第29話 フロイドの手口

 四十分後、メガソフトのビルから出た柿坂は、道に停まったタクシーに近づいた。中から妻が出てきて、不機嫌極まりない顔で柿坂に紙袋を手渡した。

「すまん」

 そう言って受け取ると、柿坂は紙袋の中を確認した。フロイドの手口を説明するのに必要な物が入っている。

 社長室に戻ると、ちょうど事情聴取を終えた警察官が帰ったところだった。

「さあ、説明とやらを聞こうじゃないか」

 盛高は、椅子の中で、小さな体を精一杯反らせた。

 柿坂は話し始めた。

「まず、フロイドがどうやって扉のパスワードを手にいれたかですが、これは社長の手の汚れに関係があります」

 盛高は自分の手を見た。

 柿坂は、社長のコンピュータのキーボードを指差した。「テンキーの間の溝に、黒い粉が残っているのがおわかりでしょう。これは、鉛筆の芯の粉だと思います」

 柿坂は紙袋の中から、別のキーボードと鉛筆とカッターを取り出すと、キーボードの上に鉛筆をかざし、芯の部分をカッターの刃でひっかいて粉を散らした。「キーボードは薄い灰色なので、粉が乗っているのはほとんど見えません。ところが…、社長、何か適当なキーを打ってみてください」

 盛高はいくつかのキーを打ち、自分の指先を見た。黒く汚れていた。

「指が汚れるだけでなく…、キーの方も見てください。打ったキーの表面だけ、黒く汚れが残っています」

 触れたキーの表面に粉が押し付けられ、黒く汚れていた。

「パスワードは数字の組み合わせでしたよね。フロイドは、社長のいない間にここに忍び込んで、粉を落としていったんでしょう。きょうは、社長は一日中ここにいらっしゃいましたか?」

「いいや、合併に関する会議でしょっちゅう出ていたが」

「その間に忍び込んだんでしょう。今日の昼間はここからパスワードを入れましたか?」

「一度だけ足枷を眺めに入った」

「じゃあ、パスワードがキーボードに残ったはずだ」

「しかし、他の用事でもコンピュータを使ったぞ。他のキーを打てば、どのキーも黒くなって、どれがパスワードか分らなくなるではないか」

「社長はパスワードを入れる時、いつも右側のテンキーを使っていませんか?」

「そうだが」

「それ以外の時は、キーボードの普通の場所を使う?」

「そうだ」

「フロイドはそれを知っていたんでしょう。実際に粉は、テンキーの上にしかありませんでしたから」

 盛高はまだ納得しない。

「だが、それぞれの数字がわかっても、組み合わせまではわからんぞ。まさかフロイドはこの部屋で、8ケタの数字の組み合わせを全て試したというのかね?」

「そのために、エアコンのダクトにビデオカメラを仕掛けたんです。社長がパスワードを打ち込む時の手元の様子を、社長の肩越しに録画したようです。ダクトの中のテープの跡は、カメラを固定するためのものに違いない。ちょうどその位置からだと、社長のキーボードがよく映りますからね。ただ、ビデオの映像だけだと、キーが手の陰になったりして、パスワードを知るのは難しい。でも、数字が分かっていれば、あとは手の動きからその順番を推測するのは難しくないでしょう」

「シャーロックホームズ君、なかなか見事な推理じゃないか」

 盛高は馬鹿にした調子で言った。

「いいえ、実は、以前、銀行のATMの警備をしていた時に、同じような手口にしてやられたことがあるんです。その時は黒鉛の粉ではなく、光を当てると蛍光色に光る特種な粉でしたけど」

「ふん、まあそんなことだろうと思ったよ。君が自分の力で推理できるはずないからな。で、パスワードなんかはどうでもいい。音声認識と指紋照合をどう破ったかが問題なんだ」

「安心してください。フロイドはどちらも破っていません」

「何だと?」

 盛高は椅子から身を乗り出した。

「名探偵も、頭がおかしくなったか。あれを破らないで、どうやって扉を開ける?」

 柿坂は、紙袋から、筒状に丸めた灰色の紙を取り出した。

「息子が文化祭で使った残りを持って来ました。これは、紙のように薄いプラスチックのシートで、画材屋なんかに売ってます。いろんな色があります。実は裏がシールになっていまして…」

 柿坂は裏についた黄色い剥離紙を剥がし、糊のついた部分に指をペタペタと当てて見せた。

「好きな形に切って貼り付けられるんです。そのコンピュータの、モニターのガラスに、ほんの少しですが、糊のかすのようなものが着いています。きっとこんなものを貼り付けたんでしょう。例えば、こうやって…」

 柿坂はカッティングシートの、糊のついた面をモニターのガラスに近づけ、最初に中央の辺りをそっと押しつけ、そこから、画面の端に向けて、まるで版画でも刷るようにていねいに押しつけた。灰色のシートはピッタリと貼りついた。それが終わると、柿坂はカッターナイフを取り、モニター画面からはみ出した部分を素早く切り取った。光沢のある灰色のシートは、ちょうどモニター画面そのもののように見えた。終わるまでに一分かからなかった。

「スイッチを入れてみてください」

 盛高はスイッチを入れた。明るくなるはずの画面は、灰色のシートに遮られて暗いままだった。まるで画面は消えているようだった。

「昨夜、社長が私のデスクに行ってファイルを探しているスキに、フロイドはここに忍び込んで、今やったのと同じことをしたんでしょう。時間は、練習すれば、三十秒とかからない。そして、社長は、コンピュータをもう消したもの、と思い込んで部屋を出た」

「それであの男、メモを探すふりなどしたのか」盛高は自分のコンピュータをもう一度見た。「しかし、よく見れば紙が貼ってあるかどうかくらい分かるじゃないか」

「あの時、社長は急いでいたはずです。弟さんを逮捕すると言われて、動揺もしていたんじゃないですか? それに…」

 柿坂は壁に近寄り、照明のスイッチを切った。コンピュータのモニターから、うっすらと光が漏れているのが見えた。

「よく見れば、貼ったシートの隙間から光がもれているのが分ったかもしれません。ですが、部屋を出る時、社長は、警備用装置のランプを確認することしか頭になかった」

 柿坂が明かりをつけると、盛高はうなだれていた。

「社長がサービスエリアに向かっている間に、フロイドは再びここに現れ、ビデオとテンキーの汚れからパスワードを割り出し、それから灰色のシートを剥がしてパスワードを入力した。指紋も音声認識も、破る必要はなかったんです。コンピュータは社長が始動させてから、動きっぱなしになっていたわけですから」

 盛高は泣き出しそうな顔をしていた。喉の喉から、笑い声とも泣き声ともつかない奇妙な音が漏れて来た。

「そんな子供騙しに…、やられたのか」

「人の意識には、必ず穴があるものです」

 盛高は答えず、柿坂の横をすり抜けて部屋を出て行った。

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