第29話 そんなに夢中で何してる?

 ―― ごめんなさい! いろいろと夢中になってて、そのまま寝ちゃったら朝になっちゃった。おはようございます! ひより


 ―― おはよう。よく眠れたのかな? あまり頑張りすぎないように


 ―― 大丈夫だよ。八雲さんこそ無理しすぎはだめですよ。では、行ってきます。ひより


「いろいろと夢中になっていた……か。ひよりはいったい、何にそんなに」


 東は顎に指を当てて考えた。夜のメッセージを欠かしたことのないひよりが、昨夜は何かに夢中になっていて忘れていたのだ。それほどにひよりの心を惹きつけているものは何なのか。

 東は顎に添えた指を、今度は右のこめかみに置いた。


「ううむ」


 気になって仕方がないのだ。

 ひよりのことは全て把握しておきたい。それくらいに東はひよりに惚れている。だからこそ年の差を押し切って結婚に踏み切ったのだ。ひよりを何者にも渡したくないからである。たとえ、司令や統幕からの命令であったとしても。

 幸い、他人の恋沙汰に口を突っ込んでくるような組織ではない。特例を除いては。


「ひよりは元気がすぎる」


 東は気にするまいとため息を一つ吐いて立ち上がった。今日も忙しい一日になりそうだと。



「緊急搬送です! 交通事故の親子3名受け入れです」

「了解」


 右折車と直進車のよく聞く交通事故だった。運ばれてくる患者は、父親が運転する車で子どもを保育園に送り届けようとしていた。助手席に母親が座り、運転席後部に子どもが乗っていたそうだ。


「救急車入ります!」

「伊達はレントゲンの準備。橋本と河口は俺と来い」

「「はい!」」

「麻生は救急隊員のこと頼んだぞ」

「了解です」


 東は久しぶりに民間人の治療にあたるため緊張していた。いつもは心身ともに鍛えられた隊員たちばかりを相手にしているためか、民間人の観察にはいつになく慎重だ。

 運び込まれたのは5歳の男児とその両親だった。両親は自力で救急車から降りてきたが、男児はストレッチャーの上で固定されている。

 救急隊員の話によると、男児には骨折の疑いがあるそうだ。


「えっ、自衛隊病院なんですか? ここ。ほかに受け入れてくれなかったんだ」

「他の総合病院と何ひとつ変わりませんから安心してくださいね。橋本、ご両親を先に中に入れて状態確認してくれ」

「はい」


 そして、男児が救急車から降ろされた。


「聞こえるかな? ここは病院です。もう大丈夫だよ。僕はお医者さんだから安心してね」

「イタイよう、お母さん! お母さん!」

「お母さんは向こうで待ってるよ。行こうね」


 親と離れたせいで、男児は泣き叫ぶ。その分意識はしっかりしていることに東は胸を撫で下ろした。



 ◇



 東は救急の対応が終わると、今度は外来に出た。昔は自衛隊の関係者にしか扉を開いていなかった自衛隊病院も、全ての病院がそうではないが一般外来も受け付けるようになった。

 本日、東の担当は外科だ。


「次の方をお呼びして」

「笹田さんお入りください」


 外来の看護師は自衛隊病院の勤務者だ。彼女たちは防衛医科大学看護学科、または一般大学の看護学科を卒業した看護師資格を有する者で構成されている。

 橋本二曹らも看護師資格を持っているが彼女たちとは少し違う。橋本二曹らは駐屯地の衛生科所属で訓練や有事の際に、普通科連隊などと共に出動する。しかし、ここにいる彼女たちの仕事は主に自衛隊病院での勤務や災害派遣、国際派遣など多岐にわたっている。

 当然自衛隊員であるため、定期的に訓練にも参加している。


「こんにちは。医師の東です。笹田さん今日はどうなさいました?」

「また膝に水が溜まったみたいで、痛むんですよ」

「なるほど。少し触りますよ」


 患者の笹田さんは80歳を越えた元気なお爺さんだ。カルテを見るとここの外来に定期的に来ているようだ。家が自衛隊病院に近いのだろうかと思っていたらそうでもなかった。


「先生は身体を鍛えていますね。もしかしてレンジャー徽章持ちかな?」

「えっ。笹田さん分かるんですか? 僕がレンジャー徽章持っているって」

「そりゃ分かりますよ。軍に所属する医官はそれくらいなきゃならん。昔から医官は恐ろしいほどの体力の持ち主じゃろ」

「ほう。なにやら現場をご存知のようですね」

「わたしが陸軍に入隊してすぐに衛生兵に世話になりましてな。わたしを担いで何キロも先の野営地まで運んでくれたのが医官でした。その後すぐに終戦になりましたが、忘れられんのですよ。貴様は死ぬな。生きろ。子孫をしっかり残せと言うてくれて」

「そうでしたか。笹田さんは僕たちの大先輩だったんですね」

「近くに整形外科があるにはあるんやが、どうしてもここがよくてね。わたしの我が儘ですたい」

「そんなことはないですよ。では水を抜きましょう。お薬は前のと同じので良いですか?」

「ええ、ええ。かまいません」


 病院にはいろいろな事情を持った人がやってくる。

 朝、緊急搬送で運び込まれたところが自衛隊病院で驚いた人。もしかしたらハズレを引いてしまったのではないかと思われたかもしれない。

 そしてお爺さんはもしかしたら、昔の思い出を失いたくなくてあえて自衛隊病院を選んでいるのかもしれない。

 特に意識していない人、仕方なく来ている人、あえて選んできている人。中には自衛隊によくないイメージを持った人もいるだろう。それでも助けを求める患者にかわりはない。

 来た時よりも帰る時は少しでもいいから症状が軽くなってほしいし、気分が晴れて欲しい。

 東たちはそう思いながら働いていた。


 そんな忙しい日々が10日ほど続いたある日のこと。


「東二佐、週末は交代の医官見つかりそうですよ」

「ということは、僕、自宅に帰れます?」

「はい、きっと」

「そう。それはよかった」


 東の心も晴れ始めていた。



 ◇



 金曜日の夕方。


 ―― ひより、急ですまない。今夜帰ります。



 ひよりは帰宅途中にスーパーにより、家路についていた。夫からのメッセージにはまだ気づいていない。

 今週末はどうやって過ごそう。最愛の夫に会いたいけれど、それを口にすると寂しさが増すので絶対に言わないことにしている。


「ただいま」


 買ってきた食材を冷蔵庫に入れて一息ついたところで、バッグからスマートフォンを取り出した。そこにメッセージが来ていることに気がつく。


「あっ、八雲さんから?」


 その時。


 ピンポーン!


 来客の知らせがあり、ひよりはモニターで確認した。


「はい」

『◯◯運輸です』


(あっ! 来たかも!)


「ドアの前に置き配でお願いします!」

『わかりました。置いたらインターホン押しますね』


 そう、ひよりが何日か前に迷いに迷って通信販売で購入した例の物が届いたのだ。ひよりは玄関のインターホンが鳴るのをドキドキしながら待った。

 サイズは合っているだろうか。本当に自分はそれを着るのだろうか。しかも、夫の目の前で。


 ピンポン♪


 ひよりは胸のドキドキを感じながらドアを開けた。小さな段ボールがそこに置かれてあった。

 ひよりはそれを急いで回収すると、寝室へ一直線に走った。はやる気持ちを抑えられずに、手でテープを剥いだ。

 箱を開け、ビニール袋で丁寧に包装されたそれを手に取ると迷うことなく中身を取り出した。


 上下セットの白いそれ。


「ちょっとやばいかも……試着、してみよう。おかしかったら絶対に着ない。こっそり処分しちゃえばいいし」


 独り言を言いながら、ひよりはただ無になって着替える。難しいものではない。下はスリムのパンツスタイル。上は形はチュニックだが前でボタン止めするタイプのもの。ただ、その服は一般的なものではない。伸縮性もあり、軽く、動きやすい機能性に優れた素材。ポケットも深く、小道具は全部入りそうだ。


 ひよりは姿見で着替えた自分を確かめた。


「うわー。悪くはないんじゃない? 髪は後ろで纏めてみよう。よし! ほら、それなりに見える! 知らない人がみたら、わたしも立派なナースよ!」


 わたし結構似合うじゃない? そんなふうに思えてきたひよりは少し余裕の笑みを鏡に見せる。後ろ姿、横からの角度、屈んでみたり、真っ直ぐに立ってみたり手を腰に当ててみたりとまるでモデルのようだ。

 通信販売で購入したのは、医療従事者が着るユニフォーム、ナースウェアだ。


「これで敬礼とかしちゃうんだから」


 見様見真似のなんちゃって敬礼を右手で行った。ひよりがそこそこ満足した時だった。突然、背後から気配と共に声がかかったのだ。


「ただい……」

「キャーッ!」


 驚いたひよりは振り向きざまに床にへたり込む。そこに居たのは居るはずもない夫、東八雲であった。


(えっ! なんで! うそ! 八雲さん⁉︎)


 お帰りの一言も出ないくらい、ひよりは腰を抜かして呆然としていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る