第22話 柿坂の下心
警備管理室に戻った柿坂は、コンピュータでフロイドのファイルを開いて、もう一度読み直した。重要な言葉が出てくる度に、それと関連のありそうな別のページを開き、二つのページを行ったり来りしながらていねいに読んだ。
コンピュータの画面でいくつかのページを行ったり来りするのは、骨が折れた。クリックを何回も繰り返しながら、紙のページの方が楽だな、と柿坂は思った。小田可奈子の言ったことは当たっている。何でもコンピュータがいいとは限らない。
ファイルを読み終わったのは十一時少し前だった。
収穫はなかった。不完全な情報ばかりで、とてもフロイドの次の手を予想することはできない。
足りない部分は想像で埋めるしかないのか…、と柿坂は考える。
椅子の背もたれに体をあずけて、目を閉じた。フロイドの人物像を頭に描こうとした。ドイツ人と日本人のクォーター、大学を卒業したばかりの若い男、国際的犯罪に関わり、コンピュータに関しては深い知識を持っているフロイド。
ぼんやりと人の姿が浮かんできた。それは、いつか映画で見たハッカーの姿になった。野球帽を逆さにかぶり、神経質そうな薄い唇をしていた。目は内気そうで、それでいてずる賢こそうに光っていた。
さらに想像を膨らませる。
犯罪のパターンは性格を反映すると言うが、この男はどんな性格をしているのか? 自分を「怪盗」などと呼び、犯罪人として二か国の警察から追われているにもかかわらず、雑誌のインタビューなどに堂々と応じている。目立ちたがり屋で、自惚れが強いのだ。
それに、十分なコンピュータの知識がありながら、「コンピュータなどに興味はない」などと言っているところが、どこかねじれている。フロイドも、デクスターのようにひねくれた、傲慢な人間なのか?
これまでのやり口を見ていると、フロイドは、どうも柿坂たちを相手にゲームを楽しんでいるように見える。最初に警備システムをハッキングしてメッセージを残した時も、盗みを実行せずに放っておき、柿坂たちが穴をふさぐのに十分な時間をわざわざ与えたように見える。それに、ウィルス攻撃を仕掛けたときも、コンピュータを麻痺させただけで、足枷を盗みはしなかった。
デクスターが殺人ルーレットを楽しんだのと同じように、フロイドも何かのゲームを楽しんでいるつもりなのか?
「早く姿を現せ」
そうつぶやきながら柿坂が目を開けると、警備管理室の入口に、もう帰ったはずの小田可奈子が訝しげな様子で柿坂を見ていた。
柿坂は、だらしなく椅子の上に伸びた格好を見られたのが恥ずかしく、反射的に体を起こした。
「どうしたんだ、こんな時間に」
時計を見ると、もう十一時半近い。
「忘れものを…、明日、友達と行く映画のチケットを…」
柿坂は緊張を解いた。
「ビルが開いているのが、よく分かったね」
「今日からシフト制になったんで、きっと入れるだろうと」
二十六日が迫ってきたので今日から三交代制にしたのを、忘れていた。部屋には当直の警備員のほかに、ハムスターを連れた夜番のプログラマーがいた。
柿坂は、意外な時間に可奈子が現れたことが、何となくうれしかった。
彼女はそそくさと自分のデスクの引き出しをひっかき回し、チケットを見つけたらしく、足早に部屋を出ていこうとした。
「もう見つかったのかい?」
「はい」
素っ気ない答え。
「何の映画のチケッ…」
彼女はピョコリと頭を下げ、
「お先に失礼します」
と言ってエレベーターホールへと消えた。
柿坂は上着とカバンを取り上げると、落ち着いた風を装って部屋を出た。
廊下を大股で歩きながら考えた——俺は何がしたいんだ? 話がしたいのか? その通りだ、誰かと話がしたいのだ。この件ではストレスがかかりっぱなしだった。たまには若い女の子と、気のおけない話をしたっていいだろう。だが、あくまでも部下の一人としてだ。浮気には興味がないし、家庭を壊す気などさらさらない。
柿坂が思った通り、可奈子はエレベーが来るのを待っていた。夜中は半数のエレベーターが止まってしまうので、来るのに時間がかかる。
「ちょうど、帰ろうとしていたところだったんだ」
柿坂は笑って言った。
——軽く一杯誘ってみよう。
「あ、そうですか」
彼女は目を反らした。
——避けているのか? 俺のことが嫌いなのか? 昼間話した時はそうも見えなかったが、あれは仕事中だから愛想が良かっただけか?
重苦しい沈黙を破って、チン、とチャイムが鳴り、エレベーターの扉が開いた。
二人は黙って乗り込んだ。
柿坂の心臓は高鳴っていた。二人だけで話す機会など、これから先めったにないだろう。おれのことを嫌いなら嫌いでけっこう。その時は断られるだけだ。
「よかったら、軽く一杯、どう?」声がうわずっているのがわかった。まったく、部下を誘っているだけなのに、情けない。
返事はない。
——まあ当然か。こんな遅い時間に一杯誘う上司など、普通ではない。
エレベーターは一階に近づいていた。
——もう一度だけ…、それでだめなら潔くあきらめよう。
柿坂はもう一度言った。
エレベータの扉が開いた。
時間切れだ。
彼女はエレベーターから降りなかった。
「それ、仕事の延長ですか?」
冷たい調子だった。
どう答えれば納得して付き合ってくれるのか……柿坂には分からない。
「チーフとしてそれをおっしゃっているんですか?」
——もちろんそうだ…、いや違う。本当は違う。ここは本当のことを言おう。嘘をつくのは俺の主義じゃない。
「仕事とは関係ないよ。君ともう少し話がしたいだけなんだ」
「いいですよ」
柿坂は耳を疑った。
「…そんなにびっくりしなくてもいいじゃないですか。いいですよ、一杯くらい」
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