第11話 人情営業の終わり

 柿坂が自分のデスクに戻って見ると、太地部長のデスクはもうすっかり片付けられ、太地本人はいなかった。

 斜め向かいの席では、野際がいつもの高飛車な口調で電話をかけていた。

 柿坂は野際の顔をうかがった。

 もう昇進のことを知っているのか? 昇進したら、俺にもあんな高飛車な口をきくようになるのか? こんな野際と我慢してやっていけるのか?野際だけではない、あの盛高とも、これからぶつからずにやっていけるのか? そう考えると柿坂は将来の何もかもが心配になった。

 大体、こんなふうに内部がごたごたしていて、フロイドを阻止することなど、できるのだろうか?

 その日の午後、柿坂は、友人の森本に電話して、一緒に探偵事務所をやる話がまだ生きているかどうか尋ねた。だが、彼はもう別の相手を決めてしまっていた。それは二人の高校時代の友人で、大友という男だった。高校を出た大友は、大学に行かず独学でプログラミングを学び、裏社会のハッカーとしていかがわしい情報売買を仕事にしていた。森本は、これからの探偵業にはハッキングが必要だと思い、柿坂に断られたあと、大友に話を持って行ったのだった。

 電話を切った後で、柿坂は、自分の顔が赤らむのを感じた。会社を逃げ出そうと考えていた自分が恥ずかしくなったのだ。メガソフトからも、フロイドからも、逃げ出すわけにはいかないのだ。


 柿坂は野際部長代理の紹介を兼ねて、二人でメガソフトに向かった。

 柿坂の気は重かった。野際の紹介が済んだ後、盛高社長に何と言えばよいのだろう。問題の「穴」はまだ見つかっていないのだ。

 野際の紹介が済むと、すぐさま盛高は言った。

「それで、穴はどうした」

「…それが、まだ」

「君のところのエンジニアは、給料をもらって遊んでいるのか」

「そういうわけでは…」

 そこへ野際が割って入り、平然と言った。

「それほど神経質になることはないですよ」

 盛高は野際を睨んだ。

 野際は盛高と目を合わせずに続けた。

「どんなによくできたセキュリティも、穴のひとつやふたつあるものです。完全なセキュリティなどありえません」

 野際は得意げだった。

 しまった——と柿坂は思った——メガソフトの社長にコンピュータの講義をしてどうする。野際を直接会わせるべきではなかったのだ。

 盛高は顔を強張らせ、

「大した度胸だな。穴はそのままでもいいと言うのか」

 野際が答えようとするのを、柿坂は遮った。

「とんでもない、近日中に必ずなんとかします」

「この前もそんなことを聞いた気がするな」

「二、三日の内には必ず」

 そう言う柿坂の後に、野際が再び割って入った。

「二、三日は無理でしょう」彼は足を組んでリラックスしている。「…うちのプログラマーは三流の集まりですから」

 柿坂は唇を噛んだ。自社の弱点を依頼主に宣伝して、どうする。「どうやら、無能なだけでなく、とんだ負け犬に仕事を頼もうとしていたらしいな」 

 そう言った盛高は部屋から出て行きかけた。

 柿坂は弾かれたように立ち上がった。

「待ってください、とにかく時間をください。必ず何とかします」

「もう聞き飽きた」と盛高は怒鳴る。

 その時、野際がぼそぼそと呟いた。

「ドメイン分離は行われているので、ハードウエア上での外部干渉の可能性は無い…ということまでは分かってるんですが…」

 盛高は足を止めた。

 柿坂にはさっぱり分からない。

 しかし盛高は席に戻って来た。

 野際は続ける。「今いちばん臭いと思われるのが、ファイアーウォールのバイパスで…」

 盛高の顔に笑みが浮かぶ。初めて見る盛高の笑顔だった。

「しかしスキーマオブジェクトへのアクセスが絡むとなると…」

「だが逆に、そこから可能性が狭められるだろう」

 盛高は話に乗ってきた。

「ただ問題は…」

「非パイパス性を確立してあるはずなのになぜ、といいたいんだろ?」

 それから二十分間、盛高と野際の会話は続いた。内容は柿坂に分からなかったが、盛高の顔は輝いていた。

 すっかり上機嫌になった盛高は言った。「そこまでわかっているなら、もう穴はみつかったも同然だ。あとで詳しい場所をメールしよう」

 盛高は野際の肩に手を置いた。

「頼もしい部長が新任してくれたものだ」

 野際は、いつものように皮肉っぽい笑いを浮かべていたが、まんざらでもない様子だった。

「ところで社長、いくら穴の場所をわからなくするためとはいえ、監査ログまで書き替えておくなんて人が悪い」

 監査ログ……それなら柿坂にも分かった。侵入者がコンピュータの中でどんな悪さをしたかを記録するファイルのこと。最近それを、技術の人間から教えてもらったばかりだ。技術課が調べたところ、システムの監査ログが書き替えられていた、とのことだった

 盛高は訝し気な顔をした。

「それは…、私じゃない」

「え?」

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