第5話『もしも明日が』

 大阪湾を臨む有名な水族館・海遊館。

 飼育員として働く飯沢仁志 (ひとし)は、午前の仕事を終えて海が一望できる外の広場に出た。

 ベンチに腰掛け、見事に晴れあがった夏空を仰いだ。

 遠くの海では、タンカーがゆっくりと進んでいるのが見える。



 仁志は、休憩時間には必ず水族館の外に出て来るのが常であった。

 水族館の仕事、また飼育員の仕事が大好きだったし、誇りもあった。

 いくら好きでも長時間薄暗く閉鎖的な空間にいれば、どうしても休憩時間くらいは大空の下に出て、開放的な気分に浸りたくもなるというものだ。

 彼は雨の日以外は必ず外で休憩をとり、昼食もそこで取るようにしていた。

 日曜日の今日は、さすがに人が多い。

 周囲は、観光客や家族連れなどでそこそこ混み合っていた。



 フードスペースで買って持って来た焼きそばも食べ終わって、何気なく空を見上げていたら——

 女性の歌声が、耳に入ってきた。

 海遊館は観光客サービスの一環として大道芸人たちを雇い、エリア一帯で芸を披露させていた。

 歌っている女性もその一人かな、と思った仁志だったが、見ている限りどうもそうではないようだ。

 ギターを抱えたその女性は、雇い芸人のように特殊なコスチュームを着ているわけでもない。

 まったくの普段着である。

 スリムジーンズにスカイブルーのTシャツ。靴はスニーカー。

 でも、長い髪を潮風になびかせ、素人離れした音域と発声で歌う様子は、明らかにプロだった。

 しかも、その女性の周りには、40人ほどの観光客が座っていた。

 半分以上の者は、テイクアウトの食べ物を片手に聴き入っている。

 雇い芸人でもなかなかその人数をキープできているのを見たことがない。

 今歌っているのは、わらべというユニットの『もしも明日が…』という古い歌謡曲であった。



 歌自体は、流行の歌でも何でもない。

 一度はどこかで聴いたことのある懐かしい歌や、学校で習ったような唱歌ばかり。

 今時のはやりではまったくない歌を、そのギターの女性はレパートリーにチョイスしていた。

 ……でも、妙にひきつけられるこの感じは、何だろう?

 仁志は、いつの間にかその女性の歌声に魅せられていた。



「隣り、いいですか?」

 急に仁志の前にさした人影に、彼は顔を上げた。

 20代前半と思われる、栗色のショートカットの髪をした女性だった。

 ピンクのタンクトップに白のフレアスカート。頭にはサンバイザーをしていた。

「は、はぁ」

 仁志が返事をするかしないかの間に、その女性はよいしょっ、と仁志の隣りにあっさり腰掛けてしまった。どうやら目的は、さっきから歌っているギターの女性のようだった。

 ベンチに座った彼女は膝に肘をついて頬杖をつき、一心に聴き入っている。

「……いい歌ですよね」

 一瞬、その言葉が自分に向けられたものなのかどうか迷ったが、見回しても自分以外はいない。

「えっ? ええ」

 と、とまどいつつ返事をした。

 飼育員としては優秀な仁志も、実は女性に関してはオクテであった。

 まだ特定の彼女もいなかったから、妙に意識してしまった。



 そのうちに仁志は、ギターの女性とも、ベンチの隣りに座った女性とも話すようになった。

 なぜか彼女らは毎日、海遊館に現れた。

 ギターの女性のほうは、牧山由貴と名乗った。

 音楽には疎い仁志にも、彼女が数年前に流行った有名なロックバンドの人間だと分かった。

 聞けば今では公の音楽活動からは身を引いていて、全国を旅して好きに歌って回っているという。

 大阪には、もう少しいるつもりのようだ。

 仁志の横に座った女性は、名を大貫純といった。

 大学を卒業して一年しかたたない23歳。仕事はしていないのだという。

 最近はこうして海の風に吹かれに散歩しに来るのが楽しみ、と話していた。

 その若さで仕事もせず、かといって結婚しているわけでもない状態で、毎日水族館になど来ていられるは、一体どういう事情でのことなのか?

 仁志はそういう疑問を持ちはしたが、まだ数日会って話をしただけの人間が立ち入るものではない、と思い直し、深くは聞かないことにした。

 仁志は、昼休みに純と並んで由貴のギターの弾き歌いに耳を傾けるのが日課になっていった。



 仕事が早くひけた、ある夕方のこと。

 仁志は、大きな伸びをひとつして、海遊館の建物を出た。

 平日だったため、ほとんど人の残っていない夕暮れのオレンジ色が支配する広場には、ギターを弾く由貴と、その旋律に身をゆだねるたった一人のギャラリー・純の二人の姿があった。

 仁志が近付いていくと、気付いた純が顔を輝かせて駆けてきた。

「あら、飯沢さん。今お仕事終わったの?」

 そして無邪気に仁志の腕を取って、由貴のところまで引っ張っていく。

「さぁ、座って座って」

 いつものベンチに仁志を誘導した純は、自分も彼の横にどっかり座り込んだ。

 海の彼方に沈みかけている太陽を背にした由貴は、顔を伏せてフッと笑った。

 強すぎない、心地よい潮風がかもめたちの間を吹きぬけてくる。

「じゃあ、お二人のために歌おうかな」

 仁志がこの不思議な二人の女性と初めて出会った時に聴いたあの曲を、由貴はもう一度弾いた。

『もしも明日が…』を。



 仁志は、ヘンな想像をした。



 ………映画で、駆け落ちした恋人同士が、神父に祈ってもらって結婚の誓いをしてた場面があったよな。



 ちょうど駆け落ち相手が純で、仲立ちする神父が由貴。

 勝手な想像をして、ドギマギする仁志。

 罪作りなことに、そういう心持ちで眺める純の横顔は、限りなく美しく見え、かつ愛おしく思えた。

 ベンチの椅子に手をついていた純のほうに、少し体をずらして接近した仁志は——

 自らの手を、そっと純の手の甲の上に添えた。

 純はハッとして、一瞬困惑したような表情を浮かべはしたが、決して手を引っ込めたりすることはなかった。

 二人の手は重なり合い、互いの体温を伝え合ったまま時は流れる。

 由貴の優しい歌声は、まるで二人を祝福するかのようであった。



 その夜。

 誰もいなくなった、夜の水族館。

 ダイバー装備を身につけた仁志と純は、太平洋の海を再現した巨大な水槽の中を漂っていた。

 群青と紫の光が折りなす幻想的な世界の中で、仁志はしっかりと純の手をつかんで、普通では味わえないその海の神秘の世界を案内してゆく。



 そして、様々な生き物の間を泳いだ。

 ジンベエザメ・オニイトマキエイ・メジロザメ・ギンガメアジー。

 先ほどの純との会話の中で知った、驚愕の事実が仁の頭を占領する。

 世界にはこんなにも生はあふれているのに、なぜこの子には——



 自分の気持ちを曖昧にできなかった仁志は、由貴が帰ってから純に自分の気持ちを打ち明けていた。

 それを聞いた純は青ざめた。

「………ごめん…なさい」

 純は、そのまま泣き出した。

 今までどんな時にでも笑顔で、天真爛漫な天使であった純しか見たことがなかったから、急な彼女の涙に遭遇した仁志は、面食らった。

「ごっ、ごめんよ。急にこんなこと言っちゃって。迷惑だよね、急に言われても」

 てっきり断りのごめんなさいだと早合点した仁志は、あわてて謝った。

 しかし、純は驚くべき言葉を付け加えた。

「私も飯沢さんのこと好きよ。でも、でもね………私もうすぐ死ぬの」



 純は、4年前に『多発性骨髄腫』を発症していた。

 いわゆる『血液のガン』である。

 現在の医学では治癒は困難であり、予後は望ましくない。

 はっきり言ってしまえば、死を宣告されたようなものである。

 当時純を診察した医師は、彼女の命を持って三年、と予言した。

 しかし、その三年を超えて生きている純は、いつどうなってもおかしくはない状況だったのだ。

 彼女が仕事もせず、彼氏も作らず水族館で一日ブラブラしていられた理由が、この時やっと分かった。

 両親も、もう最後くらいは本人の好きにさせてやりたかったのだろう。



 仁志は、なぜ自分がこんな行動に出たのか、自分でもよく分からなかった。

 気がついたら、純を誘って水槽の中を二人で泳いでいた。

 水族館の職員としては、まったく経験も資格もない一般人を水槽に入れるなど、決して褒められた行動ではなかった。でも、仁志はどうしても彼女に、『命達』を見せたかった。最後の思い出を作ってあげたかった。

 もちろん、何かあれば全責任を取る覚悟を持って。

 照明に背ビレをきらめかせる無数の魚の群れに並びながら、仁志はこう思った。



 ………純に思い出を作ってあげようとかカッコいいこと言ってるけど、本当は俺自身が『純との思い出』を作りたいだけいんじゃないのか。

 昔映画で『セカチュー』とか見て他人事のように感動していたけど、まさか自分の身にそれとそっくりなことが起こるなんてな!



 愛、というものの本質についてはまだまだ真の洞察を持たなかった仁志は、自分の気持ちを一体どう処理してよいのか、苦悩するのだった。



 二人は遊泳を終え、スイムスーツを脱いで普段着に着替えた。

 そして再びいつものベンチに戻り、夜空を仰いだ。

 近くでは、有名な天保山大観覧車がライトアップされ、空に美しい光の筋を投げかけていた。

「命って………すごいね」

 純は、ボソッと言った。

 仁志は、心臓をかきむしられた気分だった。

 彼に分からないのは、死を目の前にしてまでどうしてそんなにも純が冷静でいられるのかだった。

 何が彼女を、ここまで落ち着かせているのか。

 何事もないように、変らず明日が来るかのように過ごせるのか——。

 死を宣告された者が取り乱し、周囲が対応に悩むというのはよくあるケースだろう。

 しかし、この場合はまったく逆であった。聞いた仁志の方が、参りかけていた。

 そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、純はつぶやいた。



「人生ってね、多分長さじゃないんだよ。

 生きた間に、最高の命のきらめきを感じられる一瞬があったかどうかなんだよ。

 だから、私はもう満足」



 純は、仁志の手に触れて、顔をのぞきこんできた。

「さっきも、そうだったよ。最高のプレゼント、ありがとう」

 そう言い終わる前に、仁志は純の両肩に手を回し、彼女のまだはっきりと燃えている命を包んだ。

 唇を重ねる二人のはるか向こう側の港で、汽笛が鳴った。




 それは、突然何の前触れもなく起こった。

 由貴の歌をいつものように聴いている時。純は急に咳き込みだした。

「大丈夫?」

 仁志は純の背中をさすりながら心配した。

「たぶん………だっ、だい」

 大丈夫と言いたかった純が、その言葉を言い切ることはなかった。

 彼女はいきなり、口から真っ赤な液体を石畳の地面に撒き散らした。

 喀血したのだ。



 救急車に搬送される純。

 心配した仁志と由貴は、救急車に乗り込んで付き添い、病院まで同行した。

 病院には、すでに純の両親も駆けつけており、仁志と由貴に気付くと丁寧に挨拶してきた。

「………病状がかなり進行していますね。急性腎不全と肺炎を併発しています。今まで継続的に行ってきたMP療法(メルファランとプレドニゾロン)の延長で処置はしてみますが………この2,3日が峠だと思ってください。おそらくですが、意識が戻って会話できるようになることはないと思った方がいいかもしれません」

 医師はそれだけ説明すると、『残念です』と一礼して、処置室に駆け戻っていく。

 暗いリノリウムの廊下で肩を寄せ合い娘の最期を嘆く両親を見つめながら、仁志と由貴は立ち尽くした。



 病院に搬送されてから2日と10時間後。

 両親と仁志が見守る中、大貫純・永眠。享年23歳。

 安らかな死に顔だった。

 純は、あまりにもむつかしい宿題を仁志に残して、この世を去った。



 海遊館前の、いつもの広場。

 いるべき場所に、純がいない。

 ギターを抱える由貴の前に現れた仁志は、いつものベンチに静かに腰掛けた。

 由貴は、弦を弾く手を止めた。

「純ちゃんは?」

 目を伏せた仁志は、ゆっくりと頭を振った。

「………そう」

 それ以上、由貴は何もしゃべらなかった。

 しゃべらない代わりに、歌った。『もしも明日が…』を。



 死は、悲しい。

 直接愛する者の温もりを、そして生命の息吹を——

 分かりやすく感じることが出来ないのは、確かにつらい。

 しかし、じゃあ死がすべてを支配するのか。

 肉体の死は、愛の終わりなのか。

 いいや、純は生きている。

 彼女は死んだが、その魂は生きている。彼女に比べたら、当たり前のように空気を吸って流されるように生きている人間の方が、よっぽど死者に近い。

 由貴の透き通るような歌声を聞きながら、仁志は白い雲がゆったりと流れてゆく蒼の天空を見上げた。



 ………オレが生きている限り、純は死なない。



 純が仁志に残した宿題。それはかなりの難問であった。

 しかし仁志は、彼なりにその永遠のテーマへ至る入り口を見つけた。

 これからも、彼はそれをたどっていくだろう。



 歌い終えた由貴は、立ち上がった。

 ギターをケースにしまい、背中に抱え上げる。

「………あなたは、きっと大丈夫」

 謎めいた微笑を浮かべて、彼女は仁志に背中を向けた。

 優しい日の光がふりそそぐ海辺の広場を離れてゆく由貴の姿が、次第に小さくなってゆく。




 その後、仁志が由貴に会うことは二度となかった。

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