第30話 かわいい嫉妬は大歓迎

「ええっと……驚かせてすまない。メッセージは送っていたんだけど、まだ見ていなかったかな」


 東は優しくそう言いながら、座り込んだひよりのそばにきて手を差し伸べた。


「八雲さん。おかっ、お帰りなさい」

「ただいま。さて、立てるかな?」


 ひよりはうんうんと首を何度か縦に振ると、東が差し出した手を取った。ひよりはぎゅっと握り返してくれるその感触がたまらなく愛おしくなって、勢いに任せて抱きついた。


(八雲さんだ! 帰ってきた、嬉しい!)


「これはまた、ずいぶんと熱烈な歓迎だ。ひよりはいい子にしていた?」

「もう、子どもじゃないです。でも、ひとりでちゃんと生活していましたよ」

「そうか。さすが僕の妻だ。突然の帰宅にも文句は言わないしね」

「メール見てなくてごめんなさい。帰ったばかりでまだバッグ開けてないの。でも嬉しい! 八雲さんっ帰ってきた」


 ひよりは夫の帰宅が本当に嬉しくて、抱きついた腕に更に力を入れた。目の前の夫は時々見かける紫紺色の制服姿だ。しかし、ひよりの脳内には医師の姿をしたあの東だった。もう、胸がキュンキュン鳴いて疼いてどうしようもない。


「よっぽど気分が高揚しているんだね。ナースのひよりさん」

「ナースだなんて、なに言っ……あっ、やっ、こここここ、これはっ!!」


 東の帰宅に喜んで、自分が何をしている最中だったのかをすっかり忘れていたのだ。今さら両手で隠しても遅い。目の前には首を傾げて意味ありげににっこり笑う夫がいる。


(ダメダメダメ! 恥ずかしすぎる! わたしってばなにやってるの!)


「着替えます! ごめんなさい。あ、夕飯簡単なものでいいですか? 材料はあるから、だからっ」

「おっと、暴れないでくれよ。もう少しこのままでいたいんだよな。毎日けっこう大変でさ」

「八雲さん?」


 いつもは切り替えが早い東だが、本当に疲れているのかひよりを抱き止めたまま離そうとしない。それどころかひよりの肩に顔を預けくったりとしてしまった。

 こんな東の姿はなかなか見ることがないので、ひよりは暴れるのをやめた。

 そっと両手で東の頭を包み込むように囲い、髪をくしゃりと撫でた。


(こんなに疲れちゃって……わたしが、癒してあげないと)


「大変だったんですね。わたしにできることなら何でもしますから、先ずはお夕飯食べません? 体力は落としちゃダメなんでしょう? 医官さん」

「そうだね。じゃあひよりに夕飯をお願いしようかな」

「はい任せて。そうだ、着替えたらお風呂に入ってください。それまでにお夕飯整えておきますから」

「うん、そうさせてもらう。そのナース服、脱いじゃうの?」

「脱ぎますよ! ちょっと、着てみたいなーって思っただけだし。お家の中までお仕事みたいになるの嫌でしょ? さあ、立ちましょう! お着替え! お着替え!」


 ひよりは残念そうな顔をする東を見ないようにして、素早く部屋着に着替えてエプロンをつけた。背中に変な汗をかいてしまったが、東は特に気にしていないようだ。


(いろいろ聞かれなくてよかった!)


「ひより」

「はいっ」

「俺、月曜日からはまた出張なんだ」

「了解です」

「楽しみにしているよ」

「うん?」

「俺とひよりで過ごす週末」

「わたしも、すごく嬉しいよ」

「二人でいい週末にしようね。ひより」

「はいっ! ……ぇ」


 東が纏う空気が先ほどのものと一変した。ほんの一瞬弱みを見せてくれたように見えた東だが、今はその表情から攻めの匂いが漂っている。


(俺って、言った? 気のせい、よね。なんだかピンチな展開が待っていそうな……ううん。そんなことない、大丈夫よ)


 そう、東が口にする「俺」には要注意なのである。



 ◇



 今夜の献立

 生姜焼きにキャベツの千切りとミニトマト添え

 里芋の酢味噌和え(若菜さん直伝)

 玉ねぎとワカメのお味噌汁

 白ご飯


「美味そうだなぁ。ぜんぜん簡単じゃないじゃないか。うん? 里芋の上に刻み柚子が乗っているね。いい香りだ。僕の知らないところでひよりが成長していく。嫉妬しちゃうなぁ」

「嫉妬? いったい誰に嫉妬するんですか」

「そりゃ決まっているだろう? 安達夫妻にだよ」

「えー、変なの」

「僕が手取り足取りゼロから色々と教えるはずだったんだ。それなのに若菜さんときたら、ひよりをすっかり独り占めだ」

「若菜さんがいなかったらわたし、寂しくて実家に帰ってたかもしれませんよ?」

「それはそれで困る。仕方がない。若菜さんだけは許すとしよう」

「うふふ。八雲さんたら子どもみたい」

「何だって? 分かった、今夜は子どもじゃないところを見せてあげるよ」

「なに言ってるんですか。今夜は疲れを取るためにも早めに寝ましょうね」

「俺が早く眠れるように、ひより、頼んだよ」

「ええ、それはもち……ろ、ん」


 子どものような嫉妬をしたそばから、もう大人の男が顔を出す。「俺」に色がついていたのをひよりは気づいてしまう。すっかり忘れていたがこの医官、体力に底はないのである。


「美味しいよひより! 和食はひよりには勝てないかもしれないなぁ。おかわりしてもいいかな」

「はい、喜んで!」

「食べ終わったら片付けは僕がするから、ひよりはお風呂に入っておいで。ひよりも仕事で疲れているだろう」

「八雲さんに比べたらぜんぜん疲れていませんよ」

「比べる必要はないんだよ? 僕も君も同じくらい疲れているんだ」

「じゃあ、食べたらお風呂にします。お片付けお願いします」

「うん。ゆっくり浸かるんだよ」


 久しぶりに二人で囲む食卓は、やっぱり楽しい。

 結婚してからも忙しく新婚旅行は叶わなかったけれど、ひよりに不満なんてなかった。

 ただこうして、愛する夫が元気な姿で帰ってきてくれて、一緒にご飯を食べられるだけで幸せな気持ちになれるから。


(わたし、幸せだなぁ)



 ◇



「待って、八雲さん。なんでっ」

「なんでって、ひよりの気持ちを遠慮なく頂戴しようと思っているだけだよ」

「いや、まだ着るって決めたわけじゃ!」

「ずいぶんと似合っていたじゃないか。それに、ひより自身まんざらでもなかった様子だったけどね」

「それはー、そのー……」


 お風呂のドア越しに二人はなにやら押し問答。

 なぜなら、ひよりがパジャマを着ようと脱衣室のカゴを覗いたらそこにはパジャマではなくナースのユニフォームが置かれてあったからだ。

 そう、東が勝手に入れ替えてしまったのである。


「まさか自己満足して終わりかい? ひよりのナース姿なんてこの先拝めないんだよ。僕の心を癒してくれようとしてくれていたんだよね? 違ったかな」

「違わないよ! わたし八雲さんを本物の看護師さんに取られたくないんだもん」

「取られたくないって、どういうこと?」

「自衛隊病院って、普通の看護師さんが働いていますよね? 橋本さんとか、河口さんとは違う、女の看護師さん! ……あっ」


 しまったとひよりは手で口を押さえた。しかしそれは後の祭りだ。ドアの向こうで嬉しそうに口元を歪める医官がひとり。

 ひよりの嫉妬に大変喜んでいるのだ。


「そうか、そうか。確かにそうだな。駐屯地の医務室とはまったく異なる世界だからね。自衛隊病院で働く医師や看護師たちはひよりの想像した通りの医療従事者だ。独身者もたくさんいるしね」

「えっと、その。別に八雲さんが浮気するとかそういう心配をしているのではなくてですね」

「当然だよ。僕がひより以外の女性にどうこうなったりはしない。ひより一筋だからね」

「八雲さんがいくらわたし一筋でも、周りはそうじゃないんです。八雲さんのあんなにかっこいい姿を見たら、誰だって」

「僕の、どんな姿を?」

「迷彩のでもなくて、黒い制服でもなくて。お医者さんのあれ」

「ははーん。なるほど、合点がいったよ。ひより、出ておいで。心配ないことを証明してあげよう」

「証明?」


 ひよりはほんの少しだけドアを開けて、東の顔を見た。そこにはいつもの優しい笑みがある。


「さあ、おいで」

「でも、まだ裸なので」

「構うもんか。俺が、着せてあげるよ。観念しなさい」

「えっ! や、八雲さん!」

「さあ、ひより。いい子だね」


 東の「俺」にひよりは抵抗できない。愛する夫はすでに体中から大人のお色気を大放出している。何を言ったって、どう足掻いたって抗えないのだ。

 そう、その色気に当てられるとひよりは魔法にかかったように彼の腕に引き寄せられる。


 目下、いちばんの悩みである。


「やっぱり似合うじゃないか! 自衛隊うちのナースよりもナースだぞ!」


 いつもよりトーンの高い声で喜ぶ夫を、ひよりは後悔の念に苛まれながら受け入れるのである。


「ひよりはかわいいね。週末はゆっくり過ごそうね」

「八雲さん、お手柔らかにお願いします」


 全ては夫を同業者に取られたくない! 癒すのは妻である自分だと息巻いて、このナースウェアを買ったことが引き起こしたのである。


 ひより、万事休す。

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