第7話『本当に持つべきもの』
新宿歌舞伎町のキャバクラ『プレステージ』 、午後9時。
きらびやかな、茜色の照明の下。
着飾ったドレスの女たちと、その蝶を求めてやってくる男たちとが、束の間の憩いに身をゆだねていた。
琥珀色のグラスの中で、溶けかけたアイスがカラン、と揺れる。
決して眠ることのない大都会の夜は、一睡の夢のように過ぎていく。
店内の、グランドピアノがある特設ステージの横に、ギターを奏でつつ歌う女性が一人。 不思議なことに、その女性はキャバ嬢たちのようにきらびやかなドレスを着ていない。
デニム地のカジュアルな服に身を包んでおり、一見場にそぐわない人物に見えた。
しかし、彼女が歌いだすと、皆が静かに耳を傾けた。
歌は日本語ではなく、ドイツ語のようだ。歌詞の意味はその場の誰にも分らなかったが、それでも胸が締め付けられるような切なさが皆の心をつかんだ。
客との会話こそがキャバクラの売りであり、演奏はあくまで場の引き立て役なのだが——
驚いたことに、テーブルによっては客の男もキャストも、両方が静かに彼女の歌に耳を傾けている所すらあった。
入り口のドアが開き、来客を告げるカラン、という音がした。
黒服が飛んで出迎えると、それは客の来訪ではなかった。
「こっ、これは社長!」
黒服は、間髪入れずダッシュで店の奥に向かう。彼と入れ替わるような形で、プレステージの店長が直々に社長の勝又を迎え入れた。
「わざわざお越しくださいまして、ありがとうございます」
実は、店長は内心焦っていた。
このアポもない突然の来訪は、いわゆる『抜き打ち視察』である。
勝又社長は、ここ以外にも歌舞伎町に3軒、銀座に2軒、渋谷に1軒のキャバクラを経営するやり手実業家であった。機を見るに敏で、お水のビジネスに関しての手腕は超一流と言えた。
「……顔に焦りが出ているぞ」
勝又は、店長の緊張ぶりを見て苦笑した。
「まぁ、今日はキャストや黒服たちがどんな働きをしているか見せてもらうぞ」
テーブルの一角にどっかりと座った社長は、いつもの癖で店内を隅から隅まで眺め回しはじめた。もちろん、すべてにおいて社長のお眼鏡にかなう状態に保たれているかどうかをチェックするためだ。
店長の若木は、水割りを作りにいったん奥へ行った。
普通、こういうものはテーブルにつく女の子がその場で作るものだが、客優先・店優先がモットーである社長は、自分には誰もつけなくていい、と言い渡してあるのだ。
……ん、これは何だ?
勝又は、不思議なものを見た。
普通、キャバクラで演奏者を雇う場合、ほとんどの場合はピアノだ。
まれに管弦楽器のこともあるが、ギターというのは実に珍しい。
しかも、恰好はジーパンにシャツ。靴などはスニーカーではないか——。
「若木君」
水割りを持って現れた若木に、勝又社長はすぐに声をかけた。
「あのギターの女、なぜここで演奏をしている?」
やっぱり聞かれたか、という表情で若木は言い訳をした。
「いつものピアノ奏者が急病でキャンセルになってしまったんです。どうしようかと思っていたところに、私が出勤時に路上で演奏しているあの女性を見つけて、ここで歌わないかと誘ったんです。その……あまりにも感銘を受けたもので」
シドロモドロになっている店長をよそに、勝又は目を閉じて歌に聴き入った。
「ふ、服装はともかく、思わず引き込まれるいい歌を歌う子ですよ」
「……確かに、いい歌だ」
勝又は、グラスを片手でくゆらしながらうめいた。
「社長は、今流れている歌をご存知ですか? 私には、チンプンカンプンです」
ギターの女の神秘的ともいえる透き通った歌声は、朗々と店内に響く。
「これは、ドイツの反戦歌だ。確か『リリー・マルレーン』という曲だ」
店長も、勝又の向かいに腰を下ろし、しばし聴き入った。
「……若木」
ややあって突然勝又に声をかけられた若木は、不意を突かれてビクッとした。
「は、はい?」
勝又が煙草をくわえると、若木はすかさずライターを差し出す。
「演奏が終わったら、あの女を俺のところへ連れて来い」
「はぁ」
それを聞いた若木は、不思議そうな顔をした。
「呼んで、どうなさるおつもりで?」
勝又の瞳が光ったように見えたのは、ライトの照明のせいばかりではないだろう。
「興味が湧いた。ちょっと話をしたい」
ギターの女の歌が終わった。
どこからともなく拍手が起こり、やがて満場を巻き込む喝采となった。
このような場で、演奏者に全体からの拍手が送られることは滅多にない。
中には、涙を浮かべているキャバ嬢までいた。
「名は、何だ」
目の前のまったく飾り気のない女性は、勝又の鋭い視線の前でもまったく物怖じすることなく、質問に答えた。
「由貴、と言います」
まったく飾り気はないのに、長い髪とちょっと日本人離れした顔立ちが魅力的だ。
灰皿に煙草の先を押し付けて火を消すと、勝又はまっすぐに由貴を見据えた。
「どうだ。これからうちのグループで専属の演奏家になって歌ってみないか。望むなら、芸能界への進出も手助けしてやろうじゃないか」
由貴は、静かに目を伏せた。
「……お断りします」
それを聞いた勝又は、由貴への興味がさらに湧いた。
彼の周りには、エサをちらつかせれば尻尾を振ってくるような人間ばかりだったから。即答でこの好条件を蹴るとは、驚きだった。
「ほう。それはまたどうして? お前の職業は一体なんだ?」
由貴は、勝又に語った。
職はないこと。
今は全国を旅して歌ってまわる、風来坊のようなものだ、ということ。
「……あなた、かわいそうな人ですね」
勝又を通り越して、さらにその遥か彼方を見通すような遠い目をした由貴は言う。
ドキリ、としながらも微笑を浮かべた勝又は聞き返す。
「どうして、そう思う?」
敬われ、自分のことをほめる人間にしか周囲にいない勝又は、腹が立つというよりも滅多にないその体験をむしろ楽しんだ。
「……例えば、ここに超一流のサッカー選手がいたとします。
オレはサッカーをさせたら一番だ、と自負もし、サッカーが彼の生きがいのすべてでした」
にわかには何の話か分かりにくい切り口で、由貴は静かに語りだした。
「ある時、彼は試合中に足の骨を折る大怪我を負ってしまいました。
後遺症のため、治ったとしても今までのようなプレイはできなくなりました。
そしてその時に、今まで自信に満ちて幸せだった彼は——
抜け殻のようになって、生きる希望を失いました。
彼からサッカーを取ってしまったら、何も残らなかったのです。
それじゃあ、あなたから成功している経営者、という今の立場が取り去られたとしたら、どうしますか?
人間、いつ何時どうなるか分かったものではありません。
その時のことを考えてみてください。
どんなことがあっても、変わることのない自分のより所——
それを見つけないと、人は本当の意味で幸せにはなりません」
勝又は腕組みをして、天井に吊り下がった豪奢なシャンデリアを見上げた。
「お前は、オレにそれがない、と見抜いたわけだな?」
その質問には直接返答をせず、由貴は言葉をつむぐ。
「私には、歌があります。そしてこれは誰も私から奪い去ることはできないものです。地位もお金もなくても、歌は歌えます。腕がなくなっても、例え声が奪われたとしても、私は歌えます」
私は、何も持たないように見えますが、すべてを持っています。
あなたはすべてを持っているようで、実は何も持っていません。
「久しぶりに思い出したよ」
勝又は、フラフラと店内のグランドピアノに歩み寄り、椅子に座った。
……そういや、最後に人を愛したのはいつだっけ。
由貴の言葉を頭の中で反芻した彼は、無心でピアノ鍵盤に指を這わせた。
『Love is blue』(恋はみずいろ)という曲だった。
「へぇっ。社長って、ピアノ弾けたんだ」
怖い社長の意外な一面に、キャバ嬢を含め従業員一同も、思わず聴き入った。
刹那、皆はそれぞれの淡い過去の恋の思い出に、想いを馳せた。
……お前の言いたいことは分かった。
すぐにとはいかないが、まぁ見つけてみるさ。
しかしまぁ、ありがとな。
オレの周りにはな、正面切ってそんなことを言ってくれるやつがいなかったのさ。
悲しいことにな。
勝又の心の声が、ピアノの旋律に乗って届いたのだろうか。
由貴は、ギターケースをかついで立ち上がると、店を出た。
扉を開いた時、勝又を振り返り、にっこりとうなずいた。
そして彼女は、夜の街に消えていった。
勝又の切々とつむぐメロディーは、その場にいる者の胸を打った。
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