第3話 パソコン怖い
デスクに戻った柿坂は、どさりと椅子に沈み込んだ。
窓の外を見ると、どんよりした梅雨空だった。柿坂はますます憂鬱になった。
相手がフロイドとは運が悪い。国際的な知能犯と、自分のような、一介の警備会社のチーフとでは、格が違いすぎる。太地を怒らせてでも断るべきだったか、と柿坂は後悔した。
しかし——
そうはいかない。これは他でもない、自分に与えられた仕事なのだ。
それに太地部長の信頼に応えるチャンスでもある。
これまで部長は、口にこそ出さないが、俺を特別にかわいがってくれている。それは俺自身が肌で感じていることだ。この仕事を成功させれば、その太地部長に、ある意味恩返しができる。
だが逆に、失敗すれば——
コンピュータに疎いという俺のイメージは決定的になるだろう。そうなれば俺は社内の除け者だ。それに、顔を潰された部長は俺を恨むに違いない。
弱気になりかけた柿坂は唇を引き締め、握った拳で控えめにデスクを叩いて嫌な考えを追い払った。
——どんなに困難があっても、与えられた仕事は全力で立ち向かうのが俺のモットーではないか。
柿坂は、資料を読むために、うっすらとほこりの積もったコンピュータのスイッチをいれた。
もう資料はこの中に送られているはずだ。
時計を見ると午後五時を回っていた。
コンピュータが動き出す間に、ティッシュペーパーでキーボードのほこりを拭き取った。後ろを通りかかったアシスタントの女の子が、クスッ、と笑うのが聞こえた。
——俺がコンピュータに触っているのがそんなにおかしいのか。あるいは、体に似合わず几帳面なところがおかしいのか、…大方そんなところだろう。
まだコンピュータは始動の準備を続けている。
——まったくマイペースな奴だ。こっちの思惑など関係ない。今回もうまく動いてくれればいいが…。
柿坂は、無意識のうちにワイシャツの襟を緩めている自分に気がついて、可笑しくなった。
こんな機械相手に緊張してどうする。
起動はまだ終わらない。
会社が導入したWindows 95は最新のOSだったが、それでも起動するまでに2分以上かかることがある。
柿坂は、昼間柴崎に言われた腹の肉に触れてみる。
確かにたるんできている。
柿坂は三十八。週一でジョギングはしているが、アメフトで走り込んでいた頃と比べれば体力はガクンと落ち、ただのオヤジに近づいている。
今日が、息子の14才の誕生日だったことを思い出した。七時には帰ると約束してきたが、それまでに帰れるだろうか……
カリカリという音が止まり、コンピュータの画面が現れた。
柿坂は、資料のファイルらしきものを探したが見つからなかったので、適当なアイコンをクリックして新しいウインドウを開いた。その中にも見つからなかったので、続けてあちこちのアイコンをクリックした。画面はウインドウでいっぱいになり、見たこともない表示が現れては消えた。
そうするうちに、画面の中の矢印が動かなくなった。
柿坂は低い唸り声を上げた。
——これはフリーズというやつだ。やっかいなことになったぞ。こうなるとコンピュータは何の操作も受けつけない。電源を切ることさえできやしない。
退社する女の子が、後ろを通った時に、またクスッと笑って行くのが聞こえた。
助けてくれたっていいじゃないか……
まわりを見回すと、部下の野際がまだ残っていた。
部内でハッカーとあだ名を付けられている野際なら、コンピュータはお手のものに決まっている。だが、それを人に教える時の自慢げな態度が、柿坂の気に食わなかった。コンピュータに無知な人間はまるで格が落ちるとでも言わんばかりのところが、野際にはあった。
柿坂は電話の内線ボタンを押し、技術課の番号をダイアルした。
出たのは、何度か仕事で口論になったことがある島田だった。
「十分後に行きます」と言った島田は、三十分以上してから現れ、若禿げの進行した頭のてっぺんを柿坂に見せながら、あっと言う間にコンピュータを直した。
「こんなことで技術課が呼び出されたのは、前代未聞ですよ」
人をじっと見る島田の、冗談なのか本気なのかわからない据わった目が、柿坂を落ち着かなくさせた。
時間は八時を過ぎていた。
——ファイルを読むのは明日だ。…しかし、出だしからこんなことで、俺はフロイドに立ち向かえるのか…
帰りの電車で柿坂は『Windows 98 登場!』という広告を見た。二人のサラリーマンがそれを指差しながら、「98」のどこが凄いかを興奮して語り合っていた。
柿坂は、また、背中に刃物を当てられたように感じる。
——いつかは真面目にコンピュータの勉強をしなければいけない。それは分かっている。世の中どっちを向いてもコンピュータだらけなのだし、フロイドが得意とするのも、コンピュータハッキングなのだ。
分かってはいるが……
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