第5話 偉大なとっちゃん坊や

 翌日出社した柿坂は、コンピュータのスイッチを入れ、昨夜、妻に教えてもらった「ファイル検索」という機能を使って、資料のファイルを探し当てた。

 それは外国の警察や調査機関からの報告書らしく、英語の原文に日本語訳が付けられていた。

 書かれていることは、多かれ少なかれ噂のようなものだった。まず、フロイドの面が割れていない。日本人とドイツ人のクォーターで、青い目をしているらしいが、それさえ目撃者がいるわけではない。

 海外ニュース誌の六ページに渡るインタビューに、本人が堂々と登場しているのは驚きだった。Eメールを使ったインタビューなので居場所がバレないとはいえ、フロイドという奴もたいした度胸だ、と柿坂は感心した。その中で、『有名な精神分析学者と同じ名前を名乗るのは何故か?』と尋ねられ、フロイドは自分が『その学者の曾孫だから』と答えている。

 これまでのフロイドの大きなヤマは、ドイツで一件、中東で二件。どれも軍事機密がらみの犯罪で、あざやかなコンピュータハッキングで機密情報を手に入れている。だが——

 今回のヤマは美術品の足枷だ。これまでのように情報を盗むのとはわけがちがう。

 フロイドの以前の手口を研究しても無駄かもしれない、と柿坂は思う。前回のようにコンピュータハッキングをやってくるのかどうかもわからない。

 フロイドはハッカーなのか?

 同じ質問を、インタビューの中で記者がしていた。フロイドは「ノー」と答えている。「大学でコンピュータ・サイエンスを専攻していたが、今はコンピュータに興味はない」。大学の話などするところを見ると、まだ若いようだ——そう柿坂は想像した。

 警察の報告書には、仲間がいるらしい、と書かれていた。だが、これも「らしい」というだけで、確証はない。

 背中に気配を感じて振り向くと、上着を着込んだ太地部長だった。

 依頼主のメガソフトに行く時間だった。


 メガソフトの本社は、港区の湾岸にあるインテリジェントビルだった。壁面全てが鏡になっているビルは、周囲の薄汚れた倉庫の中でひときわ目立った。

 空調のよく効いた小さな会議室に柿坂と太地は通され、しばらくすると、若い女性秘書が社長の入室を告げた。

 小さな男が、足を外股にしてヒョコヒョコと入ってきた。

 これが盛高博か?

 打ち合わせテーブルから胸がやっと出る程の背しかなかった。年齢は柿坂と同じ三十代後半のはずだったが、頭が大きく、まるで子供がスーツを着ているようだ。腹はキューピー人形のようにポッコリと出ている。

 彼の後ろから入って来た気弱そうな三人の男は取締役らしい。

 盛高は、座るとすぐさま太地を見据え、

「で、フロイドについてはどうかね」

 と言った。

 めんくらった太地は姿勢を正し、

「どうかね、と申しますと?」

 盛高は小さくため息をつき、今度は柿坂の方を向いて「君!」と叫んだ。「今の時代、一番大事なものは何かね?」

「は? 大事…なものですか?」言うことが唐突すぎる。

「何をとぼけた顔してるんだ。情報だよ、情報。今の時代、何をやるにもまず情報が大事なんだ。フロイドの情報は、そちらでは集まっているのかね」

「はっ、フロイドの素性については、今のところ警察でもはっきりつかめていません。ドイツ人とのクォーターで…」

 盛高は、短い腕を振って遮った。

「そんなことは分かっている。重要なのは、盗みの手口だよ。過去の手口から、私の足枷をどうやって盗むつもりか、予想くらい出来ているんだろうな?」

「はい、たぶん、コンピュータのハッキングだと思いますが」

「思いますがぁ?推測を聞いているんじゃない。必要なのは信頼できる情報だ」

「すみません。今度までに調べておきます」

 テーブルが細かく揺れている。盛高の貧乏揺すりだった。横に座っている取締役連中の顔が緊張していた。

 盛高は疑いのこもった目で柿坂を睨んだ。

「君、コンピュータはどうなのかね?」

 どうなのかね、と言われても答えようがない。

「とおっしゃいますと?」

「君がうちの社員だったら、即、クビだな。鈍すぎる。好きだとか、嫌いだとか、答えようがあるだろう」

「どうも、苦手で」

 答えた柿坂の脛に、隣の太地部長から小さな蹴りが入った。

 女性秘書が入ってきて、社長に電話が入っていると告げた。「足枷の警備の件……」という言葉が柿坂に聞こえた。

「この方たちを保管庫に案内してあげてくれ。現場を見て、警備のプランを考えたらどうだね?」

 盛高を残し、柿坂と太地は秘書に連れられて、同じ階にある社長室に向った。

 あんな奴のために働くのかと思うと、柿坂はうんざりしていた。ひょっとして、敵はフロイドひとりではないかも知れない。扱いにくい依頼人ほどやっかいな敵はいないのだ。

 社長室に入ると新しい建材の匂いがした。柿坂は、その部屋の趣味の悪さにあきれた。フローリングの床には豹の毛皮が広げられ、部屋の隅には腰の高さほどの大きな壺が置かれていた。壺と反対側の隅には、巨大なアンティーク風の地球儀があった。とりわけ目を引いたのは、部屋の中央にある変わった形のデスクだった。ドーナツ形を四分の一切り取った扇形のデスクは、まるで子供向けテレビ番組の、悪玉司令官のテーブルだった。革張りの背の高い椅子に座った盛高が、部下を並ばせて説教を垂れる様子が目に浮かぶ。

「保管庫はあちらです」秘書は左の壁にある扉に近づいた。扉は自動的にスライドして開いた。「まだ中身は入っておりません」

 秘書に続いて柿坂と太地は保管庫に入った。

 がらんとした細長い保管庫の中を見回すと、出入口は今入った扉ひとつだけだった。壁をコツコツと叩いてみると、鈍い音がした。

「何か入っているのかな?」

「ここ全体が鉄の箱になっております。扉も見かけは木ですが、中はジュラルミンの板です」

 女性秘書が答えた。

「それはすごい。銀行の金庫なみですね」

「ええ、統一警備の方も驚いていらっしゃいました」

 そう言った秘書は、しまった、という顔をした。

 統一警備のスタッフもここに来た……ということは、盛高社長はSODと統一警備の二股をかけている? さっき、秘書が電話を取り継ぐとき、「足枷の警備」と言っていたのを、柿坂は思い出した。

「最近改装したんですね?」柿坂はそ知らぬ顔で言った。

 彼女は安心して喋り出した。

「ええ。以前このフロアは他の会社に貸していたのですが…、出版社でしたが昨年倒産しまして、フロアが空いたので、新しく社長室とこの保管庫をつくったのです」

「足枷は、今どこに?」

「社長のご自宅にございます」

「なぜここに移すことに?」

「さあ、社長がお決めになったことなので…、ただ、社長は仕事がお忙しくてめったにお帰りになることがなく、せっかく集めた美術品も、自宅では観賞する時間がないと申しておりました」

「なるほど、ここならいつでも見れると…」

 柿坂は歩き回ってあちこちをチェックし、必要なカメラやセンサーの数を頭の中で割り出した。

「フロアの見取り図と、エアダクトの配置図は見せていただけますか?」

「はい、用意してございます」

 盛高が入って来た。

 柿坂は顔色をうかがった。統一警備と話がまとまってしまったのではないかと心配だった。

「おめでとう。この仕事はおたくに決まったよ」盛高は拍手した。

「うちに依頼なさったのでは?」柿坂は皮肉を込め、言い訳を期待した。

 盛高はそれを無視した。

「統一さんが断ってきた。フロイド相手じゃ自信がないそうだ。業界一の大手のくせに、ずいぶん弱気じゃないか」

「ありがとうございます」

 お辞儀する太地の笑いが引きつっていた。柿坂もおそらく同じ表情をしていたにちがいない。

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