知らない街の片隅で

賢者テラ

第1話『あなたと行けるなら』

 由貴は、不安とイライラであふれた心の杯を持て余し、爆発寸前であった。



 彼女は、数年前までは一世を風靡したロックグループ『One Way Accell』のメインボーカルだった。

 バンド結成当時よりインディーズシーンの話題をかっさらった彼らは、またたく間にスターダムにのし上がった。音楽雑誌に彼らのことが載らぬ号はなく、ヒットをとばし続けた。



 しかし。時代の流れというものもまた早い。

 ロック界にもどんどんと新しく鮮烈な個性たちが誕生し、月並みな表現をすれば彼らは次第に 『飽きられていった』。

 早々に見切りをつけたバンドメンバーたちは、由貴のもとを離れていった。

 売り上げと人気がすべての音楽事務所は、もはやそれ以上契約を更新しようとはしてこなかった。

 現在の由貴に残されたもの。

 一つは、彼女を何とか受け入れてくれた弱小タレント事務所。

 そして、最後まで由貴のもとを離れずに残った、ベース兼楽曲の作詞・作曲を一手に引き受けていた麻美。



 生活に困らない程度の収入は、何とか稼げた。

 決して『どん底の状態』などとは言えないのだが、かつて最高の栄光を味わい知ってしまった彼女には、我慢のならない環境だったのだ。

 由貴の音楽性や意思に関係のない、「女を強調する」ようなコスチュームを着せられる。

 それまでは、純粋に彼女の音楽自体に魅力を感じて客が来てくれていたのが、事務所を移ったとたん、彼女の歌はそっちのけでバズーカ砲のような望遠レンズのついたカメラを構える男たちの数が圧倒的に増えてきた。そのような仕事しか取ってこれないマネージャーの矢野に、由貴はいつも不平不満をぶつけた。

「スンマセン、スンマセン」

 矢野は、由貴がヒステリックになっても、真摯に受け止めてなお彼女に仕えた。

 その誠実さ・親切さが返って由貴の神経を逆なでし、由貴はより意固地になっていった。

 由貴がもっとも恐れたのは、マスコミが『あの人は今?』なんて特集で、落ち目になった由貴の現在をほじくり出すことだった。

 彼女は、周囲に対してより神経質になっていった。



 麻美は麻美で、売れていた当時とあまり代わり映えしない曲風の歌ばかり作り続けては、由貴に渡してくる、ということを繰り返した。



 ……だからぁ、これじゃもうウケないんだってば。何で学習しないのかしら!



 他のメンバーが無情にも去ってしまった今、由貴は最後まで残ってくれた麻美に対して決して感謝してないわけではなかった。しかし自分でも不思議なほどに、麻美に対して素直になれなかった。



「今回はね、ちょっと真面目な歌作ってみたんだ。一度見てもらえないかな?」

 麻美はこりもせず、新しい楽譜を手渡してきた。

 よっぽど床に叩きつけてやろうかと思ったが、何とか押さえた。

「私らがいくら曲作ったところでね、事務所がオーケー出すわけないじゃん!」

 由貴は麻美の手から楽譜を荒々しくひったくると、そう憎まれ口を叩いた。

 麻美がしゅんとして、目に涙を溜めているのが分かった。

 自分の醜さにいたたまれなくなった由貴は、麻美をそこに残して走り去った。



 行きつけのジャズバーで酒を体に仕込んだ由貴は、フラフラと店を出た。

 時間の感覚がかなり鈍っていた彼女は、もう終電も出てしまった時刻だということに気付いた。

 さて、どうしたものか——

 ふと、歩道から四車線ある広い道路を見やると、そこに空車の札を上げた一台のタクシーが停まっているのが見えた。



 ……ちょっと高くつくけど、たまにはいっか。



 由貴はタクシーなどお金を気にせず使っていた時の過去の栄光を思い出し、自嘲気味に笑った。



「……そうなんですか。お客さんは歌手なんですね! 私は何せ、若い子の聴くような音楽には疎くてねぇ。知らなくて申し訳ないねぇ」

 運転手は、よくしゃべる陽気で気さくなオジサンだった。

 由貴がまずびっくりしたのは、車内には演歌が鳴り響いていたことだ。

「あ、私の趣味でねぇ。イヤだったら遠慮なく言ってくださいね、変えますから」

 自分の趣味の音楽をかけるタクシーの運転手も珍しい。

 ロックや、最新の流行ばかりを追いかけていた由貴には、逆に面白く感じられたので「いえ、そのままで結構ですよ」と答え、何気に耳を傾けた。

 どうやら、坂本冬美の曲集のようだ。

 ……あ、今流れてるのは私にも分かる。確か『夜桜お七』だ。



「私にゃ、どうも最近の音楽ってのはついていきにくくってね。多分、私は人間が古いんでしょうねぇ。演歌みたくメッセージ性もメロディーもはっきりした分かりやすいものの方が安心するんですわ」

 由貴は考えた。

 今まで、自分に関係のある世界として考えたこともない演歌だったが——

 私の音楽と目指すものが何か違うのか?

  いや、人に聴かせる音楽という点では、同じなはず。

  じゃ、一体どこが違うのか。



「運転手さん。ひとつ、聞いてもいいですか?」

 ふと思い立って、由貴は後部座席から身を乗り出して尋ねた。

「日々のお仕事って、楽しいですか? 毎日ひたすら運転して、人を乗せて降ろして……その繰り返しでしょ? つらいとか思うことってありますか?」

 ゆっくりとハンドルをきりながら、運転手は少し笑った。



「……つらくない、と言えばウソになるかな。そりゃ、ほとんどは人乗せて、大した会話もなく目的地に着いて終わり、っていう繰り返しなんだけどね。

 でもね、乗ってくるお客さんにも、それぞれドラマがあるんだよ。

 例えばね、この前はこれから結婚相手の親に挨拶に行くんだけど不安だ、っていう若い兄ちゃんにアドバイスしたりね。さっき失恋してきた、っていう女の子を慰めたりね。

 一度なんて、車内で急に産気づいた女の人を急遽病院へ送る、なんていう救急車まがいのことをしたこともあったっけ!」



 運転手はそう言って、遠い目をした。

「車がガソリンで動くとするなら、私らはお客さんの『よかった』を原動力に動いていると言えるかもねぇ」

 由貴は、自分のしてきた仕事を思った。

 全盛期も今も、売れてるか売れてないかという違いはあっても、一つのことが同じであった。



 ……どう、私の音楽すごいでしょ? さぁ、聞いてよ! さぁ、感心してよ!  認めてちょうだいよ——



「あんた、歌手なんだろ? エラいねぇ。私らよりも『人を喜ばす』ことでははるかに活躍できるんだからね。うらやましいねぇ」

 由貴は、鉄の棒で頭を殴られたような気がした。

 そしてかなり久しぶりに、歌う側でなく聴く側から発想した。



 ……そっか。音楽聴くのって『そこから良いものを感じて喜びたいから』だよねぇ。

 もし与える側に、聴く人を喜ばせたいっていう動機が初めからスッポリと抜けていたとしたら、どうだろう?



「私はね、こういう言葉を聞いたことがあるんですよ。『人を喜ばせることは愛』なんだってね。

 歌手も俳優もお笑いの人も作家も……何でも人を楽しませる商売ってのは、本当に尊敬すべき仕事だと思うんだよねぇ。

 みんな、生きてりゃイヤなことやつらいこともある。

 でも、感動できる歌なり作品なりに触れたとき、その時はそういったつらいことも忘れて、心ふるわせることができる。

 だからお嬢さん。これからも声の続く限り歌いなよ。

 そして、ファンを喜ばせてやりなよ。オジサン、応援すっから。

 ……あ、でも多分音楽にはついていけないと思うけどね!」



 そう言ってアハハと笑う運転手の後ろで、由貴は声をかみ殺して泣いていた。




 次の日の夕方。

 由貴は、ギターケースを抱え、駅前の広場にたたずんでいた。

 手には、昨日手渡された麻美の作曲した楽譜。

 家に帰ってから、由貴は麻美の作った新曲を死に物狂いでマスターしてきたのだ。



 広場の中央の植え込みの縁に腰掛け、ケースからギターを取り出して構えた。



 ……私の音楽人生は終わっちゃったんじゃない。今日が新しい始まり。



 恥ずかしいとか、人目を気にするなどという感情は、もはや由貴にはなかった。

 麻美の作った曲は、何の偶然か、演歌のようにメッセージ性の強いもので、メロディー自体も素朴なものだった。でも、由貴の胸には、沁みた。



 ……麻美、ゴメンね。あなたのことバカにして。これ、すっごくいい曲だよ——



 由貴は、自分が今からしようとすることがよく分かっていた。

「みんなの心に喜びがありますように。そして、安らぎがありますように」

 万感の思いを込めて、由貴は最初のコードを弾いた。



●「あなたと行けるなら」  


 作詞・作曲:大原麻美 編曲:牧山由貴



♪私は歌おう

 あなたがそばで聴いてくれる限り

 私は叫ぼう

 見えないだけで愛はそこにあるよって



 サラリーマン風の男が立ち止まった。

 まるで、何か懐かしいものを思い出したかのような表情を浮かべて。



♪打ちつける雨

 覆う黒雲

 でも その上では

 いつもと変わりない太陽が輝いていることを



 ペチャクチャしゃべりながら歩いていた三人組の女子高生が立ち止まった。

 「学校で習うような歌っぽいけどさぁ……何かスッゲーよくない?」



♪あなたは教えてくれた

 あなたは導いてくれた

 今こそ その愛に応えよう



 人が人を呼び、50人程度の人だかりができた。

 大人も子どもも、男も女も……聴く者たちの表情は、一様に明るかった。

『私の想い、世界に届け——』



♪私は歌おう

 あなたの温もりがそばにある限り

 私は闘おう

 どんな時にでもあなたを守るために

 そして祈ろう

 あなたに幸せが来るように



 それだけが 私の願い



 由貴は、人に歌を聴かせようとしていなかった。

 一切の気負いがなかった。

 今の彼女をあえて表現するなら「母」だ。

 これは言わば、子守唄だ。

 母が子をあやすように、愛情を注ぐように、音を出している。



 人から人へ、街から街へ——



 由貴の想いは旋律に乗って、どこまでも広がっていった。

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