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養川院の鷹図 上への応援コメント
狩野派は足利幕府の頃から江戸時代にかけて400年にわたる歴史を歩んだ絵師集団として日本絵画史上でも有名ですよね。特に二条城の二の丸御殿には狩野探幽率いる絵師によって1000面を超える障壁画が描かれ重要文化財にも指定されていますし、優れた作品を多く後世に残していますね。
狩野惟信については江戸城障壁画や京都御所の絵事を手がけているようですね。
素晴らしい絵画への思いを込めた歴史小説をありがとうございます。
カクヨムコンもはじまり、マイページがちょっと大変なことになったりもしていて、遅くなりましたが、取り急ぎコメント致します。
作者からの返信
中澤樣
完結させていない文章を公開し続けることには賛否ある中にも、拙文ご笑覧下さいまして唯々恐縮しております。
ある編纂物を読んでおりましたら面白い逸話を見付けまして、これを基に語彙世界を展開しようと思ったは良いものの、何時も乍ら書きたい語彙を使ったシーンだけ先に書いてしまってそれを整合的に一つのストーリー(書き手の多くはこちらにこそ心を砕くのでしょうね)に収斂させることに永らく難渋しております。折柄の世情、また私自身の怠惰も相俟って考証→執筆とも捗っているとは言い難いのですが、考証の方は『桜梅草子』の脱稿と前後して漸く再び動かし始めました。新話を公開する前に、既に公開した分にも若干の修正を要しそうです。「慥かに有り得そうな」嘘をつくことには何の憚りもないとはいえ、矢張り「明らかに史実に反する」嘘は能うる限り取り除きたいもの……ですが、何とも私自身の不勉強で。早くお目に掛けたい語彙や譬喩を盛り込んだシーンが既に幾つかあるというのに、どうしたものでしょうか。
狩野派は日本画壇史における大潮流ですけれど、傑出した先世(先聖)たちはさておき、その後の世襲によって権威化した狩野家への評価には様々あるようです。ただ、2021年上半期の直木賞受賞作、澤田瞳子さんの『星落ちて、なお』では、明治維新後に没落し「旧時代の遺物」的な評価を余儀なくされる狩野家に対して、同家が固守し弟子達に教授し続けた徹底した「粉本主義(手本の忠実な写し)」こそ実はその後の近代画壇で活躍する画家たちの大成の素地を形成したのだということや、そういう毀誉褒貶を度外に置いて狩野家を見た時の、いずれにしても容易には否定し得ない存在としての「大きさ」が、主人公河鍋暁翠(河鍋暁斎の娘)の述懐によってかなり好意的に示されていたような気がして私はこれをニヤニヤし乍ら大変好もしく読みまして、あわよくば私も同作のような史実と虚構のベストミックスを……などと不遜にも、掴めるはずのない「坂の上の雲」を目覚め乍らの夢に見上げております。
逆にこちらこそ素晴らしい「音楽」への思いを込めた御作『ピアニズム—Life with piano—』を有り難うございました。先週拝読し終えており乍ら、コメントをお送りしようと思いつつ今に果たせておりませんが、何時の間にか何の脈絡もなくコメントが書き込まれていてもどうか驚かれませんようにお願い致します。
カクヨムコン、中澤さんは参加なさるのですね。twitterを拝見しましたが、御新作を楽しみに致しております。
木挽町画塾の夜更け 上への応援コメント
工藤行人様
「末嫩い」は、やはり魅力ある語彙ですね。語彙の共有について優しき御見解をありがとうございました。工藤様の文章には万の言の葉が躍り、圧巻です。時代の変遷の中に姿を無くしてしまった語彙をデジタル上に復刻されている趣き、その美しさに見蕩れてしまいます。手で探ることを「掻き探る」と一般的に書きますが「撈」という漢字を使うことによって、実際に本質を掬うニュアンスが伝わる気がして、しかも美しく感じられます。「欽慕の表地に半ば呆れた色の糸を綯い交ぜたような声」……この比喩、素晴らしいです。
遅れ馳せながら追伸、確かに拝読しました。「鶉」が「うづら」なら、「お恥ずかしい」も「お恥づかしい」にすべきなんでしょうが……このニュアンスで、「それぢゃ」と「それじゃ」も悩ましいです。『絶対安全少年』〇三五頁四行目で目についてしまった事項でした。失礼しましたm(__)m
作者からの返信
宵澤樣
「末嫩い」、お気に召して下すったようで何よりです。来たる「若葉のころ」にぴったりですから、「お拾い上げ」下さる日も近いのでしょうか?(押し売りセールスマン 笑)
「時代の変遷の中に姿を無くしてしまった語彙をデジタル上に復刻されている趣き」、そこまでお汲み取り下さり幸甚の至りです。勿論、徒な懐古趣味の気とて無きにしも非ずですが、とはいえ、それだけでは説明できない何物か(衝動のようなものでしょうか)が私の中にあるようなのです。使命感、などと言ってしまえると聞こえも良く格好いいのでしょうが、それは嘘で、結句、自分が「美しい」と思えた言葉が誰にも知られず埋もれていることに我慢ならないだけなのでしょう。
「欽慕の―」へのお褒めの言葉を頂戴しまして、何時も乍ら大変有り難く存じましたが、まさか「撈る」までお目に留めて下さるとは……。仰る通り「掻き探る」の表記が一般的なのでしょうが、それだと何やら絵画(の模写や下絵)に対する扱いがぞんざいな印象を持ったので、紅葉の「金色夜叉」に散見される「撈る」で充ててみました。「扌=手」で「労」るという方が、芸術品に対するニュアンスとしてしっくりくるような気がしたのです……が、そのような所まで見透かされているとは、改めて畏れ入りました。
それから過去の追記までわざわざ拾って下さって恐縮です。手許の『絶対安全少年』がポプラ文庫版(三三九頁)だからなのか、「〇三五」頁はイラストになっていて……もしやページ数が単行本(二五六頁?)と違うのかな??
何やら、また凛一さんたちに逢いたくなって参りました。それぢゃ、此度はこれにて失礼致します。
養川院の鷹図 上への応援コメント
工藤行人様
『いっそもっと』……御言葉を真に受けて馳せ参じております。単純な脳の私を御容赦くださいませ。
工藤さまの新作を閲覧させて頂きました。絢爛豪華。雅やかな語彙世界に眩暈が……「幽けき」「瞥と」「眴」「漣のように私語く玉砂利」「羽敲く」などなど。とりわけ「鶉」のルビが「うずら」ではなく「うづら」であること。そして「嫩さ」です。鷗外の娘・森茉莉氏のエッセイ『私の美の世界』で「嫩者」という言葉を一瞥した日から好きでして……「嫩い」とは、本当に美しい漢字ですね。
『実際の眼前に広がる風景やモデルの容貌に「充て書き」するような形で書いた比喩表現』……「La grande ville de l'art―芸術の都にて」の創作秘話に納得です。音楽に喩えると近現代のドビュッシー的でした。ドビュッシーは絵画にインスピレーションを得て音を書いたり、詩にインスパイアされて音を書いたり、多様な芸術を糧にした作曲家だったそうで、工藤さまの「充て書き」に通じるものが、あるように感じます。
「木洩れる」は工藤さまの造語でしたか!? 是非、広辞苑に載せましょう。そんな勢いで惹かれた語です。このたび、連載中の拙作に「木洩れる」という表現を是非、使わせて頂きたいのですが、差し支えございませんでしょうか?
そして明治時代の、語彙が柔軟に使われていた時代への憧憬、少なからず私にも同じ憧憬があります故に、工藤さまの文体に、こうして惹き寄せられるのですね。美しいものを追い求めて生きとうございます。世迷言を失礼しましたm(__)m
作者からの返信
宵澤ひいな樣
何だか「おねだり」してしまったような形になってしまい、此方こそお恥ずかしいです……。
「木洩れる」を書いた時、愛用している小学館の『日本国語大辞典』(ニッコク)はじめ、検索したどのネット辞書でも立項されていないようでしたので、今のところは「辞書にない」という意味では新しい派生表現・造語になるのではないかと考えておりますが、すでに管見に入ることなく何方かが使っておられるかも……とうことで、「ぜひお使い下さい」などと偉そうなことは言えませんが、まだまだ語彙としての市民権を得ていないことだけは確実そうですから、「ぜひ使って一緒に広めていきましょう」くらいでご勘弁下さい(笑)
「充て書き」とドビュッシー、何だかすごいお話ですね。昔、美術史学会という学会のシンポジウムでパネリストのお一人が「芸術においてはMeraviglia(メラヴィリア、素晴らしい)こそが第一なのであって、芸術作品はそれを表すための手段に過ぎない、私にとってMeravigliaを表現できるのなら、その形は絵画でも音楽でも、他の何であっても構わない」といった趣旨の発言をされていたことを思い出しました。私はMeravigliaを表すための他の手段を持ち得ないので、一つ文章で試みるしかないわけですが、音楽にも造詣が深く、またご自身もピアノを嗜まれている(という表現で良いのでしょうか)宵澤さんが羨ましいです(先だって拝読したエッセイで知りました)。
あと奇遇ですね、私も「嫩い」という字句は森茉莉の「枯葉の寝床」で知りました。男が、恋人の美少年と並んでシャワーを浴びる描写で「レオは胸を洗いはじめた。肩から腕を擦っているギランの眼がレオの腰に落ちる。コティのムゲの泡にまみれた固い、嫩い果実がそこにある」といった具合に使われていて、実に艶めかしい表現(そして字)だな、などと思っておりました。だから、女偏なのに、なぜか若い、否、嫩い男性に使う字であるような印象が強いのかもしれません。ファーストインプレッションというのは呪縛ですね……。
『私の美の世界』も、いかにも文豪の娘らしい、豊かな文化資本をたっぷり吸収して花開いた美意識が貫く、浮世離れした独特の世界観(そして、ちょっと天然?)が展開されていて、なぜか羨ましく感じたのを覚えています。卵料理のお話など、殊に食べ物や料理についてのお話が面白かったように記憶しております。
そして「鶉」のルビについて。古典文学や古辞書などで用例を集めてみますと「うづら」「うずら」両様が確認でき、「鶉」の語源とされる、彼の鳥の「蹲る」姿も「うづくまる」「うずくまる」の両様あるようですが、現在は「ず」表記の方が「正しい」とされているし、学校ではそう教えられています(そのはずです)。ただ、「蹲る」には、同じ意味の別の語彙として、本文中にも用いております「蹲踞(つくばい)」→「蹲(つくばう)」があり、これとの通音がやはりあるように思われるのです。以下は言語学や日本語学の門外漢の為せるエセ仮説(!)なのですが、まず「うつくまる」の「る」がウ音便化して「うつくまう」となり、次にマミムメモとバビブベボの音が(「淋しい」を「さみしい」「さびしい」両様で読むように)通じているところからして、「うつくまう」の「ま」が「ば」に変化して「うつくばう」になると、あら不思議、「つくばう」の原型「うつくばう」が出来ているではありませんか! で、あとは「う」に消えて貰う(これは無理筋かも知れませんが……)。一方、「うずら」「うずくまる」バージョンの仮説を同じように考えると、生成されるのは「ずくばう」か「すくばう」になるはずで、そんな語彙は今のところ発見されていない。ゆえに「うづら」表記に私は軍配をあげたい、と思った次第なのです。何より「うづくまる」も「つくばう」も、連呼していると何となく同じ音に聞こえて来る……来ませんでしょうか?
ということで、またしても長文になってしまい失礼しました。誤字脱字などあるかもしれません、そちらもご容赦下さいませ。
追伸
「鶉」が「うづら」なら、「お恥ずかしい」も「お恥づかしい」にすべきなんでしょうが、なかなか悩ましいものですね。
養川院の鷹図 上への応援コメント
こんばんは。
私の知らない歴史のことや語彙など、調べながらちょこちょこ読ませていただき、3話まで追いつきました。
「志津や志津〜」の歌は静御前の舞った歌と似ていますね。
先を想像しながら読むのが好きで、たびたび頓珍漢な予想をしてしまうのですが、この歌が今後の伏線になったりするのかな、などと思いながら読ませていただきました。
作者からの返信
釣舟草樣
こんばんは。
twitterでも応援を賜りまして有り難うございます。色々と調べて下さったとのこと大変恐縮です。当拙文は必ずしもメジャーな時代や人物を扱ったものではないことですから、語彙も見慣れない特殊なものが雑じってしまうこと避けられませんで、ただ、かといってそれらに説明や語釈などを別途付すのも何やら野暮であるような気もして、この点どうすべきか今以て逡巡しております。
読者に調べ物をさせてしまう作品には賛否もありましょうが、私自身はといえば、調べ物をしつつする読書が宝探しのようで愉しいものですから、或いは釣舟草さんもそうでいらっしゃったら……などと今は唯々願わずにはおれません。
そしてご明察、静御前による「志津や志津~」の舞と歌です。釣舟草さん、名探偵やもしれません……が、稍暫く秘密にさせて下さい。
当初の設定から年紀を若干ずらした関係上、続話の投稿に当たって既出分にも全面改稿の要あり難渋しておりますが、なるべく早く第四話をお目に掛けられるように出来ればと存じます。今後とも宜しくお願い致します。