第3話
夏目漱石の『こころ』は、先生と私の出会いで始まる。
私が語る先生と、私の心情。
こころとは、誰の心なのか。それはとても語れるようなものではないし、語ってよいとも思えない。
最初の章を読むとき、必ず先生と修二を重ねて読んでいた。
“私”のように、追いかけて、求めていたりはしなかったけれど、心ではきっと、“私”のように自ら求めて会いに行きたかったのかもしれない。
修二と“先生”は真逆な人間なはずだった。なのに、重ねてしまったのは、何故だろうか。
修二は何時も明るくて、周りには人が沢山いた。
世間が嫌いな“先生”とはまるで違う。
どちらかと言うと“先生”は自分で、“私”が修二のはずなのに、何故か逆だと感じていた。
修二の中に“先生”を見たのか。自分の中に“私”を見たのか。
少し本を読み進めると、何だか集中が出来なくなってきた。
昔を思い出したせいだろうか。
仕方がないので本を閉じて、壁にもたれる。
目を閉じると、大学生の時の部屋を思い出した。
初めての一人暮らしで、家具も家電も安物ばかり。最低限な物しか置いていない殺風景な部屋。敷きっぱなしの布団。出したままのノートパソコン。
大学に通うのも面倒になっていた。何を勉強したいわけでもない。楽しくもない毎日。大学にいる人達は、とても気持ちが悪かった。
大学に行くと必ず気持ちが悪くなって、講義もよくサボるようになった。
いくつも単位を落として、進級も危なかった。
それでも、誰かにその状況を話そうとはしなかった。他人が気持ち悪くて通えないなんて、普通に格好悪い。
理由を聞かれたとき、何て答えたかな。
「朝は弱くて起きれない」
そう答えたこともあった。嘘ではなかった。
「人が多いのは苦手」
そう答えたこともあった。嘘ではなかった。
気が付くと、夜に眠ることが出来なくなっていた。
睡眠薬を飲んだ時期もある。すぐ止めたけど。
自分が弱い人間だと落ち込んだこともあった。
弱くないといけない気がしてきて、開き直ったけど。
結局、大学の単位が取れなくなって退学をした。学生向けアパートも引っ越した。
しばらくアルバイトで生活をした。
貯金なんて無かったし、その日の食べるものも危ない生活。必死に節約をしても、少ない給料で生きていくのは苦しかった。
―――その頃だったな、修二と初めて喧嘩をしたのは。
しばらく連絡がなかった修二から、久しぶりにメールが届いた。
久しぶりに会わないか、という誘いだった。
バイトのシフトを確認して、予定を合わせた。
修二に会ったのは、連絡があってから四日後の夕方だった。
土曜日の夕方で、日曜日はバイトも休み。修二も大学は休みの時。
修二の家に訪れることになった。
「久しぶり。元気してた?」
本当に久しぶりだったせいか、会ったときに何を話して良いか解らなかった。多分、修二も同じだったのだろう。
「久しぶり。元気だとは思うけど、忙しい」
明るく挨拶をしてくれた修二に対して、少し冷たい態度だったかも知れない。けれど、そんなことは気にしていないというように、修二は話しかけてきた。
「大学、辞めたんだ?」
少し話してあった事情を、詳しく聞こうとしたのかも知れない。
「勉強したいことがあったわけじゃないし」
無難に返事をして、その話題を避けようとしたけれど、修二はまだその話をした。
「まぁ、俺が口出す様なことじゃないけど。なんかあったのかなぁって」
コンビニで買ってきた飲み物を飲みながら、修二が問いかけてくる。
「一樹はコミュ障だし。大学はクラスとかいう少人数のコミュニティがないから、ちょっと心配してた」
見透かされた気がして、恥ずかしくなった。
頭の中に思い浮かぶのは、最低な言葉ばかり。
何を答えれば、無難にこの場を切り抜けられるのか。
「単位も取れなかったし、勉強したいことがあったわけじゃないから、無理に通う必要もないかなって思っただけだよ」
なるべく冷たくならないように気を付けて答えた。そしたら、修二が怒り出したんだ。
「逃げんな」
怒りを含ませた声に、戸惑った。
「逃げたわけじゃない」
そう答えると、修二は此方を真っ直ぐに見た。
「大学からじゃない。自分から逃げんなってわけじゃない。俺から逃げんな」
その言葉は、今までの中で一番真剣な言葉に聞こえた。
「修二から逃げるとか、してないじゃん」
怖くなった。喉が震えた。
「逃げてんじゃん。逃げてないっていうなら、ちゃんとこっち見て、なんで俺に相談しなかったのか教えて」
怒りからか、平淡な声が余計に怖かった。言葉が出てこない。
「俺以外に相談してた? 大学にそれほど仲良い友達いたの? なら、辞めるわけないよね?」
言葉が出ないから、答えられない。
「答える気もないの?」
その言葉を切っ掛けに、自分の中に苛立ちが積もっていった。
「前からそうだったけど、なんで自分からこっち来ないの? 構って欲しいの?」
答えないから、好き勝手に言われているのか。
関係ないだろ。俺がどうしていようと、関係ないだろ。
なんで、俺に構うんだ。
嫌だ。構うな。気持ちが悪い。
そう思ったら、苦しさが込み上げてきた。
「コミュ障にも程があるだろ」
その言葉で、限界を超えたらしい。気が付いたら言い返していた。
「煩い。なんでお前に相談しなきゃいけないわけ?」
言い返されると思っていなかったのか、修二が少し驚いた顔をした。
「他に相談出来る相手でもいるの?」
挑発するように修二が言うから、こちらも止まらない。
「相談しなきゃいけない義務でもあんの? 友達って、そんな義務が発生するわけ?」
苛立ちが収まらなかった。
「修二こそ、なんでそんなこと言ってくるわけ? お前は俺の保護者なの?」
怒鳴りこそしないけど、言葉が止まらない。
「相談なんかするわけないだろ。聞いてどうすんの? 困るだけじゃん」
「困るわけないだろっ。友達が悩んでて、それで俺が困るとか、勝手に決めんな」
修二の言葉に、言い返せなくなった。
「俺は一樹と友達だと思ってんの。なのに、一樹は友達だと思ってくれないから、すごく、イラつく」
そう言った修二は、此方から視線を逸らしてしまった。
それ以上、言い返すことも出来なくて、ずっと沈黙したままの部屋。
帰るとも言い出せなくて、帰れとも言われなくて、どうして良いか解らない状況が続いた。
時計を見ると、夜の八時になっていた。夕方の五時に来たから、既に三時間。沈黙は、どのくらいだったか。
そろそろ帰ろうかと、声を掛けようとしたとき、修二が口を開いた。
「飯、食わない?」
二人で近くのラーメン屋に行って、無言で食事をした。
ラーメン屋を出ると、また無言の帰り道。
修二の家に近付いてきて、このまま帰ると言おうとすると、修二がすぐ近くにあった公園を指差した。
「ちょっと、寄ろう」
そう言って公園に向かって歩き出した修二の後ろをついていくと、彼はベンチに腰かけた。隣に座って上を見ると、少しだけ星が見えた。
「一樹があんなに話すところ、初めて見たかも」
不意に、修二がそう言った。
「そうだっけ?」
先程のこともあって、冷たい言い方をしてしまう。
「そうだよ。いつも、一言二言で終わらせようとするし」
修二の方は、あまり引き摺っていないのか、落ち着いていた。
「何て返せば良いかわかんねーもん」
何時までも落ち着かない自分を隠すようにそう言うと、修二が笑った。
「やっぱ、コミュ障だ」
「コミュ障っていうな!」
思わず大きく返すと、修二はまた笑う。
「普通に返せるんじゃん。さっきの言い合いで吹っ切れたとか?」
からかうような言い方をするくせに笑うから、なんだか調子が狂ってきた。
「どうでも良くなった」
そう言うと、自分の中で何かが落ち着いた。
「それで良いじゃん。一樹は気にしすぎ」
修二がそう言うから、本当にそれで良いと思えた。
「うるせ。そういう性格だ」
認めてしまおう。自分がこういう人間だって。
そう思って言うと、修二が急に黙り込んだ。何かあったのかと修二を見ると、片手で口元を隠して、なにか言いたそうにしていたので、少し待つことにした。
「さっきは、ごめん」
待っていると、そんな言葉が聞こえたから、こちらも素直になろうと思った。
「こっちこそ、ごめん」
お互い謝って、笑いあった。
「俺さ、一樹とやっと友達になれた気がする」
修二が笑ってそう言う。
「俺はもう、友達のつもりだったけど?」
そう言うと、「心許してくれない間柄は友達って言えないだろ」と修二が返してくる。
「俺が心許すのは、走り高跳び160センチくらいハードルが高い」
軽く、ボケたつもりだったのに。
「それは、飛べるやつが限られるな」
普通に返してくる。
「160センチって、中学生の平均だろとか、お前は飛べないだろとか、そういう突っ込みないの?」
そう聞くと、修二がハッとしたように顔をあげた。
「そういや、そうじゃん。普通に流してた。……ボケがわかりづらいわっ! ってか飛べねぇのかよ」
やっと、笑いながら修二が突っ込みをくれた。
それ以来、修二は“友達になった瞬間からコミュ障を発揮する上に、ボケがわかりづらい変な子”と認識するようになったんだ。
目を開けると、何時もの自分の部屋だった。
手元には、夏目漱石の『こころ』があった。
修二に、ちゃんと内容を伝えないといけないな。
そう思って、またページを開いた。
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