第5話 道摩満と白狐の館ーーー⑤

「おや兄様あにさま、珍しいモン抱えてるじゃないか」

 書斎しょさいに入った瞬間、館中に漂っていた甘い香りがいっそう濃くなった。室内のいたるところには本が積み重ねられていて、脚の踏み場もない。少しでも動けばぶつかって雪崩れが起きそうだ。そう広くもない書斎の奥、畳が敷かれた小上こあがりの和室で、脇息きょうそくもたれかかった女がガキに担がれた俺を見て舌舐りする。

 うなじから背中が見えるように後ろえりを大きく開け、彼岸花ひがんばなの模様があしらわれた打掛うちなけをまとうその女が喋るたびに、手元の煙管きせるから煙がくすぶる。胸前で結われた広幅の俎板帯まないたおびはゆうに5mほどの長さがあり、畳の上に投げ出された帯のなかでは体の細長いグロテスクな魚がのらりくらりと泳いでいる。一見人間に見える女にも、ガキと同じ獣耳とふさふさした尻尾が付いているところからして、コイツも化け物狐のたぐいなのだろう。赤い紅の引かれた唇に煙管を含み、フゥと一息に吐き出される紫煙が揺蕩たゆたうさまを見つめる。甘ったるい香りの正体は、この女狐らしい。


夕餉ゆうげの食材かい?」

「おいちょっと待て、取って喰う気満々じゃねぇか!」

「違うよー!このお兄ちゃんはねー、お客さんなのー!」

「おやまあ、それは残念だこと」

姉者あねじゃ若君わかぎみ何処どこじゃ?」

わかなら、其処そこさね」

 気怠げに煙管を持ち上げた女狐が部屋の右側を指すので、つられて見遣みやる。そこには倒れた本棚と、乱雑に築かれた本の山と、本の山から生えた二本の脚があった。重力に逆らい天井に向かって真っ直ぐに生えるそれは、どうにもヒトの脚に見えるがしかし、まさかそんなわけないだろう。もしそれが本物ならば、残りの胴体から上すべては大量の本に埋まっていることになる。生き埋めってことになる。圧迫と窒息のダブルパンチで死んでるはずだ。きっとマネキンか何かだろう。女狐の悪い冗談に違いない、そういう事にしよう。


「若さまー!あのねー、お客さん連れて来たのー!ボクえらいー?」

「ッて急に動くなクソガキ!」

 現実逃避を試みていた俺の思考は、ガキが急発進した事で強制的に中断させられた。ピョンピョンと本の障害物の間を跳ねて進み、脚の生えた山の前に着地すると、俺をポイと放り捨てる。


「痛ェ!」

「これ、これ、何を暢気のんきに寝ておる小僧。若の御前ごぜんじゃ、しゃんとせよ」

 無様に床とキスする俺の頭から飛び降りたジジイ狐がずり落ちた片眼鏡を掛け直す。コホン。軽く咳払いし、小さな肉球のついた前足でくだんの山を指し示した。


「小僧、紹介しようぞ。かたこそが白狐びゃっこ相談所の主人じゃ」

 ジジイ狐が誇らしげに言った。


「……冗談だよな?」

「あらまあ、至って真面目さね」

 女狐が美しく微笑んで言った。

「この脚、作り物だよな?」

「なま物だよー?正確には主の脚だよー!」

 ガキが元気よく挙手しながら言った。

「マジか」

 絶句した俺の反応は間違ってはいない筈だ。


「……いや、いやいや、んなわけあるか!この状態だと普通に考えて死んでるよな!?どこぞの犬神家じゃん!」

「犬、……?何を言うておる。じゃから我らは狐と言うておるに」

「つーか見てないで誰か助けてやれよ!」

 ヤレヤレ、と首を振るう化け物狐達の薄情さったらない。もしかするとこの脚の主も化け物で、この状態でも平気なのかも知れないけれど、見ている此方としては気になって仕方がないのだ。俺には全く関係ない事だが、叫ばずにはいられなかった。


 ビクビクビクッ!!

「ぎゃぁあッ!?」

 すると俺の声に呼応するように突然、両脚が痙攣けいれんする。思わず素っ頓狂な声が出た。

 そういえば何かの本で読んだことがある。

 化け物ならいざ知らず、ヒトにとって酸素は必要不可欠で、通常空気中の酸素濃度は21%程度だが、人体がおおよそ18%未満の環境におかれると様々な症状が顕れるらしい。16%なら頭痛や吐き気。12%なら筋力の低下や眩暈。10%なら意識不明や嘔吐。8%なら昏睡。そして6%なら呼吸停止と、痙攣。


「ッて、ヤバいじゃん!」

「おお、見よ小僧。若君わかぎみは生きておられたのう」

「生きてるねぇ、良かった良かった」

「若さま生きてるー!げんきー!」

「今まさに死にかけてるけどな!」

 焦る俺とは対照的に、振り返った先では、化け物狐の一行が何処からか持ち出した湯呑みと茶菓子で一服していた。お前らくつろぎ過ぎだろ。暢気のんきに煎餅を噛る薄情者共を尻目に、震えの止まらない両脚を引っ張り出そうと慌てて手を伸ばした。

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我等は【白狐ノ代行役】である! 2138善 @yoshiki_2138

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