第10話『心眼』

 うららかな春の日差しが降り注ぐ、のどかな公園の午後。

 ある女性の周囲に、沢山の子どもたちが群がっていた。

「お姉ちゃん、ボクのことも描いてぇ」

「ワタシも、ワタシもぉ」

 杉浦悦子は、描き上がった絵を丁寧にスケッチブックから切り離し、子どもの一人に渡す。

 絵をのぞき込んだ女の子の顔が、パッと輝いた。

「わぁっ、ワタシそっくりだぁ」

 自分の分身をそこに見るかのように、驚きをもって絵を見つめる。

「ありがとう」

 女の子は、宝物を抱えるように、大事そうにその絵を持ち帰っていった。

「……えっと、順番だと次は君だったかな?」

「うん!」

 男の子が、公園のベンチに座る悦子の前に立つ。

 悦子は、新しい白紙のページに、新しい命を吹き込んでいくのだった。



 春休み期間の午後の中央公園は、にぎわっていた。

 今、この公園の中では沢山の人を集めている二人の人物があった。

 一人は彼女、杉浦悦子。

 彼女は、画家を志して芸大に入り、卒業した。

 しかしその後大きなチャンスにも恵まれず、美術展に出展するも選には漏れ——

 それでも、彼女は『描くこと』をやめられずに、遊園地やテーマパークで客の似顔絵を描いたりして収入を得、休みの日にはスケッチブック片手に散歩するのだった。

 もともと人の良い彼女は、子どもらにせがまれると嫌な顔ひとつせず、リクエストに答えて似顔絵を描いてあげたり、子どもに人気のあるアニメのキャラクターを描いてあげたりするのだ。

 そして、もう一人の人物とは——

 ギターをかき鳴らして歌う、長い髪の女性であった。

 彼女の周りを、立ち止まって歌を聴く者が取り囲んでいた。



 群がってきた子どもたち全員に絵を渡し終えると、とりあえず悦子の周囲は静かになった。やっと一人になれた悦子は、公園の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 寒かった冬も、ようやくその終わりを告げ、空気の中には大地から伝わるほのかな暖かさと、桜の花の息遣いがこもっているように感じられる。



 ……いいなぁ。

 描きたいなぁ。



 しかし、彼女はすぐには画用紙にペンを走らせることはない。

 悦子には、絵を描くのに妙な癖があった。

 それは——



「こんにちは」

 悦子が風景に見とれて夢想状態に入っている時。急に、後から声をかけられた。

 振り返ると、そこには長身で髪の長い、魅力的な女性が立っていた。

 芸術家肌の悦子は、見抜いた。



 ……何の分野かは知らないけど、この人何かをとことんまで極めた人だ。



 ほどなくして、彼女のその疑問は解けた。

 なぜなら、そのロングヘアの女性は大きなギターケースを背負っていたからだ。



「そうなんですか。あなたは音楽を——」

 ベンチに並んで座った二人は、旧知の友のように語り合った。

 風にそよぐ桜並木から時折こぼれる花びらが、二人の語らいを彩る。

 ギターの女性の名前は、由貴。 

 風来坊のように、日本全国を気の赴くままに旅して、好きに歌ってまわっているのだという。

「いいなぁ。私もそんな風に、絵のことだけ考えて生きれたらなぁ」

 由貴は、身を乗り出して悦子の顔をのぞき込んできた。

「どうして、そうしないの?」

 悦子は、苦笑いで答える。

「多分ね、私には人がうまいね、って言ってくれるレベルの絵しか描けないの。大学でも頑張って描き続けたけど、教授にも弟子入りしたかった先生にも認めてもらえなかった。もしかしたら私、これ以上真剣に絵を描いて、傷つくのが嫌なのかもしれないわね」



 今まで親しげだった由貴の表情が、真剣になった。

「何それ」

 悦子はドキッとした。明らかに、彼女は怒っている。

「やってみなくちゃ、分かんないじゃない」

 由貴は、立ち上がって悦子を見下ろした。

「あなた、苦しいんでしょ。自分はダメだと思う一方で、絵が好きな自分を否定することもできないでいるー。私はどうしたらいいの?って叫んでる」

 考えないようにして逃げていたが、由貴の指摘は図星だった。

「分かった。あなた、たった今から自分の人生に決着をつけなさい」



 次の日から、毎日二人は公園のある場所に立った。

 はたから見れば、二人が何をしているのか不可解であった。

 朝から晩まで、ただジッと立って、風景を眺めているだけなのだ。

 悦子が絵を描く時の癖。それは描こうとする対象物を、納得のいくまでとことん観察することから始まるのだ。

 一番長くて、描き始めまで三ヶ月かかったことがある。

 本人の中でいつゴーサインが出るのか、それはまったく予測不能である。

 雨の日も、風の日も。

 公園の緑を、桜を——

 ただ見つめ続けた。



「ダメ。私にはやっぱり描けない……」

 二週間もたった、ある日のこと。

 悦子はガックリと地面に膝と手ををついた。

 顔を伏せてしまった彼女の表情は分からないが、次々に落ちる大粒の涙が、乾いた土にしみこんでゆく。

 由貴は、そんな悦子を静かに見下ろす。

「もういやあああああああああ」

 思い切り右手を振り上げた悦子は、力任せにこぶしを地面に叩きつけた。

 小石を含んだその地面は、悦子の手に無数の傷を作る。

 そして、にじんだ血が土を染める。

 由貴は、特に声をかけることをしなかった。

 ただ、ケースからギターを取り出すと、歌はなしであるメロディーだけを弾き始めた。(ジョージ・ウィンストン 『Colors/dance』 )


 

 一体、何時間泣き続けただろうか。

 泣くことにも疲れた悦子は、ふと無心で木々の枝の間から降り注ぐ木漏れ日に、涙に濡れた目を上げた。

 風が、吹く。

 どこから来て、どこへ行くの?

 悦子の濡れた頬にそれは、ひんやりと冷たかった。

 見る角度によって、光のプリズムは様々な表情を見せた。

 春夏秋冬、季節は変わる。

 晴れの日雨の日、曇りの日風の日ー。

 目に見えて違うもの、その中でどんな見え方をしようが変わらないもの——

 不変なもの、普遍なもの……



 悦子は、雷に打たれたように体を震わせ、苦痛からそこら中を転げまわった。

 顔色ひとつ変えずに、演奏を続ける由貴。

 はた目には、それは異常な光景であったに違いない。

 しかし。それは二人の芸術家の、真剣勝負であり、戦いであった。

 そしてついにある時、悦子の類まれなる感性と特殊な視覚の捉え方は、ついに見えぬものを捉えた。

 この瞬間。彼女に何かが宿った。

 何かが、取り憑いた。そう表現して差し支えない。

 先ほどまでの、おびえたような自信の無さは、もう見る影もない。

「……見えた」

 悦子の両の目は、見える風景のさらに向こうにあるものを刺し貫いた。



 眺めるだけだった悦子が、とうとうカンバスに絵を描き始めた。

 タイトルは、『四季』 。

 公園の春夏秋冬、それぞれの顔を四枚の連作で描く大作になる予定だ。

 本格的に画材も持ち出してきて、狂ったように筆を躍らせていった。

 子どもたちも、毎日のように悦子と由貴を見に来た。

 食事などを差し入れてくれる大人も現れた。

 そうして、春はゆっくりと過ぎていった。



 夏。

 由貴は音を出し、悦子は筆に魂を込める。

 空は突き抜けるような青・蒼。

 立っているだけで汗がにじむ、この熱気。

 命という命が、すべてあふれんばかりの息遣いを見せる灼熱の季節。



 ……大地を描くなかれ。大地とひとつたれ。



 毎日、彼女の筆は休むことを知らなかった。

 雨の日も、雨合羽を着た二人は絵を描かずに雨に打たれた。

 その中から、何かに出会おうとするかのように。

 そうして、夏が過ぎていった。

 由貴は、カンバスに向かう悦子のかたわらで、音楽を奏で続けた。

 (ジョージ・ウィンストン 『Summer - Fragrant Fields』 )



 秋。

 静かに静かに、すべてが変わってゆく。

 動から静へ。燃える命から、次の命を生む準備へとー。

 紅と朱と焦げ茶と、やまぶき色の世界。

 時折公園を吹き上げる風が、真っ赤な葉を宙に浮かび上がらせる。



 ……風よ。もう一度私に吹いて。



 私こそは風。風が教えてくれた——。

 由貴と悦子の付き合いも、もう半年以上になる。

 風来坊の由貴が、こんなに長くひとところに留まるのは、珍しいことである。



 二人はこの公園、いやこの地域ではすっかり有名になった。

 大人も子どもも、皆が絵の制作現場を見にやってきた。

 元気一杯でうるさいはずの子どもも、悦子の絵をのぞきこむと誰もが黙り込んで見入ってしまう。

 悦子の絵には魔力があった。いや、実際に何かが棲んでいるようだった。

 大人の中には、涙を流して絵を見る者もあった。

 時は移ろう。季節は変わる。

 しかし、鬼の目をした悦子と優しい由貴の音楽だけは、その地にあってまったく変わることがなかった。

 (ジョージ・ウィンストン 『Longing/Love 』 )



 冬。

 完全な静。

 命の火が消え、寝静まったかのような世界。

 来るべき命の季節に備え、じっと耐えるかのような自然。

 悦子は寒さを、そして冷たい風を…無視した。

 彼女は、まやかしの風景の正体を見破った。



 ……みんな生きている。



 燃えている。

 真っ赤に、燃えている。

 愛が。

 この世界の正体は、愛。

 愛が、燃えているんだ!

 何にも動じることなく描き続ける悦子に、由貴は満足の笑みをもらす。

 二人の吐く白い息が、冬の公園に立ち昇る。

 四季は四季であって、また四季ではなかった。

 答えは、ひとつだった。

 (ジョージ・ウィンストン 『December』 )



 絵は、ついに完成を見た。

 完成の瞬間、由貴と悦子は抱き合って泣き崩れた。

 子どもたちは、みなバンザイをして喜んだ。

 地元地域の協力で、悦子の絵のささやかな展覧会が行われた。



 やがて、由貴は悦子のもとを去った。

 悦子の手を握り、まるで 『ちょっと出かけてくるわね』 とでもいうようなさりげなさで、由貴は悦子の前から消えていった。

 連絡先も分からない。次に会う約束もしていない。

 しかし、悦子にとってそれは大した問題ではなかった。

 卓越した芸術家同士には、どうでもよいことであった。

 神がめぐり合わせてくれるならば、また会うこともあるかもしれない——

 それだけで、よかった。



 悦子の絵は、二科展で入選。

 それをきっかけに、その後の日本美術史に少なからず影響を与える画家となった。

 月日は過ぎ、時代はめぐり——

 今でも、彼女の描いた渾身の四枚の絵は、ある美術館に飾られている。



 ある晴れた日の午後。

 ギターを抱えた長身の女性は、二時間ほどその絵の前に立ち尽くしていた。

 満足気な笑みを浮かべると、やがてそのシルエットは美術館の出口へと吸い込まれていった。



 外では、また春がその訪れを歌っていた。

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