第8話『明日に向かって跳べ』
泣かないと決めていた清美は、ジワッと湿る目に必死に力を入れた。
そんなことをしたって、大して涙の制御などできるはずはないのに。
重力に逆らえなくなった大粒のひとしずくが、ポタリと地面に落ちた。
幸い、夕闇迫る小学校の校舎には職員室にいる教師たち以外に人はいなかった。
だから清美は、泣いているのを誰にも見られずに済んだのだった。
杉本清美は、つい最近転校してきた。
小学校6年の二学期だ。
もう少しで卒業という時期に転校なんて、あり得なかった。
辛かったが、父親の仕事の都合でどうしようもないことであった。それまで仲良くやってきて一緒に卒業を迎えるはずだった友達は、泣いて別れを惜しんでくれた。
そうしてやってきた、現在の小学校。
普通あり得ない時期に転校してきたこの少女に、クラスメイトたちは冷たかった。
冷たいどころか、陰湿ないじめまで行ってきた。
今日も、グループで力を合わせて行うはずの課題を、たった一人で終わらせた。
誰からも声をかけられなかった上に、清美が声をかけても彼らは『沈黙』をもって答えた。
要するに、無視である。
確かにもっとたちの悪いいじめはあるし、それに比べればマシな部類だと言えなくもなかった。
しかし、慣れ親しんだ土地とそれまでの友人から引き離され、見知らぬ土地に放り込まれなじめずにいる少女の胸中を考えれば、これとて最大級の拷問にも等しいと言えた。
清美は、帰り道にある公園に寄り道した。
赤いランドセルと体操服の入った手提げバッグをすべり台の横に置いた。
そして、清美は手に縄跳びの縄を持つと、公園の中央に進み出て跳び始めた。
彼女は、辛いことや悲しいことがあると、縄跳びをした。
元来器用で持久力もある清美は、縄跳びを得意とした。
二重跳びやエックス跳びなどはもちろん、普通の前跳びなら1000回は軽くひっかからずに続けられた。
夕日を浴びながら、ただ一人彼女は跳ぶ。
体全体が上下に揺れて、清美の涙を拭い去ってくれる。
しばらく跳んでいると、どこからかギターの音とともに、美しい歌声が聴こえてきた。清美は、この歌を聴いたことがあった。確か、音楽の授業で習った。
ビゼー作曲の、『小さな木の実』 という歌。
父親を亡くした少年のことを歌にしていて、歌詞が歌詞だけに切なくなる曲だ。
縄跳びの手を止めずに、清美は歌声のする方に顔を向けた。
いつの間にそこいたのか、声の主であるスラッと背の高い女性が一人、ギターを抱えてベンチに座っていた。
彼女の長い黒髪が、夕日を受けて茜色に照り映えている。
当然、清美も会ったことのない人だ。
なのに、なぜか昔からの知り合いであるかのような奇妙な錯覚にとらわれた。
弾き歌いは続く。歌詞もメロディーも切ないものなはずなのに、あの女性が歌うとどこか元気づけられるような気がしてくるから不思議だ。
まるでその女性は、清美のことを全部知った上で語りかけてきているような気がしていた。
歌、というものを通じて。
清美は、日がすっかり暮れるまで飛び続けた。ギターの女性も、清美の気が済んで縄跳びをやめるまで、ずっと弾き歌いを続けた。
帰りしなに、二人は一言だけ言葉を交わした。
「ありがとう。お姉ちゃん、お名前は?」
ギターケースを背中に抱え上げた女性は、しゃがんで清美の目線に立って言った。
「由貴」
その日から、清美は夕方に公園で由貴と名乗る不思議な女性と出会うようになった。別に、次に会う約束をしていくわけでもない。
清美が思い立って寄り道をするたびに、由貴が偶然公園にいるのだ。
会話も、ほとんどしない。
ただ清美は縄跳びを続け、由貴は横で歌う。
そうやって清美は、学校での辛さも忘れて、元気になることができた。
二人のそんな不思議な関係は、2週間あまりも続いた。
突き抜けるような青空の下、6年生全員による『縄跳び大会』は開始された。
マイクを通して、開始の合図がかけられようとしていた。
「それでは……用意」
体操服姿の小学生達は、一斉に身構える。
「スタート!」
子どもたちの体は、同時に宙に跳び上がった。
ルールは、単純だ。
跳んだ回数は関係ない。
前跳びを続けて、引っかかった者からその場に座っていく。
そして、最後まで残った者がチャンピオン、というわけである。
「あ~あ、引っかかっちゃったよ」
100回も跳ばないうちに、すでに各クラスの三分の一は座っていた。
そして、経過時間5分になると、もう学年全体で15人ほどしか跳び続けていなかった。
3組の生徒たちは、この時非常な驚きに打たれた。
「うそっ、杉本さんまだ引っかかってないんだ?」
清美のクラスメイトたちは、彼女が縄跳びを得意とすることを初めて知ったのだ。
「10分経過です!」
回数にして、もうじき千回に達しようとする頃。
この時まだ引っかからずに跳び続けていたのは、たった4人だけだった。
残りの者は、自分のクラスの生き残りを必死に応援しだした。
「頑張れっ、杉本さん!」
清美は、我が耳を疑った。
この時、他のクラスの二人が力尽きた。
残るは、他クラスのある男子と清美の二人だけとなった。
かくして、優勝はこの二人のどちらかに絞られた。
「すげ~よ! お前、転校してきてくれてよかったよ」
その一言は、清美の心をえぐった。
目から、涙があふれた。
清美は、今すぐにでも座り込んで泣きたかった。
しかし、応援してくれるクラスメイトのために歯を食いしばって耐えた。
とうとう15分を超えた。回数も、1500回に達しようとしていた。
もう一人の男子も、まだ飛び続けているらしい。
自らの限界が近いことを感じ取った清美は、もうろうとしかける意識の中で——
不思議なものを、視界の中にに捉えた。
「えっ、由貴お姉ちゃん!?」
ギターを抱えて校庭の向こうからやってくるのは、どう見てもあの由貴だ。
不思議なことに、先生方は誰一人見とがめない。
そうして由貴は真っ直ぐ、清美のそばまで歩み寄ってきた。
由紀はギターを構え、おもむろに歌い出した。
まだ子どもの清美は知らなかったが、これは懐メロの部類に入る岩崎宏美の『聖母たちのララバイ』という曲だった。
応援の歌にしてはしっとりとした曲調だったが、胸に迫るものがある歌だった。
「杉本さん、ぜったい一位になろうね!」
「今度、縄跳び教えてよ!」
クラス全員が、由貴と一緒に清美を取り囲む。
由貴の歌声と子どもたちの声援が、ひとつに重なった。
それは、不思議な光景だった。
誰も、由貴の存在をヘンに思ったり、不思議がったりしていない。
その場に当然いる者のように、誰も気にかけたりしなかった。
この地に越してきて初めて、清美は心からよかったと思えた。
声援が止み、由貴のギターの調べと歌声だけが場を包んだ。
子どもたちが応援をやめたというわけでは決してない。
固唾を呑んで、真剣に見守っているのだ。
由貴の歌が終わった瞬間、マイクを通して先生の声が響いた。
「え~ただ今、1組の丸井君が終わりました。よって、最後まで残った3組の杉本清美さん、優勝です。おめでとう!」
3組は全員、清美に駆け寄ってその体を抱え上げ、胴上げを始めた。
「杉本さんバンザイ! 杉本さんバンザイ!」
空中で上下に揺れながら、清美は涙に曇ったその瞳の隅に、去り行く由貴の後姿を捉えていた。
……お姉ちゃん、もう行っちゃうんだね。バイバイ、ホントにありがと——。
何となく、そう思った。
由貴は一度だけ清美を振り返ってにっこりと笑うと、校庭から姿を消した。
その後、由貴が清美の前に現れることは二度となかった。
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