第22話 そして合言葉は「レンジャー!」

 テープが再生され、シンと静まり返ったリビングに響いたのは「レンジャー!」の叫び声だった。

 てっきり始まりますよの意味が込められた、タイトルが流れる思った矢先の事だった。

 ひよりはお約束のごとく、肩をビクンと跳ねさせた。


「はやく走れよ!」

「レンジャー!」

「置いていかれたいのか! もう、やめるかっ。ああん⁉︎」

「レンジャー!」

「伝わらないんだよっ!」

「レンっ、ジャー‼︎」


 兎にも角にも、返事は全てレンジャーと叫んでいる。

 どんなに大声で叫んでも、教官は聞こえない、伝わらないと突き返す。それでも訓練学生は教官に食らいつくように、叫ぶ。

「レンジャー!」と。


 ひよりは食い入るように、テレビの画面を見つめていた。



 ◇



 ※選ばれた者たち


 全国から集まった陸上自衛隊員二十五名。

 レンジャー訓練は、事前に資格検査に合格した者しか受けることが許されない。ここにいるのは、各部隊で行われた体力検査、水泳検査、身体能力検査の厳しい試験に合格した選ばれし者たち。

 彼らはレンジャーの訓練学生となり、約三ヶ月の訓練に挑む。無事、卒業すればレンジャーの資格を得ることができるのだ。


 レンジャーは、有事の際に困難な任務を与えられ、主力部隊からは離れた最も危険な敵陣に侵入し、作戦を攻略しなければならない。隠密に行動するため、仲間から補給や援助が受けることができない。限られた人員で、与えられた僅かな時間内に作戦を決行する。ミスは絶対に許されない。

 体力も精神もどの部隊よりも優れた精鋭部隊なのだ。


「レンジャー!」


 容赦なく助教という指導員から怒号が飛ぶ。叱責も褒めの言葉も、それに返す言葉は「レンジャー」だ。

 何を好き好んでレンジャー訓練に挑むのか。それは隊員それぞれの胸にある。


「尊敬する先輩がレンジャーだからです!」

「自分は入隊当初からレンジャーになることを目標としておりました!」

「国を守るために、強い男になりたいからです!」

「自分の力を試したいからです!」


 レンジャーになるために、願をかける者もいる。


「レンジャーになるまで、結婚式をあげません」

「レンジャーになるまで、彼女に会いません」

「レンジャー徽章をもらうまで、合コンには行きません」


 これは大真面目な願掛けなのだ。


 整列した隊員たちは体格がいい。しかし、いいとはいえ、欧米人に比べたら自衛官はあまりにも小柄だ。

 中には大柄な隊員もいるが、ほとんどが一般的な日本人の体格といえるだろう。稀に、身長が一六〇センチにも満たない者もいる。そんな彼らが、過酷なレンジャー訓練に挑むのだ。


「目標! 脱落者、なし! 全員で、卒業するぞー!」

「レンジャー!」



 ※諦めない


 訓練の課程はおよそ三ヶ月。基礎訓練を二ヶ月間行い、最後の一月は仕上げの行動訓練へと移る。

 その基礎訓練は妥協を一切許さない。腕立て、腹筋、懸垂は通常の倍の回数をこなし、時に小銃を背負ったまま行う。

 目標回数がクリアするまで止めることはできない。何度も挑むがその度に体力は減り続ける。一度目でクリアできなければ、延々と苦しみ続けるしかないのだ。


「おらぁ! 田中ぁ、やめんなよ! もう諦めるのかっ。ああっ⁉︎」

「やめませんレンジャー!」

「だったらやれよ! 腕曲がってねーぞ」

「レン、ジャー!」


 何度挑んでも鉄棒から落ちてしまう。二十回で済む懸垂も、途中で落ちたがために何十回と挑んでいる。握力は落ちるばかり。歯を食いしばっても、体は持ち上がってくれない。


「もういい、やめろ」

「レンジャー!」

「手を離せって言ってるだろう!」

「やめませんレンジャー!」


 誰が見ても田中には、もう体力は残っていないと分かる。それでも田中は握った指を開かない。ずっとぶら下がったままでいるつもりか。手のひらのマメはとうに破けて血だらけである。

 そのとき、目標達成済みの同じく訓練学生である橋本が田中に並んで鉄棒にぶら下がった。

 彼は田中と同じ班員なのだ。


「田中ぁー! レンジャー!」

「レンジャー!」


 助教は橋本の行動を制することなく黙って見ていた。田中の隣で懸垂をする橋本。その橋本を見て田中は「レンジャー!」と叫びながら腕に力を込めた。

 田中は落ちることはなかったが、腕を曲げて体を上げることはできない。

 全く懸垂になっていないのだ。

 それでも助教は何も言わずに仁王立ちで二人を見ていた。

 橋本は目標の回数と、さらに田中の回数分も達成した。


「田中ぁ! 貴様、合格だ!」


 助教はぶらりとぶら下がったままの田中にそう言った。田中は目標回数を達成していないにも関わらずだ。

 田中はようやく、鉄棒から手を離した。崩れ落ちるように地面に突っ伏す。それを橋本が肩を抱えて立ち上がらせた。


「レンジャー!」

「レンジャー!」


 レンジャーに最も必要とされることは、諦めないということなのかもしれない。もう駄目だ。そう思った瞬間に負け(死)が決まってしまう。助けなど来ない敵陣に潜んで作戦を決行する彼らは、自分たちだけで全てを解決しなければならないのだ。


 二人を見届けた助教は、少しの休憩時間を告げて彼らに背を向けた。



 ※道無き道を行け


 基礎訓練は筋トレだけではない。与えられた任務を遂行するために、技術も必要となる。

 目標地点に向かって、いかなる状況下でも人知れず進まなければならない。例え目の前に川があろうと、岩があろうと、雑木林が立ちはだかろうと、ひたすらに前に進むだけだ。


「マルフタサンマル(二時三十分)、敵地の電波塔破壊する」

「レンジャー!」


 時間厳守である。

 少しでも遅れれば、他の部隊の作戦に影響する。失敗は絶対に許されない。

 敵に姿を悟られないよう、草木を頭や体に巻きつけて、顔は山の風景に紛れるようにドーランを塗る。


「耳の中も忘れんなよ!」

「レンジャー!」

「貴様、死にたいのかっ! ここも塗れよ!」

「レンジャー!」


 作戦を決行し、離脱。全員が無事に帰ってきて初めて成功となる。一人も欠けてはならない。助教の厳しい指導は手を緩めることを知らない。

 背負う背嚢は弾薬などの作戦に使う装備品のせいで、重さ約四十キロにもなる。それに加えて四キロほどの小銃を肩から下げる。それらを背負って、道無き道を進むのだ。


「走れー!」

「伏せろ!」


 足手纏いは死に直結してしまう。訓練学生はみな必死だった。訓練に天候は関係ない。突き刺さるような日差しも、叩きつけるような雨も、彼らの足を止めることはなかった。


「やべ、俺なんか食ったわ」

「なんかって、何だよ」

「苦い汁みたいなの、口の中にある」

「バカ、吐き出せよ」


 命令があるまで微動だにできない彼らは、目の前を蛇が横切ってもただ見ているだけだ。土にまみれて伏せながら、合図に従い前進すると、得体の知れないものが鼻や耳、口の中に飛び込んでくるのだ。


「いや……はずみて飲んだ。もうアレは食道通過、現在地は胃袋だ」

「うげぇ……こっちまで気分悪いわ」

「おい、おまえ。瞼に何か止まってるぞ……」

「くそっ、払えないのをいいことに。なんか、痒いんだけどっ」

「無になれ」


 じっとしていれば、噛まれたり刺されることはない。無になれ、己は草だ、枝だとやり過ごすのだ。


「りだーつ!」


 どこにこれだけの隊員が伏せっていたのかと、驚くほどの人数が草の中から現れた。そして、一斉に散っていった。

 毎日が泥と汗と、得体の知れない汁にまみれていた。



 ※唯一の癒し


「うわぁ、自分くっせー!」

「全部が臭すぎて、なにがなんだか分からんな!」

「おい! 湯に浸かる前に洗ってから入れよ!」

「ういーっす」


 彼らを癒すのは、一日の終わりに許された風呂だけだった。そんな唯一の安らぎの空間にも、助教は容赦なく入ってくる。


「ゆっくり浸かれよ」

「あざーっす(ありがとうございます)」


 この時ばかりは厳しい助教も文句は言わない。

 助教たちが訓練学生と風呂に入るのには理由があった。

 訓練中に怪我などしていないかを確かめるためだ。どんな要求にも返す言葉は「レンジャー」。何があっても耐え抜く彼らは、怪我をしていてもなかなか申告しない。助教や教官は学生たちの命を預かっている。

 訓練課程で、大事な人材を失ってはならないからだ。


「田中のマメはどうなった」

「あ、全部剥けました。けど、大丈夫です」

「どれ、見せてみろ……うお。あとで衛生隊のところに行け。命令だぞ」

「はいっ!」


 過酷すぎて、常に緊張しているせいもあり、痛みを感じないこともある。助教はそういった彼らに変わって、身体の管理もしてやらなければならないのだ。


「じゃ、俺らは先に上がる。のぼせるなよ」

「レンジャー!」

「おおいっ、風呂では叫ぶな。鼓膜がやぶれんだろー」

「ガハハハ」


 一日の終わり、せめて眠りにつくまでの少しの時間は笑って終わらせてやりたい。鬼のような助教だって、かつては同じ訓練を耐え抜いて、レンジャー徽章を受領したのだ。誰よりも彼らの気持ちは分かる。

 だからこそ、いっそう厳しくいられる。決して冷酷なだけの上官ではないのだ。



 ◇



 そこまで見たひよりは、テーブルに置かれた紅茶に口をつけた。ごくんと飲み込むと、爽やかなオレンジの香りが広がった。

「ふう……」と、ため息をつくと、まるで自分も一日の訓練を乗り越えた気分だった。ひよりの様子に、安達がビデオを止めた。


「少し休憩しようか。まだあと、一時間はありますよ。それに、そろそろ腹を空かせた野郎がくるので」

「あ、はい」


 すると、待っていたかのように玄関があわただしくなった。

 安達の妻がドアを開けると、二人の若い男性が入って来た。


「陸曹長、おじゃまします!」

「おじゃまします! あ、東二佐のっ。初めまして! 自分、通信科の……」

「おおいっ、増田おちつけ。驚かれているだろ」

「あ、すみません」


 二十代後半だろうか。背の高い、思ったよりも細身の二人の自衛官は、申し訳なさそうに腰を下ろした。

 ひよりはくすりと笑いながら、二人に向き直った。


「初めまして。西ひよりと申します。東さんや安達さんに、大変お世話になっております。あ、昨夜の!」

「昨晩はどうも。通信隊の久世拓海くぜたくみと言います。こっちは、増田和弘ますだかずひろで同じく通信隊です。本当はもう一人、幸田学というのがいるんですが……」

「初めまして、増田です。先程は失礼しました。幸田っていう、同期の小隊長がいるんですが最近彼女のことで忙しいみたいで」

「あっ、そうなんですね」


 衛生隊も通信隊も何となく似た者同士に見えてしまう。さっきまで見ていたレンジャー訓練に参加していた隊員よりも、なんとなく物腰が柔らかい気がする。それでも、肌はいい具合に焼けていた。


「よし! とりあえず飯だ。お前ら手伝え」

「はい!」

「あ、私も!」


 ひよりは今日こそは遅れをとってなるものかと、彼らを追って安達の妻の隣を確保した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る