第21話 屈辱

 柿坂は再びアイマスクをかけられ、車で父親のいる病院に送り届けられた。

 病室に入ると、父親はベッドに寝ていた。機械からの管は付いたままだった。

 死んでいるのか?

「ご心配かけてすみません」看護婦が言った。「患者さんに異常はありません」

 柿坂はそばにあったソファにへなへなと座り込んだ。

 看護婦の説明はこうだった。一時、生命維持装置が全て停止し、父親の生命反応がまったく無くなったが、よく調べてみるとコンピュータの表示が異常だっただけで、装置自体は動いていた。父親の方は、相変わらず昏睡状態のままではあったが、状態は安定しているそうだった。


 メガソフトの社長室で、盛高は弟からかかって来た電話を取った。

「何の用だ」と盛高。

「メガソフトも落ちぶれたもんだな」

「何だと」

「あの犬に、ワクチンをくれてやったよ。天下のメガソフトも、裏のウィルスには手も足も出ないか」

「ふん、ワクチンくらい、その気になればいつでも作れる。ただ、お前のような落ちこぼれハッカーなら誰でも持っているようなものを、なぜ、うちのエンジニアが、一から開発しなけりゃいけない?」

「くやしいんだろう。分かってるぞ。弟に頭を下げないとワクチンを手に入れられなかったのが、くやしいんだろう。はっきり認めたらどうだ」

「いつ頭を下げた? お前なんぞに下げる頭などない。だいたい、お前はワクチンをコピーしただけだろう。作ったわけではない」

「そうやって偉そうにしているから、フロイドとかいう奴にしてやられるわけだ」

「ふん、ちょっと遊んでやっているだけだ。それに、フロイドの方がお前なんかより数段上だ。一体何の用でかけてきた?」

「その出来の悪い弟から、ひとつアドバイスを差し上げようと思ってね」

「そんなものいらん」

「いやでも聞いてもらうさ。この弟の、頭脳の明晰さを実感して、十分に悔しがってもらうためにな」

「聞きたくない」

 盛高には、ウィルス以外の手がフロイドにあると思えなかった。ワクチンを手に入れた今、守りは万全のはずだ。

「俺がフロイドなら、電磁波銃を使う」

「ふん。フロイド以下のお前に、フロイドの手が読めるか」

「感謝は後でいい」

 電話は向こうから切られた。

 盛高は受話器を叩きつけ、部屋の中を歩きまわった。

 ニューズレターの記事を思い出した。電磁波銃…、強力な電磁波を出してコンピュータを使えなくしてしまう銃だ。湾岸戦争でも使われたハイテク兵器のひとつだが、決して大掛かりなものではない。知識さえあれば秋葉原で売っている部品で、簡単に作れてしまう。ウィルスに失敗したと知ったフロイドが、今から準備したとしても、一日あれば出来上がってしまう。

 盛高は拳をキツく握り締めた。

 ——気がつかなかった。それを、弟なんぞに言われて気づくとは。

 盛高はカレンダーに目をやった。赤い丸で囲ってあるのは、フロイドが予告した七月二十六日。今日は二十二日。あと丸四日残っている。すぐに対策を立てておかないと。

 盛高は受話器を上げ、技術部の内線ボタンを押した。


 病院を出た柿坂が、メガソフトの警備管理室に到着したのは夜9時過ぎだった。待機していた本社のプログラマーにワクチンを渡し、安全をチェックさせたあと、すぐに警備システムに組み入れる作業にとりかかった。

 作業を待つ間、柿坂は本社にいる野際へ報告の電話を入れた。野際は満足していた。一千万円の支出を予定していたものが、タダで手に入ったのだから当然だった。

 電話を終えると、柿坂は大きく息をついた。

 これで役目は果たした。

 しかし、昼間のデクスターとのやり取りを思い出すと苦々しい気分が戻って来る。思い出したくなかったが、やり取りのひとつひとつが、勝手に、鮮やかに浮かんできた。

 柿坂は「交渉」するつもりであの場に臨んだが、それは柿坂の思い上がりだった。実際のデクスターとのやり取りは、交渉などと呼べるものではない。柿坂は、デクスターのいたずらを見破ることもできず、いいように遊ばれただけだ。自尊心は潰され、無力感だけが残っている。それに、もっと悪いことに俺は……

 プログラマーが、作業が終わったと告げた。

 柿坂は美術品の保管庫に入り、機器の動作をチェックした。

 チェックが終わった後、中央にあるガラスケースの前に立った柿坂は、中の足枷を見た。足枷が運び込まれて以来、日々のチェックで何度も見てはいたが、警備機器に気を取られてゆっくりと眺めたことはなかった。

 柿坂は、足枷の異様な美しさに目を奪われた。足首に巻きつく鉄の輪の表面は、黒く、重々しく光っていた。そこには、見る者の気持ちを沈ませてしまう何かがある。ところがそれと反対に、埋め込まれた宝石類は色とりどりにきらめき、まるで生きる喜びを自由奔放に歌い上げているようだった。地獄の底に輝く宝石箱、という形容が、柄にもなく柿坂の頭に浮かんだ。

 この足枷には、奴隷が繋がれていたというが…

 柿坂は想像を膨らませ、その奴隷を頭に描いた。白人に自由を奪われた奴隷の苦しみが、この足枷の芯にまで染み込んでいる気がした。

 足枷の輪の部分からは鎖が伸び、それが途中で断ち切られている。逃亡した奴隷が海賊に受け入れられた時、海賊たちの手で切られたものだと言われている。

 その断面を見つめた柿坂は、鎖が切られた時の奴隷の喜びを想像した。

 ふと、自分の足を、この足枷に入れてみたい気になった。

 柿坂もまた、足枷を付けて働いているようなものだった。今日、デクスターの前で、奴隷のようにひれ伏した自分を思い出した。デクスターだけではない。盛高にも頭が上がらない。現場を取り仕切るべきチーフの身でありながら、実際は盛高の顔色を伺いながら動いているだけ。

 足枷を作った奴隷たちは、反抗し、足枷を外したが、柿坂自身は、盛高兄弟に逆らうことができるのだろうか?

 ——できない。

 盛高も、デクスターも、強大な力を持っている。それはコンピュータの知識だ。盛高は、コンピュータ業界はもちろん、日本の経済にも影響を与え、デクスターは、キーボードの一叩きで人を殺すことが出来る。柿坂などは相手にならない。だから、奴隷のように、言いなりになるしかないのだ。

 ——そして、俺は今日……あのキーボードを叩いた。

 柿坂は首を振って忘れようとした。

 終わったことはもういい。大事なのはこれからだ。フロイドは次にどう出てくるのか? 警備システムの穴は、雇ったプログラマーのおかげでほぼ全部塞がっている。フロイドといえども簡単には破れないはずだ。そして、ワクチンのおかげで今はウィルスも無効になった。

 次は何か?

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