑うべきは常識の方だ。
「さて、他に何か質問はあるかね」
先輩が神妙な顔で問う。
理屈や背景など、疑問は山ほど浮かんでいる。しかし今それを聞いたところで、私の頭はそれを飲み込めはしないだろうし、説明をもらえるとも限らない。だから私は少しだけ悩んで、一つだけ聞くことにした。
「──それではつまり、政治家の失言や失態というのは」
私の言葉が予想外だったのか、先輩は少し目を見開いて、それからにい、と口の端を歪め、
「ふむ。大方、秘書が糸引きを失敗したんだろう。だから皆言うだろう、すべては秘書のやったこと、と」
そう言って、それから先輩は呵々大笑する。
その姿に、私は全てに納得していた。
なんという説得力だろうか。
あれはその場しのぎの言い訳じゃなかったのか、と私は妙に納得してしまった。同時に決めた。信じよう、と。これが私の仕事のなのだ、と。
だから宣言しよう。
心臓の高鳴りと共に。私の目指す、未来の姿を。
そうして、
「私──裏で糸を引く立派な秘書になります!」
私は、今までの常識の中では、おそらく最悪の発言ととられかねない宣誓を叫んでいた。
その言葉に、満足したように先輩は頷いて。
「よろしい。では今日から君には、この糸を引く練習をしてもらう。手始めに今ワシの指に巻き付いておる先生の裏糸が、何本あるか見極めてもらおうか」
そう言って、先輩は左手を差し出した。早速練習がはじまるのか、と私はいまだ完全には理解できていない話を飲みこみ、糸に目をこらした。
じわりじわり、と糸の像がはっきりとしてくる。思った以上に数が多い。これをすべて把握して、動きと連動させて……。考えるだけで頭が痛くなる。先輩はこともなさげにやっていたが、それがとんでもない所業であったことは解った。
なんてことだ。
私は未熟者どころか、秘書業の入り口にすら立っていなかったのだ。
無力感と充実間の狭間で、私は必死で糸を数えた。
数えて。
ひたすら数えて。
そうして。
私は、はた、と気付いた。
「あれ、先輩」私は疑問符を飛ばす「変なところから糸出てませんか? とても細いですが、肩甲骨あたりから」
「なんだと?」首をおおきく捩じるようにして、先輩は背中側を見遣る「わしには見えんが……」
「いえでも」
私には、確かに見えていた。
「これですよ、これ」
私は言いながらソファーから腰を浮かせて、先生の糸だというソレよりも細い、かすかに見えるその線をつまむ。
そして。
「お」
「あ」
プツン、と。
先輩の声と、私の声と、糸が切れたような音がしたのは、殆ど同時だった。
少し遅れて先輩がソファーにカクンと倒れこんだ。
「──え?」
先輩は、動かない。喋りもしない。
虚ろな目でどこか中空を見たまま、ソファーに体重を預けている。
「せ、せんぱ」
手を伸ばそうとしたところに、叫び声が聞こえた。テレビの方だった。
視線を遣った画面の向こうでは、机に突っ伏した先生を数人が助けおこそうと騒いでいる。
警備員や常駐の医療スタッフらしき人達も集まっていた。
その、全員に。
政治家でない者全員の体のどこかに。
なにか、きらめくものが繋がっているように、見えて。
「っつ」
その光景に、私はテレビから目をそらし、声にならない悲鳴をあげ、ソファーに座り込む。
腰が抜けてしまっていた。力が入らない。
いや、待て。腰が抜けた? 本当に?
だってこれは、まるっきりあの二人と同じじゃないか。
まるで、これは、糸の切れた、人形みたいに。
そうして、私は一つの可能性に思い至った。
「まさか」
あまりにも突飛なその可能性を否定しようと、部屋にあるはずの大きな姿見を探して首を回す。よかった、まだ動く。妙な安堵と不安が、同時に私を襲う。あった、鏡だ。
心臓が高鳴っている。
先ほどまでの高揚とは違う。
耳から飛び出てしまいそうなくらい大きな鼓動。
呼吸が荒くなる。冷汗が伝うのがわかる。
だって、もう戻れない。
こんなことを知ってしまったら、もう。
日常には、戻れない。
永遠に続きそうな一瞬の後、私は姿見に完全に視線を向けて。
おそるおそる覗き込んで、焦点を合わせて──すべてを悟る。
そこには。
私の青ざめた顔と、その真っ青なおでこに張り付く細い糸が、映っていた。
糸を引く 一二三みやび @UTATANE_miyabi
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