第2話『明日に架ける橋』

 望みなく、涙さえも枯れ果てた少女がいた。

 その姿は、生きているのか死んでいるのか分からない、と形容してよかった。



 病室のベッドから見る風景はいつも同じ。

 少女に寄り添うかのように、窓のそばには一本の大きな木が立っていた。



 ある日、ベッドから起き上がってみた少女は、窓の外にいつもと違うものを見た。

 病院の庭で、ギターを奏でている女性が一人。

 彼女の周囲には車椅子の人、松葉杖をついた人、パジャマ姿で看護師に付き添われて歩いている人—— 

 皆、楽しそうだった。

 その映像は、少女の網膜に捉えられてはいたが、心や思考に何のさざなみも立たなかった。

 蝿が少女の目の前をかすめ飛んだが、よけることも、手で払うこともしなかった。

 そんな彼女を置き去りにするように、いつしか日も傾き、外の世界では確実に時が刻まれていることを知らせていた。



「エヘヘ、来ちゃったぁ」

 少女は突然の珍客に、一週間ぶりに言葉を発した。

「……あなた、誰」

 そう言った時、過去の記憶と目の前の映像とが結びついた。

「ああ、あの時の——」

 昨日、窓から見えたギター弾きの女だった。

 多分ボランティアか、慰問をして回るミュージシャンか何かだろう。

「部屋から出られない、って聞いたから」

 由貴、と名乗った女は、ベッドの傍らにある椅子を引き寄せて座り、少女の前でギターを構えた。

「別にいいよ」

 少女は物憂げにつぶやいた。

「どうせ、私はもう死ぬんだから」

「へえぇ」

 大したことなど聞かなかったかのように、、由貴は驚くべき提案をしてきた。

「ねぇ、私と賭けしない? 私は賭けてもいい、あなたは『死なない』」



 少女は、その言葉に失笑した。

 でも、こんなに気持ちを動かして人としゃべったのは久しぶりだ。

「あなた、面白いこと言うのね」

 窓の外に枝を広げる大きな木を見た少女は、ポツリポツリと語り出す。

「……外のあの木が見える? 冬も近いし、葉も少ないでしょ? きっとあの葉が全部散ってなくなる時に、私も死ぬんだわ」

 由貴は、クスッと笑った。

「それじゃ、O・ヘンリーの小説『最後の一葉』みたいだわね。でも、私は葉っぱを付け足したりなんて小細工はしないわよ。私ができることは、これだけ」

 ギターの弦からつむがれる音の波が、少女の心に寄せては返す。

 旋律に身をゆだねる少女の心に見えた映像。

 それは、突き抜けるような青空を、翼を広げて高く飛ぶ一羽の鳥の姿であった。



 由貴は毎日、できるだけ時間を作っては少女の病室を訪問した。

 少女と由貴を訪ねて、他の患者も遊びに来るようになった。

 病室に歌声と笑顔の絶えることがなくなった。



 少女の気力の回復に目を丸くした医師は、車椅子でなら院内を動き回ってもよいと許可を出した。

 外出が解禁になったその日、さっそく少女と由貴は売店まで競争をした。

 途中で看護師に見とがめられ、二人とも説教を受けた。

 十分反省して解放された後で、二人は腹を抱えて大笑いをした。



「……とうとう全部散っちゃったね」

 外は嵐で、容赦なく吹く風が木を激しく揺らす。

 少女の声には、力がなかった。

 肌が土気色をしている、

 17歳の若さが持つはずの張りさえ、失っていた。

「そうだね」

 由貴も少女の傍らで、窓越しに見える葉のすべてなくなった大木に視線を向けた。

「賭けは、あなたの勝ち——」

 少女は、生のための力をすべて使い果たそうとしていた。

「それだけは言っておかなきゃ、って思ってね。私……もう眠いわ」

 ギターを下に置いた由貴は、少女のはかなげで柔らかい手を握った。



 次の日。

 由貴の訪れた病室に、少女の名前の札はなかった。

 ベッドもきれいに片付けられており、空き部屋になっていた。

 ただ、一通の手紙だけが置いてあった。

 書いてあったのは読みづらい、絶筆らしいただ一行の文章。



「私、体は死んじゃったけど最後まで死ななかったよ。ありがとう」



 由貴は、その手紙を大事そうにポケットにしまった。

 空きベッドにギターをそっと置いた彼女は、部屋を離れた。




 その後、由貴は病院に現れなくなった。


 


 行き先は、誰も知らない。


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