第23話 加奈子の気持
メガソフトのビルからそう遠くない店に二人は入った。柿坂には初めての店だった。
中は薄暗く、ムードのあるジャズが流れていた。テーブルにはキャンドルが置かれ、手を握りあったカップルが数組いた。
失敗した、と柿坂は思った。いきなりこんな雰囲気の店では、加奈子に誤解されてしまう。こういう親密さを望んではいないのだ。浮気がしたいわけではない。
席に着くと、他のカップルが気になるのだろう、可奈子も周りを見回した。甘い青葉のような香りがした。
——何という香水だろう?
周りの怪しい雰囲気から可奈子の注意を逸らすため、柿坂は話し始めた。
「ところでイスラエルの話をもっと聞かせてくれないか」
「全部お話しちゃいました」
可奈子は場にそぐわない快活さで答える。
「第一、どうしてそんな所に行く気になったんだい?」
「何となく、かな…」
柿坂は我ながらうんざりする。つまらないことを聞いている。案の定、可奈子はだんだん白けた表情になり、
「ちょっと」
と言ってトイレに立った。
「…ダメだな」柿坂はつぶやいた。可奈子が話に乗ってこないのも当然だ。これじゃあまるで尋問じゃないか。
どこかで携帯電話が鳴り出した。客もウエイターも、みな柿坂の方を見ている。向かいの椅子に置いてあるルイヴィトンのトートバッグから、携帯がのぞいていて、それが鳴っていた。最新の二つ折りタイプではなく、一枚板の古い携帯だったので、画面が派手に光っている。
しばらく待ったが一向に鳴り止まない。加奈子が戻る気配もない。周囲の人たちは、とがめるような目で柿坂を見はじめた。柿坂は仕方なく手を伸ばし、加奈子のバッグから携帯をつまみ上げた。
人の携帯なので操作がよく分からない。一瞬躊躇したが、勝手に出るわけにもいかず、電源を切って呼び出し音を止めた。それからもう一度電源を入れ直し、急いでバッグに押し込んだ。興味本位で見たと思われたくなかった。
押し込んだ携帯の、画面が明るくなった。
またかかってきたのか?
反射的に携帯を取り出したが、呼び出し音はせず、画面には「自局電話番号」という文字と数字が並んでいた。
——自局?……この携帯の番号か。
押し込んだ時、どこかのボタンを押してしまったらしい。
柿坂は番号を見た。
——やめておけ、プライバシーをのぞき見るようなことは。
そう思いながら携帯をバッグに戻したが、番号は覚えていた。
——万一の時もある。例えば、緊急の用事とか…
柿坂は自分に言い聞かせると、素早く手帳を取り出し、隅に小さく番号をメモした。
「さっき携帯が鳴っていたよ」
戻ってきた可奈子に言うと、彼女は「ああ」と言って気にせず、
「それより今度は、チーフのことを聞かせてくださいよ」
柿坂は自分の大学時代のことや、最近息子が行方不明になったことを話した。自然と今の仕事のことに話が行き、やがて話題は今日の昼間のデクスターとのことになった。
「デクスターは、盛高社長と、十中八九、兄弟だ。でもこの兄弟、仲が悪いらしくてね。それで盛高も、俺にメモを渡す時あんな不機嫌な顔をしていたんだろうな。まあ、一方が社長としてあれだけ大成功していれば、弟の方がひねくれても仕方ないだろう」
可奈子は身を乗り出して柿坂の話を聞いた。小振りでツンと上を向いた鼻の形が可愛らしかった。色白の頬はピンクに染まり、胸のボタンがさっきより一つ多く外れているように思えた。白い胸元を見て、柿坂はどきりとした。
酒が回り、柿坂の口が軽くなった。ワクチンの出所は秘密にする、というデクスターとの約束をぼんやりと思い出したが、今となってはどうでもいいような気になった。こっちはもうワクチンを手に入れてしまったのだし、秘密がバレて困るのはデクスターだけだ。
「…でも、土下座してもダメだったものを、どうやって手にいれたんですか?」
殺人ルーレットのことを最初から話しながら、柿坂は思った。こんなふうに仕事の苦労を話すのは久しぶりだ。結婚したての頃はよく妻に打ち明け話をしていたが、今では、妻の相手はインターネットだ。
話は進み、最後のキーを叩く所まで来た。すると、可奈子は急に深刻になった。
「それで、キーを押したんですか?」
答えようとした柿坂は、喉に何かがつかえ、声が出なくなった。
どうしたんだ?
柿坂は自分の喉元に手を当てた。息苦しかった。
「キーを、本当に押したんですか?」
可奈子は柿坂を正面から見ていた。
柿坂は視線を反らすことができず、懺悔するように言った。
「押したよ」
可奈子の目に、あからさまな軽蔑の色が浮かんだ。
「信じられない」
「そうするしかなかったんだ」
「だからって、人が死ぬかもしれなかったんですよ」
「手ぶらで帰るわけにはいかないじゃないか」
「もし死んでいたら、どうするつもりだったんですか?」
柿坂は黙った。可奈子は続けた。
「コンピュータがやったんだ、俺じゃない、って言うつもりですか?」
「いや、そんな…」
「仕事のためならいいんですか?」
「いいじゃないか、結局はデクスターの冗談だと分かったんだし…」
「人殺し」
可奈子は席を立った。出口へ向う加奈子を、柿坂は追った。酔いで足元がふらついた。出口で店員に引き止められ、慌てて勘定を済ませて外に飛び出すと、可奈子はタクシーを止めていた。
「待ってくれ!」
柿坂は可奈子に駆け寄り、肩をつかんだ。
「確かに俺は人殺しかもしれない。してはいけないことを、してしまったのかもしれない。それは認めるよ。俺は、仕事のためならなんでもやるろくでなしかもしれない。それも認める」
柿坂は、涙が出てくるのを感じた。
「…だけど」
加奈子にこんなふうに去って行って欲しくなかった。
柿坂は、可奈子を抱き寄せた。
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