第28話 甘えてなんかいられない!
翌朝。
「どうしてこんなにかっこいいの? ねえ、八雲さん。こんなにかっこよかったら患者さんが八雲さんのこと好きになっちゃうじゃない」
ひよりはベッドに寝っ転がりながら、橋本二曹から送られてきた写真を相手に独り言だ。
「待って! 患者さんじゃない。看護師さんや他のお医者さんからも……⁉︎」
ひよりは何を思ったか、勢いよく起き上がって洗面台に走った。鏡に映る自分の顔を見て眉間に皺を寄せる。
自衛隊の官舎に住むひよりは、いつも生活圏に自衛官がいる。東の人柄があってか周囲の人々はひよりにとてもよくしてくれる。安達陸曹長の夫人からは特に気にかけてもらい、一人で家を守る自衛官妻のノウハウを教えてもらっている。
しかし、ひよりは今回の東の仕事姿を見ると頬を叩かれたような気分になった。自分はどれほどこの環境に守られて甘やかされていたのかということに。
「こんなんじゃ、ダメよ! わたし甘えすぎ! 八雲さんは大変なお仕事をしているというのに、わたしときたらっ」
結婚しても仕事を続けなさいと東はひよりに言った。専業主婦になる必要はない。家庭は一緒に築くものだ。できる人がやればいい。できない時は甘えればいいと。
「八雲さんの優しさをまに受けて恥ずかしい。わたしも負けていられない。こんなんじゃ、八雲さんを取られちゃう! 自分を磨かなきゃ!」
ひよりの何かに火がついた。
このままではいけないと、妙に力んで気合を入れる。頬をパンパンと叩いて、いつもよりも早めに会社に向かうのであった。
◇
―― おはようございます。今日も一日がんばってくださいね。わたしもお仕事をしっかりして来ます。ひより
朝礼前にひよりからのメッセージを受け取った東の顔は、何とも言えないほどに緩み切っている。家を空けているときは、朝と夜に必ずこうしてメッセージのやりとりをするのだ。
「ひよりは本当にいい子だね」
―― おはよう。僕も仕事、頑張るよ。
定型文に近い内容の一見淡白なやりとりは、ひよりなりの自衛官の妻としての気遣いなのだ。
夫が今どこで、何の仕事をしているのか詮索しない。突然家を空けるのも、突然休みになるのも文句は言わない。いつ帰ってくるのか、誰と一緒にいるのか、会いたいとか寂しいとか、そう言った感情をひよりは文面に出さなくなった。
妻の成長を嬉しく思う反面、東はどこか寂しさを覚えた。
「帰ったらたくさん甘やかさないといけないね」
東がひよりに甘いのは、ひよりが普段から頑張っていることを知っているからだ。
「隊長、そろそろ宜しいでしょうか」
「うん。すぐに行こう」
◇
昼休み。
「課長、先にお昼休憩に行ってきます」
「はいはい。ごゆっくり」
中小企業で働くひよりは総務として採用された。しかし、大手とは違い仕事内容に明確な線引きがない。人手が足りないので、総務とはいえ経理の補佐もするし、営業のアシスタントもする。
どちらかと言うと営業のアシスタントの方がメインに近い。取引先からの電話対応、見積依頼の受付、受注確認、発注伝票の処理。本来の総務の仕事はもっぱら月末に集中して行っていた。
「西さんごめん! 昼休み終わったら名刺の発注お願い! 来週から出張なのに、手元に10枚しかない」
「300でいいですか? それからそろそろ
「わー、ごめん。東さん! 300でオッケー」
「他に名刺の発注ないですか? もしあったらメモ残しておいてください」
ひよりは10年近くこの会社で働いている。結婚して一年も経たないので、上司や同僚はつい旧姓でひよりを呼んでしまう。
本当は面倒だから仕事では旧姓で通してもいいかと思っていた。でも、ひよりはその考えを改めた。
夫婦別姓を訴える世の中になったし、そういった選択肢があってもいいとひよりは思っている。
でも、ひよりは夫の姓を名乗ることに躊躇いはなかった。だったら、仕事においても東でいようと。
なによりひよりは夫の姓にこだわった節がある。夫は一般の人よりも命の危険性が高まる仕事をしている。今は何もないけれど万が一有事が起きた時、夫は真っ先に飛び出すのだ。危険な現場で苦しむ人々を救う医官という仕事をしている。
結婚して最初に驚いたのは生命保険の掛金の高さだった。これでも他の科に比べたら安い方だよと夫は言った。それくらい危険度が高いということだ。
考えたくはないが、もしもの時に妻であることをすぐに証明して駆けつけたい。そういう思いも東姓を名乗りたいと思ったことのひとつだ。
だからひよりは、首から下げた総務課東ひよりのネームプレートに触れては心を落ち着かせている。
(心は八雲さんのそばにいる。わたしもがんばるからね)
「東くん! わたしのも追加で頼みます」
「はーい。午後イチで発注かけておきますねー!」
東ひより。
たった一文字の東の姓が、ふたりの繋がりを証明してくれているようで嬉しい。心はもとより法律で二人は繋がれていることの安心感を実感していた。
「いただきます」
ひよりは休憩室でお弁当を開いて手を合わせた。
今はレンジで温めるだけの美味しいお弁当やおかずがたくさん増えた。これまではそれで満足だった。でも、最近はいちから作ったおかずを必ず一品入れることにしている。自分用に作って確認しているのだ。
「うん、美味しい。でも、もう少し味付けでもいいかなぁ……八雲さんなら生姜を入れる?」
和洋問わずに何でも作る東に勝てるとは思えない。それでも、ひよりにしか出せない味がある。
「今度、若菜さんに相談してみようっと」
困ったときの若菜さん。
安達陸曹長の夫人が今のひよりの母親のような存在だった。
―― 今日のお弁当です。ひより
―― 美味しそうだね。ひよりの手料理が食べたいな
「あっ、今日は早い」
返事は来ない前提でメッセージを送っていたひよりは、思わず声を漏らした。
―― 休憩時間ですか? レパートリーが増えそうなので楽しみにしていてくださいね。ひより
―― 楽しみだなぁ。午後からも頑張れそうだ。
―― うん。がんばってね! ひより
たまに、こうして昼休みにやりとりができる時がある。とても貴重な時間だ。
でも、メッセージのやりとりは2、3度行えばそれ以上は送らない。
「里心ってこんな感じなのかなぁ」
たくさん話したいことがある。もっと他愛のない話を続けたい。きっと東ならギリギリまで付き合ってくれるだろう。でも、これはケジメだ。
これ以上続けると、甘えが出てしまうから。
「もう一回、写真見てから……あーん、かっこいいよう。会いたいなぁ。早く、会いたい」
橋本二曹が送ってくれた東の写真を目に焼き付けて、ひよりは空のお弁当箱をしまった。
医官である夫を誇りに思いながら――
「看護師さんたちにはあげないんだから!」
ひよりにとっての一番の心配は看護師たちの目である。夫の心が揺らぐとは思ってもいない。ただ、そういう目で見られているかもしれないことに勝手に嫉妬しているだけだ。
「わたしだって、ナース服着ようと思えば着れるんだからねっ。あなたたちには負けないから!」
敵は本能寺にあり!
とは違うが、ひよりの心にいっそう力が篭ったことは言うまでもない。
◇
その日の晩。
夕飯もお風呂も済ませたひよりはなにやら真剣な顔をしてパソコンに向かっていた。
―― お疲れ様。ひよりは今日、どんな一日だったかな?
スマートフォンはベッドに埋もれており、東からのメッセージに気づかない。
「便利よね。なんだってインターネットで買えちゃうんだから。えっと、ワンピースタイプ? でも今どき古いよね。チュニック! これは可愛いかも。それにできる人って感じよね。確か、うん。そうだ、こんな感じのだわ。これにしちゃおう」
それはそれは真剣に吟味してポチポチした。
負けていられない。そんな気持ちが膨らみすぎた故のある種の暴走。
しかし、誰にも迷惑をかけるものでもない。
ただ一心に。
「八雲さん! わたしが癒してあげるからね! 看護師さんなんかに頼らないでね!」
愛する夫のために。
「よし! 到着は……10日後くらいね。オケ!」
―― 頑張り屋のひよりは疲れて寝ちゃったかな。おやすみ、ひより。
ベッドの中でひよりのスマートフォンが寂しげに夫からの通知を知らせていた。
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