第2話
パシャ、パシャ、と誰かがこちらに歩いてくる音が聞こえた。たぶんここに入ってくるのだろうと思い、私は座り直した。
バス停の屋根の下に男の人が入ってきた。横目で彼を見る。
線は細いけれど整った顔つきの男の人だった。どうやら彼も傘を持っていなかったらしく、私と同じスカイブルーだったはずのシャツが濡れて紺色になっていた。
彼はこちらを気にすることもなく、私と反対側の端に座った。彼は脚を開いて膝に肘を置くように前かがみになり、指を組んでそこに額を載せて溜息をついた。まるで何かを悔やむような、深く、長い溜息だった。
「どうか、したんですか?」
思わず声を掛けてしまった。彼は、はっと顔を上げ、驚いたような顔をこちらに向けた。
「……え?」
彼は絞り出すような声を出した。
しまった。完全に引かれてしまった。それはそうだろう、知らない人が急に話しかけてくるんだから。
「あ、いや、なんでもないんです。なんか悩んでるみたいだったから……す、すみません。初めて会うのに馴れ馴れしくしてしまって」
私は慌てて弁明した。しかし、彼の視線は泳ぎ、再び俯いてしまった。
「あの、ご気分を悪くなされたなら謝ります……」
すると彼は焦ったようにまたこちらを向き、両手を胸の前に上げた。
「違うんです。全然そういうのじゃなくてただ……ただ、驚いただけです。あなたがいるとは思わなくて。まさかこんなところに人がいるとは。こちらこそ変な心配させてすみません」
彼は軽く頭を下げて、私は胸をなでおろした。
「なんだ……そうだったんですね。そうですよね、この辺り人気がなくて誰もいないんじゃないか、なんて私も思ってました」
彼との間に沈黙の空白が生まれ、雨音がその隙間に割り込んでくる。雨音が支配する静けさに耐えきれず、彼に質問を振ることにした。
「あの、あなたはここら辺の方なんですか?」
彼は唇を『へ』の字に曲げ、しばらく考えこんでいた。
「……この辺といえばこの辺なんですけど、でもこの辺ではないといいますか……近からず遠からずといった感じですね。あなたは?」
「私はただ身内がこの辺に住んでて、たまたま来ただけです。一応近くってことはこのバス停へは何か用事があって?」
「ええ、まあそんなところです。行かなければいけないところがあって」
「なるほど。私みたいに雨宿りのためだけではないんですね」
私は小さく笑うと、彼も釣られて笑みを浮かべた。優しそうな微笑みだった。
「そうだ、雨といえばひどく濡れてるようですけど寒かったりしませんか?バスもまだ来ませんし上着貸しますけど」
「大丈夫ですよ、そんなに寒くないですし。強いていうなら靴の中が気持ち悪いくらいで。そういうあなたこそ濡れてるじゃないですか」
彼は驚いたように自分の服を見て苦笑を浮かべた。
「え?いえ、これは……そうですね。普通に考えれば僕も濡れますよね。なんで気づかなかったんだろ」
きょとんとしながら彼を眺め、なんだかおかしくなって再び笑みをこぼす。
「変な人」
「そうですね、なんか変だ」
そうやってまた、笑いあった。
「あなたは雨が嫌いですか?」
彼が聞いてきた。なんだか距離のある聞き方だった。原因は分かっている。
「あの、藍田って呼んでください」
「え?」
「私、藍田美咲です。まだ雨は止まなそうですし、せっかくだから名前でやり取りしましょうよ」
「……そうですね。こちらもまだバスは来ませんし、ずっと『あなた』で通すのも嫌気が差しそうですしね」
彼は何かを決め込むかのように深呼吸をした。
「戸崎です。戸崎紫苑」
「トサキさん」
「はい」
心地の良い名前だった。優しそうな彼に合ったいい名前だと思った。
「見知らぬ私のお話に付き合ってくれてありがとうございます」
「気にしないでください。こちらも楽しませてもらってます。それで、藍田さんは雨が嫌いですか?」
視線を落とし、自分の濡れた足元を見る。視界の端の道路に、雨でできた川が見えた。
「はい、寂しい感じがして好きになれないです。昔は好きだった気がするんですけどね。トサキさんは?」
「僕は逆ですね。昔は嫌いでした。ちょっと前まで。でも、最近は雨の日も悪くないなって思えるんです。ほら、こうやって不思議な出会いがあるかもしれないですし」
どうやら私は顔を赤らめていたらしい。彼は慌てて付け加えた。
「あ、決して変な意味じゃなくて、口説いてるとかそういうのではないです」
「いいんですよ?変な意味でも。……冗談です。そうですよね、晴れだったらあなたみたいな面白い方に会えなかったわけですもんね」
「そう言われるとなんか照れるなぁ」
彼は恥ずかしそうに頭を掻いた。そんな彼を横目に周りに目をやる。
雨は止む気配を見せず、モノクロの世界が紺色の私たちを包み込む。空を見上げても、いつか遠くに見たソフトクリームみたいだった入道雲の底しか、見え……ない、って、あ……!
「アイス」
思わず思考が口から飛び出す。
「え?」
彼は頓狂な声を出した。私は彼に向き直した。
「アイスですよアイス。私買ったんだった。忘れてたぁ……。溶けちゃうや。そうだトサキさん」
「はい?」
「食べましょ、アイス。二つあるんです」
「え、それ食べていいものなんですか?」
「アイスは食べるものです」
「そうですけどそうじゃなくて、それは誰かに買ったとかでなく?」
「溶けたら元も子もないですよ。ほら、スプーンもつけてもらったんで食べましょうよ。遠慮なさらず」
買い物袋を漁ってカップアイスを取り出し、片方をスプーンと一緒に差し出す。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼は近くに座り直してアイスを受け取った。
「ゴミはこちらに」とビニール袋を椅子に置く。
蓋を開けると、白いアイスが顔をのぞかせた。息を吸うと雨の匂いに混じってバニラの香りが鼻に入ってくる。プラスチックのスプーンを個包装から取り出し、アイスに突き立てる。少し溶けたアイスはすんなりとそれを受け入れた。掬って口に運び入れる。口の中に冷たい甘さが広がり、頬が緩む。
ちらっと彼の方を見る。彼もまた、味を噛みしめているようだった。雨の雫が涙みたいに顔を流れていったように見えた。
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