第4話『翼をください』

 港を臨む公園のベンチで、一人の女性がギターを奏でていた。

 残暑も去り、緑たちが次第にその色を変えていく10月の午後。

 心地よい秋風が吹き抜ける広い公園の中で、女性は弾き語りを始めた。

 そこを通りかかったある者は立ち止まり、しばらくその美しい歌声に耳を傾けた。

 またある者は、忙しさのゆえに立ち止まることはしなかったが、その刹那何か懐かしいものを思い出した心地になって歩き去って行った。



 ジーンズに白のセーター、その上からベージュのコート。

 靴もスニーカーというラフな恰好のその女性は、しかし長い黒髪と日本人にしてはエキゾチックな顔立ち、そして吸い込まれるような瞳。どこかしら、面識のない人間にも彼女を芸術家だと思わせるような雰囲気をまとっていた。

 彼女が弾き語っている歌は、「花はどこに行った」。原題 ”Where have all the flowers gone?” というアメリカンフォークの名曲で、今由貴が歌っているのは日本語訳バージョンである。

 ピートー・シーガーの作詞・作曲によるこの楽曲は、日本ではフォーククルーセーダーズや Mr.Children にカバーされ、今でも愛され続けている。




 ……もうっ、どうなっても知らないんだからねっ。

 

 

 この田舎の港町にある唯一の小学校に通う六年生、神田春菜は大きな声で独り言を言った。

 まだ小学生であるにもかかわらず、人生の最大の不幸を抱えたような顔をして、家路を急いでいた。

 今日は第二土曜日で、授業は午前中で終わり。

 その三時間目でのホームルーム時での話し合いが、春菜の心に暗い影を落としていた。



 彼女の通う小学校は、一学年にひとクラスしかない。

 しかも、一年生と二年生に関しては合同であった。

 人数の問題だけではないかもしれないが、運動会や文化祭などの行事は、必然的に盛り上がりを欠く傾向にあった。

 どんなに頑張っても、結局観客は手の内を知り尽くした少数の身内同士。

 生徒たちの心に『頑張って練習して、いいものを見せよう』という意欲があまり芽生えないのだ。

 しかも、11月に行われる校内行事『音楽祭』を目前にして、音楽の先生が病気に倒れた。

 これが決定打となって、生徒全体に投げやりなムードが漂った。



「もう、今更曲考えたり練習したりしなくてもさぁ、こないだ習った曲でいいじゃんかよ」

「そうだよ。放課後残って練習したりしてもさ、見に来る人もそんなにいないんだしさ」

 中には、中学受験も近いからそんなことに時間を割くくらいなら家に帰せ、と言い出す者までいた。

 学級委員でもあり、責任感もある子である春菜はクラスメートたちの無気力さにその小さな胸を痛めた。

 

 

 ……私、どうしたらいいの?



 そう思い悩みながら公園の中央を通り抜けようとしていた時にー

 どこからか、歌声が聞こえてきた。



 それは、不思議な光景だった。

 少しの物悲しさを秘めながらも、心を穏やかにしてくれる旋律が、その空間にはあふれていた。

 音の主は、ギターを抱える背の高い女性。

 その空間に魅せられた人たちが、彼女のすぐ近くでめいめいの楽しみ方をしながら集っていた。

 あるサラリーマン風の男は、文庫本を読んでいた。

 老人達は、将棋盤を広げて向かい合っている。

 三人の主婦は、マイチェアー持参で聴き入っていた。近くで子ども達が縄跳びをしている。

 

 

 春菜は、たまに電車に乗って都市部に行くことがある。

 その時に駅前で演奏をする若者を見ることがあるが、それとは雰囲気がまったく違った。

 確かに、ただ女性の音楽を聴くことのみに専念している者も数人はいた。

 女子高生の三人組などは、地面にハンカチをひいて座り、うっとりと聴き入っている。

 しかし、その場にいた他の10人あまりは、何かをしながら女性の歌を聴いていた。

 そしてまたその女性も、『人に聴かせよう』としている雰囲気はまったくない。歌だけに集中していない人がいても、気を悪くしている様子もまったくない。

 自然体すぎるのだ。

『観客を集めた』 のではなく、『勝手に観客が集まってきた』という表現がぴったりである。

 ちょうど音楽のことで悩んでいた春菜は、吸い寄せられるようにギターの女性の前に座った。

 女子高生の一人が、余分に持っていたハンカチを広げ、そこに座るよう春菜に勧めてくれた。

「ありがとうございます」

 春菜はお礼を言うと、厚意に甘えて座らせてもらった。


 

 春菜は、たまに電車に乗って都市部に行くことがある。

 その時に駅前で演奏をする若者を見ることがあるが、それとは雰囲気がまったく違った。

 確かに、ただ女性の音楽を聴くことのみに専念している者も数人はいた。

 女子高生の三人組などは、地面にハンカチをひいて座り、うっとりと聴き入っている。

 しかし、その場にいた他の10人あまりは、何かをしながら女性の歌を聴いていた。

 そしてまたその女性も、『人に聴かせよう』 としている雰囲気はまったくない。

 自然体すぎるのだ。

 『観客を集めた』 のではなく、『勝手に観客が集まってきた』 という表現がぴったりである。

 ちょうど音楽のことで悩んでいた春菜は、吸い寄せられるようにギターの女性の前に座った。

 女子高生の一人が、余分に持っていたハンカチを広げ、そこに座るよう春菜に勧めてくれた。

 「ありがとうございます」

 春菜はお礼を言うと、厚意に甘えて座らせてもらった。 



 ……なんでだろ。流行の歌とかじゃないのに、学校で習うような感じの曲ばっかりなのに。

 どうしてこんなに気持ちがひきつけられるんだろ?


 

 日も傾きかけた4時過ぎになって、誰が言い出すともなくその場は自然解散になった。

「お姉さんや。その何だ、明日も来るのかね?」

 老人達が、女性に確認を取っているようだ。

「ええ。しばらくはこの土地にご厄介になるつもりです。また明日の午後に——」

「よっしゃ。明日も、一局やりに来るかいの」

 他のギャラリーが誰もいなくなってから、春菜はギターをケースにしまいかけていた女性に声をかけた。

「あのう——」



 沈み行く太陽がオレンジ色の光を公園に降り注ぐ中、春菜とギターの女性は、並んでブランコをこいだ。

 女性は、『牧山由貴』と名乗った。

 春菜は彼女のことを由貴さん、と呼ぶことにした。

「由貴さんは、お仕事は何をされてるんですか? やっぱり、音楽関係なんですか?」

「いいえ。今は何もしてないわ」

 そう言って少し笑った由貴は、エイッと地面を蹴り、ブランコとともに前後に揺れる。

 ギイギイ、という音が夕日とともに迫る闇に溶け込んでゆく。

「……ただ色んなところを旅して、こうして好きな時に歌を歌って回ってるの。そりゃあ時々は仕事みたいなこともしないといけないんけど、たいがいはさっきみたいに演奏してるかな」



 春菜は、学校での悩みを由貴に打ち明けた。

 音楽祭が近いのに、生徒たちはみなやる気がないこと。

 そして音楽の先生が病気で倒れ、専門的に教えてくれる者がいないこと——

「なるほどね」

 由貴は揺れるブランコから器用に飛び降りると、クルッと春菜のほうを向いた。

「お姉さんに、ひとつ作戦が浮かびましたっ」



 翌日、登校した春菜は信じられないものを見た。

 始業前の六年生クラスに、校長先生が連れて入ってきたその人は——

 まぎれもなく昨日の歌のお姉さん、牧山由貴その人だった。

「ええ~、今日から音楽の授業を三週間だけ受け持ってくれることになりました牧山由貴先生です。六年生はさっそく今日の二時間目が音楽でしたね。先生の言うことをよく聞いて、授業を受けてください」

 教室の後方でバタン、と大きな物音がした。

 目をむいていきなり立ち上がったのは、ロック好きで自分ももいつかはバンドをやるんだと豪語してる渡辺将太。

「こっ、この人…間違いじゃなきゃ 『One Way accel』 のボーカルのyukiさんじゃ!?」



 彼の言う『one way accel』というのは、三年前に最も人気絶頂であった伝説のロックグループだ。

 当時、世間でその名を知らぬ者はほぼないほどだった。

 由貴はそのグループを率いるリーダーであり、またメインボーカリストでもあった。

 しかし、ある時期からヒットが出なくなり、いつの間にか世間の表舞台からは消えてしまっていたのだ。

「へえっ、この人って有名人なんだ~」

 将太の言葉に、由貴のことを知らない者たちもこの新しい先生に興味を持ち出した。

「……うそっ」

 都会に比べて悪いことが起こりにくい代わりにさほど刺激的なことも起こらない片田舎の少女・春菜は意外な展開に胸が躍った。



「みんなは『グリーン・グリーン』っていう歌を知ってるかな。知ってる人?」

 由貴の呼びかけに、音楽室に集った春菜を含む六年生たち総勢27名は、顔を見合わせた。

「聴いたことはあるかな。音楽の授業では歌ったことないけど、元気な感じの歌だよね?」

 そのうちの半分ほどが手を挙げた。

「よっし。それじゃ三番まで歌ってみようか。知ってる子は一緒に歌ってみて。教科書の36ページに歌詞が載ってますよ」



 由貴はピアノには触れず、すべてギターで伴奏した。

 実に彼女の出す音は繊細で、元プロ歌手だけに声にも張りと伸びがあった。

 子どもたちは、授業開始数分後にして、由貴のとりこになった。

 授業とはいえ、言わばお金を払って行くようなコンサートにタダでやってきて、間近の席で聴くようなものだからだ。



 一同は、実に気持ちよく歌った。

 決して、由貴が有名人だからとか、歌がうまいということだけではなかった。

 先生である由貴自身が、何よりも一番歌うことを楽しんでいた。

「ところで、この歌が明るい歌だと思う人?」

 これには、クラスの半数以上が手を挙げた。

 しかし、将太は首をひねって考えた。

「もしかして、『つらいこと』とか『悲しいこと』とかっていう言葉が出てきてるから、実際この父親と少年には、不幸なことが起こってるんじゃないのかな? だから、歌自体は希望を持とうよ、っていう前向きなものになっているのかもしれないよね?」

「ごもっとも。じゃ春菜ちゃん、例のもの配って」

「はいよ~」

 まるで歌丸師匠に言いつけられた山田隆夫のように、春菜は座布団ならぬプリントを配りだした。

 由貴はギターを構え直した。

 「実はこの歌、教科書には三番までしか歌詞がありませんが、実際は七番まであるんです。今日はみんなで、じっくり最後まで味わってみましょう」

 六年生たちは目を丸くした。「マジ? そんなにあるんだ?」

 歌詞が書き付けられたプリントを手に取り、由貴のギターに合わせて皆は歌いだした。


 

 7番まで歌い終わる頃には、少年と父親がどういう運命に見舞われるのかを皆理解した。

 その視点からこの歌を捉えなおすと、まったく違った景色が見えてくるのだった。

 そして、それぞれにこの歌の真に意味すところを探り、自分なりの解答をつかんでいった。

 授業は大成功だった。

 なぜか、由貴のことが気になった校長を始め、空き時間の教師たちが全員教室の後に詰めかけていた。

 あきれ顔の将太は、ませた口調でつぶやいた。

「……このミーハーたちめ」



 生徒たちは、自分で音楽祭の勝負曲を由貴とともに選んだ。

 六年生が歌うのはさっき皆が感銘を受けた『グリーン・グリーン』に決定。

 そして最後の曲は六年生だけでなく、一年から六年までの全校生徒でやってみることになった。

 みな、誰に言われなくても放課後に集まり、由貴を捕まえて放さないほどに練習熱心になった。



「いよっ、お前たちやってるかい!?」

 威勢のいい声とともに、コック服を着た男が入ってきた。

「ゲッ、父ちゃん! 何しにきたんだよ?」

 顔を真っ赤にした将太が叫ぶ。

「いんやね、お前たちが歌の練習頑張っとる、って聞いたもんだからさ、差し入れ持って来たんだよ」

 中華料理店を経営する将太の父親は、人数分のラーメンの出前を持って現れたのだ。

「……とか何とか言って。ホントは由貴さんに会いたかっただけだろっ」

 そ、そんなんじゃないぞっ」

 隠れ由貴ファンの将太の父は、手に持っていたサイン色紙を思わず隠した。

「でもさぁ、これ食べちゃったら、家で夕飯食えるかなぁ?」

 一部の子どもたちは、そう言って心配しだした。

「じゃあ、それ先生たちがいただくぞ!」

 職員室に残っていた教師の一群が、音楽室に押し寄せてきた。

 それを見た子どもたちの気が変わった。

「やっぱし、食べるぅ~!」

 由貴と春菜は、顔を見合わせてクスッと笑った。



 いよいよ、待ちに待った音楽祭当日。

 子どもたちにとっては、ビックリ仰天する事態が目白押しであった。

 学校の体育館でするとばっかり思っていたのに、彼らはバスに乗せられ、県の中心部にある『県民ホール』という、1000人収容可能な劇場のような場所に連れてこられた。

「体育館の飾りつけはしなくていい、ってこのことだったのかー!」と、将太はうめいた。

 しかも、ギャラリーとして隣り町の都市部にある小学校の全校生徒680名及び教職員、そしてデイサービスセンターの老人たち。

 友情出演で、地元高校のブラスバンド部まで駆けつけてきた。

 来賓席には、日頃電報の祝辞しか寄こさない知事本人と市議会議員が多数、来ていた。

 この片田舎では、由貴が現れたことは二年前 に『鶴瓶の家族に乾杯!』というNHKの番組で芸能人が訪れて以来の大事件だったのだ。

 祭り好きの住民達はこぞって協力し合い、盛り上がる結果となった。



 大歓声と興奮の中、プログラムは滞りなく進んでいった。

 ラスト曲。全校生徒で勝負に選んだ曲は、『翼をください』だった。

 ピアノのうまい五年生の女子・鳩山舞子とギターの由貴が伴奏を務めた。

 そして指揮棒を振るうのは、六年生の学級委員・神田春菜。 



 指揮棒を上げた瞬間、春菜はしっかりとクラスメイトたちの目を見た。

 この瞬間ほど、みんなと気持ちが通い合ったと感じたことはなかった。

 小さい低学年の子たちも、必死に口を開けてくれている。


 

 春菜はギターを奏でる由貴を横目でちらっと見た。さすがプロの人、緊張も気負いもない。

 本当に、楽しそうに弾いている。

 ありがとう。本当にありがとう。

 私たちの小さな悩みに耳を傾けてくれて、そしてこんなにも大きなプレゼントに変えてくれて——



 合唱が終わって頭を下げる一同に、惜しみのない拍手が送られた。

 もちろん、これだけの多くの観客の前で何かを発表したのは子どもたちにとっては初めての経験である。一部の子どもたちは、感激のあまり泣いていた。

 すべてのプログラムを終えて、皆大満足のうちに舞台を降りた。



 そのすぐ後で、場内で『由貴コール』をする者があった。

「あっちゃ~父ちゃん、こんな所でもう……」

 将太は思わずズッコケた。声の主は、中華料理屋を経営する彼の父だった。

 しかし、それはやがて場内を巻き込み、大きな声援となってゆく。

 それに応えるように舞台に駆け上がってきた由貴に、観衆のボルテージも最高潮に達した。

 彼女がギターを構え直してそのしなやかな指を弦にあてがうと、ホール内は水を打ったように静まり返った。



 Alas, my love, you do me wrong

 To cast me off discourteously

 For I have loved you well and long

 Delighting in your company.



 由貴が弾き歌ったのは、『グリーンスリーブス ( Greensleeves )』という古いイングランド民謡だった。

 英語の歌詞だから、春菜を含む子どもたちには何を歌っているのかまったくチンプンカンプンであった。



 ……意味分かんないのに、何でこんなに気持ちが動くんだろ。



 春菜はその曲を聴いているうちに、自然に涙があふれてきた。

 泣けて泣けて、しょうがなかった。

 まるで、自分でも知らない心のどこか——

 祖先から受け継いできた魂の記憶とでもいうべきものが、共鳴している感じだった。



 Ah, Greensleeves, now farewell, adieu

 To God I pray to prosper thee

 For I am still thy lover true

 Come once again and love me.



 場内の誰もが、心を打たれた。

 皆の目には、それぞれに違った『雄大なイングランドの緑の草原』が浮かび上がり、それは風にそよぎながら愛の世界に手招きしていた。



 ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※



「……お別れなんですか」

 音楽祭終了後の夕方。

 すべての始まりであった港の公園のブランコで、春菜と由貴は二人きりになった。

「そうだね。私もうれしくって楽しくて、ついつい長居しちゃったかな」

 夕日を見上げた由貴の瞳は、その黒に茜色の輝きを反射させた。

「寂しくなっちゃうなぁ」



 そうは言ったものの、物分りのよい春菜は今度のことだけでもありがたいと思わなくちゃ、と健気にも自分を納得させた。

 何かを吹っ切るように地面をひと蹴りした春菜は、流れそうになる涙を止めるため、上を向いた。

 ブランコを止め、しばらく上を向いて考えごとをしていた由貴は立ち上がった。

「さてと」

 近くに置いていたギターケースを抱え、地平線に沈みかけている太陽を見つめる。

 そして春菜を振り返って優しく告げた。

「……私、もう行くね」

 春菜はブランコを降り、背の高い由貴を見上げた。

「また、いつか会えるかな?」

 由貴は腰をかがめると、春菜と顔を合わせて彼女の瞳をのぞき込んで、目を細めて微笑んだ。

「あなたが一生懸命生きてれば、いつかね」

 オレンジ色の夕日を受けて、潮風の中その歌の精は去って行った。

 最後に、こう言い残して。

「あ、将太くんに『お父さんのラーメンおいしかったよ』って伝えといてね」



 うしろで、春菜が『翼をください』を歌うのが聞こえていた。

 由貴は泣き声混じりのその歌を耳にしながら、これから向かう新天地への希望に思いを馳せた。

 やがて、春菜の声が聞こえなくなる距離を歩いた由貴は、おもむろに後を振り返った。



 漁船の間を、かもめが低く飛び去るのが見えた。


 

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