第4話
「ところで、藍田さんこの辺の人じゃないって言ってましたけどどうしてここに?」
彼が疑問を口にした。
「大学生の妹がこの辺に住んでて、健康の権化かというほどの体質なくせして風邪をひきまして。全く、何とかは風邪をひかないはずなんですけど。その看病のために来たんです。その帰りに雨に降られて迷子になって今に至ります。全く、遠くに住んでるのに社会人を呼び出さなくても……。たしかに事故あったときは世話してくれたけど」
「事故……」
彼の暗い顔。
「あ、すみません。あんまり触れない方がいいですよね」
「いえ、構わないです。怪我の方は?」
「頭打ってちょっと記憶が飛んでるらしいです。でも全然気にしてないですよ。なんというか、テストとかで前日やったのに出てこない、みたいな感覚なので。それに二ヶ月前のことですし」
「二ヶ月、ですか……。気にしてないならいいんですけど」
「……でも、事故にあった日から心にぽっかり穴が空いたような気持ちになるんですよね。寂しい、とも何か違うような。記憶が欠落してるのと関係あるのかな」
思えば、こんなこと誰にも、家族にも打ち明けたことがない。ずっと感じていたことなのに。
──ごめん。
彼がそう言ったような気がした。雨の音にかき消されるほどの小さな呟きだった。
「え?」
「え?僕何か言いました?」
「言いませんでした?」
「自覚は、してないです」
「……そう」
不思議な雰囲気を纏った彼。惹かれる自分がいる。でも、彼は大切な人を失ったばかり。もっと彼に近づきたいのに、何かがそれを拒絶する。気持ちに蓋をしようとする。頭が痛む。もやもやする。その正体は分からない。分かりたくないし、知りたくない。彼に近づけば分かってしまう気がする。
バスはいつ来るのだろう。雨はいつ止むのだろう。願わくばこの時間が、ただ隣にいれるだけのこの時間がずっと続きますように。
でも、現実は非情だ。
雨足が徐々に弱くなっているように感じた。
「……戸崎さん」
優しく話しかける。
「はい?」
彼は首を傾けて受け答える。
「私は悪い人間です」
「というと?」
「あなたが大切な人を思い続けているのにも関わらず……いえ、気にしないでください」
「気になるじゃないですか」
「意地悪な人ですね。そんなに気になります?」
気持ちを整理するように大きく深呼吸をする。肺いっぱいに雨の匂いが溜まり外に出て行く。
「……その、何が言いたいかというと……私、あなたのことが好きみたいです」
「……え?」
少しの間ののち、彼はさらさらとした髪を揺らした。目を見開いて私の目を真っ直ぐに見つめていた。
こちらが気恥ずかしくなって目を背ける。
「なんというか息が合うというか、まあ、私があなたの人柄に惹かれただけですけども。居心地がいいんです、あなたといると。これからもずっと一緒にそばにいたいって思っちゃったんです」
突然頭がぐらついた。座っているのが精一杯だった。目が回る。目を開けていられないほどに。頭が痛む。音なき声で叫ばずにはいられないほどに。
何かが頭の中を駆け巡る。何かが私に入ろうとする。拒絶。否、拒絶することなどできない。
私の手に柔らかい何かが触れる。彼が心配してるのだろう。
それを機に蓋が開く。
奥底から光が、あるいは闇が溢れ出て、私の視覚を、嗅覚を、触覚を、私の全てを覆い尽くしていく。
目の前が真っ白になった。
買い物帰りに、いつもの街を彼と一緒に歩いていた。雨が降っていてじめじめとした日だった。
私は同じ傘の下にいる彼の方を向いた。私より背が高くて私の苗字と同じ藍色のシャツを着た線の細い整った顔つきの彼。
私の視線に気づき、「どうしたの?」と聞いてきた。
「アイス楽しみだなって」
「アイス好きだよね」
「アイス美味しいじゃん」
「そうだね」と言って彼は微笑んだ。
「ねぇ、結婚式場どこにしようか?」
「うーん、もっと見て回りたいな。一生に一度だからしっかり決めたい」
「そうだね。一生に一度だもの」
婚約指輪を撫でた。あなたとの幸せの証。
目の前の信号が赤になり、交差点の前で立ち止まった。車道は度重なる雨で大河のようになり、車が通るたび水しぶきをあげていた。
甲高いブレーキ音が遠くから聞こえた。
雨で滑ったのかな。そう思って音の方を向いた。
まっすぐこちらに突っ込んでくる白い軽自動車。
危ないと思った時には遅かった。彼が私を押しのけた。思わず買い物袋を手放し、中身が散らばっていった。ふらついた私は後ろに倒れ込み、頭を打ち付けた。
その一瞬前、激しい衝突音が聞こえ気がした。
次に目を覚ますと白い天井が見えた。どこだろうと頭を動かした。激しい痛みが襲い、思わず頭を押さえた。触れる固い感触。包帯が巻かれているようだった。痛みに耐えながらも頭を動かすと、窓があり、そこから青い空と白い入道雲が見えた。
入道雲が車と重なった。
誰かが駆け寄ってくる音が聞こえた。美里だった。どうやらずっといてくれたらしかった。
美里に彼のことを聞いた。何も答えてくれなかった。
母がきた。母にも聞いた。何も答えてくれなかった。
彼の母親がきた。彼女は答えてくれた。
私は泣き崩れた。受け入れたくなかった。その事実を、現実を。
彼のいない世界なんて、世界なんて!
激しい頭痛に襲われた。耐えきれずそのまま意識を失った。
今ならわかる。その時初めて記憶を失ったのだ。彼に関する記憶を。
そして、全て思い出した。思い出してしまった。
どうやら頭痛は治まったようだった。目の前には私が大好きな彼がいた。
「ねえ、紫苑くん。あなた、どうしてここにいるの?」
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