第19話 現れた男

 用賀にあるその喫茶店で柿坂が待っていると、店に電話があり、裏の路地に止めてあるワゴン車に乗り込むようにと指示があった。

 柿坂が助手席に入り込むと、運転席の男は旅行用のアイマスクを柿坂に手渡した。五十代くらいのその男は、色黒で、濃い茶色のサングラスをかけていた。車には煙草の臭いが染みついていた。

 柿坂は、アイマスクを見て笑った。

「大袈裟な」

 男は、口を半開きにして柿坂をじっと見た。下前歯が煙草のヤニに染まっていた。

 男は無言で車から降り、柿坂の側に回ると、ドアを開け、顎で降りるように指示した。

「え?」

「遊びじゃないんだ」

 男は潰れた声で言った。

「すみません」柿坂は急いでアイマスクをかけた。「よろしくお願いします」

 扉の閉まる音がして、車は発進した。

 どうやら高速に入ったようだった。用賀のインターチェンジからだろう。三十分ほど高速を走り、その後一般道に入ったらしかった。

 最初のうち柿坂は曲がった方向と回数を覚えていたが、回数が多くなってくるうちに忘れてしまった。

 道を覚えさせないようにわざと曲がっているのだろうか? 

 さらに一時間ほど走り、緩やかな坂を上り、車は止まった。

 柿坂のアイマスクが取られた。

 フロントガラスの向こうに、ヨーロッパ調の古い洋館が見えた。

「きょろきょろするな」

 男は車を降りると、柿坂の側の扉を開けた。

 柿坂は車を降り、後ろを振りかえると、遠くに海が見えた。

「きょろきょろするなと言ったろ」

 柿坂はもう一度洋館を見た。汚れたクリーム色の建物には、人の住んでいる気配はなかった。中央の玄関に植えてあるシュロの木の枝だけが、海風に吹かれてゆっくり動いていた。

 柿坂は、高校生時代に持っていたイーグルスのレコードジャケットを思い出した。一度入ったら、二度と出られないホテルカリフォルニア。まさか、ここからは二度と出られないようなことはないだろうが…。

 男について玄関を入り、ホールを抜けて薄暗い廊下を進んだ。カビ臭い匂いがした。やがて、吹き抜けのホールに出た。初夏だというのに、ひんやりしていた。ホールに面してひときわ背の高い、重厚な扉があった。

 男は扉をノックし、力を込めて押した。きしみながら扉は開いた。

 こんなに重い扉で、出入りに不便ではないのか、と柿坂は思う。

 あるいは、デクスターという男は部屋を出る事がないのかも知れない。

 中へ入ると、男は退出して扉を閉めた。鍵をかけるような音が聞こえた。

 部屋には誰もいない。正面に黒いテーブルが置かれていた。それは、ドーナツ型の輪を四分の一ばかり切り取ったような扇形。その上にはコンピュータがつけっ放しになっていた。テーブルの後ろは、曇り硝子の仕切りが立っていて、その裏側にも部屋があるようだった。部屋の右側の壁には、使われていない暖炉があり、その前に、豹の毛皮が敷かれていた。暖炉とは反対側の隅には、巨大な壺が置かれていた。

 部屋を観察していた柿坂は、自分のすぐ横を見てぎょっとした。大柄な人間が二人、立っていた。だが、それは微動だにしない。

 鎧か?

 近づいてみると、鎧ではなく、「エイリアン」に登場する怪物の、等身大モデルだった。もう一体はスタートレックの「ボーグ」、東急ハンズに飾ってあるのを、柿坂は見たことがある。

 ふいに声がした。甲高く、それでいて潰れたような奇妙な声。曇り硝子の仕切りに、人の影が映っていた。

「触らないでもらいたいね」

 背の低いその影が硝子を回って、姿を現した時、柿坂は目を疑った。

 盛高社長がいた。だが、いつもの背広姿ではない。黒いズボンに黒いシャツ。それに髪も短い。

「どうしてここに?」

 柿坂が言うと、男は露骨にいやな顔をした。その表情には、盛高とは違う雰囲気があった。

 ——盛高ではない。だが……おそらく、兄弟……いや、双子かもしれない。だから盛高は、デクスターと簡単に連絡をつけることができたのだ。  

「初めまして、私は…」

 柿坂の自己紹介を、デクスターは手を振ってさえぎった。

「そういう茶番はやめてくれ。さっさと本題に入ってもらいたい」

 デクスターの性格を察した柿坂は、それに合わせることにした。事のあらましを説明すると、デクスターは最後まで聞かずに言った。

「残念ながら、ワクチンを譲る気はない」

 デクスターの顔に、こちらの出方をうかがうような笑いが浮かんでいる。きっと値段を上げるための手にちがいない。

「どうしても必要なんです」

「そちらには必要だろうが、こっちにしてみればどうでもいいことだ。いや、どうでもいいで済めばいいが、勝手にワクチンを渡したりすれば、仲間を裏切ることにもなる」

 デクスターは冷ややかに笑った。

「秘密は守ります。誰から受け取ったかは、絶対に言いません」

「企業の犬は信用できんね。この前も犬が二匹、ハッキングしてくれなどと物騒な依頼に来たが、もっともらしい顔で嘘ばかりついていたぞ」

「私は違います」

「それにだ、どうせワクチンはメガソフトがコピーして売り出すんだろう? あのクソ野郎に一儲けさせるのはごめんだ」

「それ相当のお礼は」

「いくらだ?」

 ズバリと言われて、柿坂はひるんだ。だが、この方が話が早い。あらかじめ予算の段取りはつけてある。

「五百万」

 デクスターは大袈裟に白目をむいた。

「おやおや、うちをバッタ屋か何かと勘違いしているのか?」

「八百では?」

「ケタが違うな」デクスターは鼻で笑った。

「…一千万、これ以上はかんべんしてください」

 会社で承認を受けたぎりぎり金額だ。断られたら後がない。

 デクスターは黙って柿坂の後ろの扉を指差すと、自分は曇り硝子の裏へ戻ろうとした。

「待ってください!」

「おや、まだ上がるのか? これだから会社というのは信用できない」

「いえ、金額はこれで精一杯ですが…」

「ですが?」

 残る手段はこれしかない。

 柿坂はゆっくりと両膝を折ってひざまずき、床に両手を突いた。

「どうかお願いします」

 クッ、クッという押し殺した笑いが聞こえた。

「サラリーマンというやつは、本当に犬だな」

「ワクチンをお譲りいただけるなら、何でも……」

「金が欲しいなどと、誰が言った?」

 柿坂は顔を上げた。

 デクスターは唇の端を歪めて、意地悪く笑った。

「…そんなもの、腐るほどある」

「では何を?」

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